霧の中
「お姉様!」
梓は目を閉じて衝撃に備える。しかしいつまで経っても痛みは訪れない。
「は、るき…」
千春の悲痛な声が耳に届いて目を開ける。
「…遥希」
「馬鹿だなあエゼル。どうせ姉貴のこと聞いたか調べたかしたんでしょ? でも残念。お前はもっと、俺たちのことも警戒すべきだ」
梓の前には遥希が立っていた。霧を纏った彼は、エゼルから見たら梓しかいないように見える。ティーシャツを赤く染めながら、遥希は挑発的に笑う。
「お前は俺のことも烈のことも、もちろん千春のこともよく知ってる。Lancelotの能力を考えて、碧流と姉貴が危険だと考えたんだろうけどさ」
霧が濃くなった。梓の視界にもエゼルの視界にも、遥希は映らない。
彼は笑う。血の匂いを纏ったまま、梓と千春を守るように立って。
「俺らのことももっと気にした方がいいよ。まだ未覚醒なんだから!」
「…ッ、『五月雨』!」
声と共に、周囲の空気が凍る。梓は霧でよく見えない視界に臨戦態勢を取りながら、音のする方へ進もうとした。
血の匂いが気持ち悪い。それでも、真っ赤に染まるシャツを見て、エゼルに立ち向かわないわけにはいかなかった。
彼の発動した能力が、地面に叩きつけられる音がする。それを頼りに一歩を踏み出した途端、腕を掴まれ真逆の方向に引き摺られた。
「…千春?」
「はい、お姉様」
「千春、無気力さんは」
「…一旦引きましょう、お姉様。火力の足りない今、この状況はあまりにも分が悪すぎます」
「千春」
「…あの、遥希が作った時間です。逃げましょうお姉様」
千春に腕を引かれる。つまずくように動き出した足は、エゼルの音がする方角とは真逆に進んでいく。
音が遠ざかる。千春の足は止まらない。
「千春、待って、無気力さんが、遥希さんが来てない。血が出てた、連れて帰って治療しなきゃ」
「…大丈夫です。あいつは本当にしぶといので」
「でもッ」
千春はそれっきり口を噤んだ。背中を向けている彼女の顔は見えない。梓は何度も千春を呼んだ。しかし返事をすることも、止まることもなく、二人は『蜃気楼』の範囲外まで来た。
陽が落ちた暗闇の中、ようやく止まった千春の手を握ったまま振り返る。
いつの間にか、背後にすら霧はなかった。
「…はるきさん…?」




