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半血魔王のクロニクル<年代記> ~魔界で一番外道な貴公子~  作者: 古弥須 凱
第一部 黒き貴公子と贖われぬ花嫁
44/45

42話 饗宴<サバト> 下

挿絵(By みてみん)



アスモデールは、ゆっくりとリーザを生贄台に横たえ直した。


その爪先が、ゆっくりと彼女の下腹に近づく。


「今こそ……俺の名を、永遠に刻もう」


厳かなる署名――悪魔の刻印。


魔界の古い儀式に従い、アスモデールが爪を沈めようとしたその瞬間。


ドンッ!という鈍い音をたてて、電光のような黒い閃光が、血の海から迸った。


ルシエルの残った右手から放たれた最後の魔弾が、アスモデールの手首を正確に捉え、肉と骨を粉砕しながら吹き飛ばす。


鮮血が飛び散り、爪が宙を舞う。


「…………くすぐったい」


アスモデールは眉一つ動かさず、即座に肉体を再生させた。


吹き飛んだ手首から黒い魔力が渦を巻き、瞬時に元の形に戻る。


彼は嘲るようにルシエルを見下ろした。


「最後のあがきか、半血(ハーフブラッド)。……可愛いものだな」


だが――その言葉が終わらないうちに、流れ弾だったはずの黒い電光が、奇妙に増幅し始めた。


一発、二発……いや、数十発。


ルシエルの周囲で、次々と生まれる黒い閃光が、サバト会場の悪魔たちを無差別に貫き、焼き、引き裂く。


悲鳴が上がり、絶叫が響く。


貴賓席の令嬢たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、観客席の魔族たちが次々と倒れ、血と肉片が飛び散る。


古城の塔が、黒い電光の衝撃で傾き、崩落する石塊が下にいた悪魔たちを押し潰す。


轟音と粉塵がホール全体を覆い、ルシエルの放った黒い雷鳴は、不吉な魂(バンシー)のようにサバト会場を咆哮する。


「なんだと……?」


アスモデールが初めて、声に苛立ちを滲ませた。


彼の視線の先……血の海から、ゆっくりとルシエルは生まれ変わった。


崩れた古城の瓦礫と、魔族たちの断末魔が響く中、彼の体は赤黒い血の膜に包まれながら浮き上がる。


濡れた髪が頰に張り付き、長い睫毛に血の雫が光る。


紫の瞳は、黒い炎を宿しながらも、かつての優美な輝きを失っていない。


唇は血に染まって深紅に濡れ、完璧な輪郭の顔立ちは、痛みと憎しみでわずかに歪みながら、それでも息を呑むほど妖艶だった。


まるで血を吸い上げて咲いた薔薇のように、暗闇から生まれた者の持つ美しさが、そのまま残虐さを増幅させている。


その背中から、巨大な大鴉の翼が生えていた。


黒い羽は濡れたように艶めき、光を吸い込む深い闇色が、血の滴を弾きながらゆっくりと広がる。


翼の先端は鋭く、羽の一枚一枚が、血の膜を切り裂くように震え、闇の風を巻き起こす。


体は人間の形をほぼ保ち、白い肌に血の筋が走り、再生した左腕は黒く脈打つ血管が浮き出ているが、変化は異様に大きな大鴉の翼だけだった。


それが逆に恐ろしく魅惑的で、濡羽色の貴公子は、血の海から這い上がった堕ちた天使のように見える。


ルシエルは静かに浮遊し、美しい顔がゆっくりとアスモデールに向く。


長い睫毛が血の雫を振り落とし、紫の瞳が黒い炎を燃やしながら、冷たく見据える。


唇が、かすかに開く。声は低く、かすれながらもはっきりと響いた。


「俺はいま、人間の母から受けた、血と涙を流し尽くしたぞ、アスモデール。俺は……純血でも半血でもない。ただの憎しみそのものだ」


その一言で、黒い翼が一閃し、濡れた羽が空気を切り裂き、黒い風が会場を吹き荒れる。


彼は、まさに……何かに生まれ変わっていた。


そして彼自身も、それが何なのかを理解しないまま、怒りに燃え、復讐に猛っていた。


崩れた瓦礫が舞い上がり、魔族たちの悲鳴がさらに高まる。


ルシエルの黒い髪が風に乱れ、血に濡れた頰を伝う雫が、ゆっくりと落ちる。


美しい顔に浮かぶのは、復讐の微笑みとも、絶望の涙ともつかない。


アスモデールは、再生した手首を握りしめ、初めて……本気の苛立ちを瞳に宿した。


「こいつ……!何様のつもりだ!」


ルシエルは答えない。ただ、大鴉の翼をゆっくりと広げ、濡れ羽色の羽が、血の光を反射して妖しく輝く。


紫の瞳が、黒炎を宿したまま、アスモデールを貫くように見つめる。


アスモデールもまた、彼が持って生まれたもの――空間そのものを歪めるほどの魔力を爆発させた。


「半血の残滓が……よくも俺のサバトを汚したな!」


虚空が裂け、純血の魔王の血が呼び起こす無数の黒い槍が、ルシエルに向かって雨のように降り注ぐ。


虚空の槍(ヴォイド・ランス)は、凄まじい速度を保ちながら、ルシエルの心臓をただ一点狙い撃ちする。


ルシエルは動かない。ただ、ゆっくりと大鴉の翼を広げた。


濡れ羽色の羽が一瞬、黒い炎のように揺らめき――次の瞬間、翼が一閃し、黒い風が渦を巻き、虚空の槍をすべて弾き返す。


槍は逆にアスモデールに向かって跳ね返り、彼の肩を浅く抉った。鮮血が飛び散る。


「くっ……!」


アスモデールが初めて後退する。


彼は両手を広げ、空間を握り潰すようにして「散じよ」の呪文を重ねる。


空気が凝縮し、ルシエルの体を内側から爆散させようとする圧力が襲う。


だが――ルシエルはもう二度と、同じ手は喰わなかった。


紫の瞳が黒炎を噴き上げ、大鴉の翼が一気に羽ばたく。


黒い風が圧力を切り裂き、ルシエルは瞬時にアスモデールの眼前に迫った。


再生した左腕が、黒く脈打つ爪となってアスモデールの喉に触れる。


わずか数ミリの距離で止まる。


アスモデールの瞳に、初めての恐怖がちらついた。


ルシエルは美しい顔を近づけ、低く囁いた。


「……殿下の首級(くび)は、俺が頂戴しましょう。お覚悟は、もうよろしいですか?」


濡れ羽色の翼がゆっくりと広がり、血の光を反射して妖しく輝く。


――復讐の微笑みが、唇に浮かぶ。


その瞬間――虚空が裂ける音が響き、上空から一本の虚空の槍(ヴォイド・ランス)が、音もなくルシエルの胴を正確に狙い、一瞬で貫いた。


「がぁっ……!」


黒い血が噴き出し、ルシエルの翼が激しく痙攣する。


美しい大鴉の貴公子は、虚空の槍ごと、そのまま地面に串刺しにされていた。


槍は魔力の鎖となって彼の体を拘束し、翼を広げることすら許さない。


紫の瞳が痛みに歪み、血に濡れた唇からかすかな呻きが漏れる。


アスモデールの瞳が、一瞬だけ揺れた。


「……これは誰が……?」


アスモデールは、再生した手で自分の胸を押さえ、上空を見上げた。


そこには何者かが虚空の槍(ヴォイド・ランス)を放った魔力の残滓が、赤く薄く残っている。


アスモデールの声に、初めての混乱が混じる。


自分以外で、虚空の槍(ヴォイド・ランス)を使いこなす魔族など見たことがない。


その時――雷鳴が轟き、夜の闇を赤い影が切り裂いた。


深い海のような藍色の瞳に、凄まじい怒気を孕んだ美しい女性(ひと)――いや、幼さを残した年若い少女が、まるで赤い叢雲のように上空から舞い降りて来る。


長い銀青色の髪が風に舞い、王族の威厳を纏った赤い薄絹のドレスが、血の海の上で優雅に翻る。


「なぜ……なぜ貴女が……?」


「サバトの夜に魔性同士で血を流す愚か者ども。これはどういう騒ぎだ、アスモデール」


その声色は、少女らしく愛らしい高さではあったが、しかし絶対的な威圧を帯びていた。


空気が一瞬で凍りつく。


魔族たちの悲鳴が、ぴたりと止まる。


アスモデールの瞳が、大きく見開かれた。


「……ナイメリア伯母上……!」


サタンの前妃にして、いまはサタンの「王妹」の称号を持ち、広大な領地を治める大領主である――ナイメリア女公主その人だった。


彼の声は震えていた。初めての、明確な動揺と混乱が顔に浮かぶ。


ナイメリアはアスモデールの言葉に一切応じず、ただ静かに呟いた。


「……うるさいわね。この羽虫のような音を、止めなさい」


彼女の藍色の瞳が、ゆっくりと会場全体をなぞるように動いた。


一瞬の静寂の後――


すべての魔力電網(ネットワーク)が根こそぎ断ち切られた。


無数のドローン魔獣が空中で硬直し、次々と墜落していく。


金属と魔力結晶の破片が雨のように降り注ぎ、けたたましい音を立てた。


巨大スクリーン、個人端末、魔界全土の視聴回線が一斉にブラックアウトする。


配信音声が途切れ、魔界中に「ネットワーク接続エラー」の文字だけが浮かんでいた。


ナイメリアは小さく首を傾げ、独り言のように続けた。


「さて、アスモデール」


ナイメリアは、ゆっくりと義理の甥を見下ろした。


藍色の瞳に、冷酷な光が宿る。


「お前は、このサバトの主としてサタン帝王の嫡子として招かれたはず。


この……みっともない状況は一体どういう事なのか、きちんと説明なさい」


彼女の声は静かだった。


しかし、その静けさは、嵐の前の静寂そのものだった。


空気が重く沈み、古城全体が息を潜める。


アスモデールは喉を鳴らす。


「……伯母上。これは……サバトの儀式です。


そこにあるルシエル公爵が、私のサバトを汚そうとしたものを、正しく処断しようとしております」


ナイメリアの藍色の瞳が、細くなる。


「処断?

私があの槍で、きれいな顔の大鴉を射止めなければ、お前は首級を取られていたわ、アスモデール。


仮にもサタンの嫡子が、たかが魔王の一人に殺されたなんて……兄上の名を貶める一族の恥になるところだった」


彼女は「兄上(あに)」と呼ぶものの、ナイメリアはすでにサタンの離婚済みの元王妃だった。


表面上、数百年近くにわたり友好的な「兄妹」関係を保ち続けているが、彼女の機嫌を損ねれば、サタン帝王の耳にどんな形で届くかわからない。


アスモデールはそれを、誰よりもよく理解していた。


一瞬の沈黙が流れる中、ナイメリアの視線が、串刺しのルシエルからアスモデールの腹心アギーレへ移った。


「それはそうと……花嫁狩りの場で、私の小姓を殺した者がいる。


生贄の姫を捕らえた森で小隕石(メテオ)に打たれて死んでいた。


あの子を殺したのは、お前の部下か、アスモデール」


ルシエルがリリアとレジナルドを探し、焼け焦げた森の中で見た、死んだ魔族の少年のことだった。


アスモデールの顔が青ざめる。


アギーレが無表情で跪いたまま、わずかに身を震わせる。


「伯母上……それは……俺は知りませんでした!アギーレ、お前か……?」


ナイメリアの声が、低く響く。


「知らなかった?だから何だと言うの。……処断なさい、アスモデール」


アスモデールは、喉を鳴らし、迷うことなく手を掲げた。


「散じよ」


空間が歪み、アギーレの体が内側から爆散する。


一言で、無残な断末魔すら上げられず、腹心の部下は血と肉片となって血の海に溶け落ちた。


ナイメリアは冷たく、その肉塊を見据えただけだった。


ナイメリアは、ゆっくりと串刺しにされたルシエルに近づいた。


血の海が、彼女の赤い薄絹のドレスを濡らし、裾を重く染めていく。


しかし、彼女は気にも留めず、優雅な足取りで歩を進めた。


うつくしい藍色の瞳が、痛みに歪むルシエルの美しい顔を、静かに見下ろす。


「ごきげんよう、公爵。今宵の宴は、楽しまれたかしら」


その声は、少女のように愛らしく、しかし底知れぬ冷たさを帯びていた。


空気がさらに重く沈み、魔族たちの息遣いが止まる。


ルシエルは、槍に貫かれた胴から黒い血を滴らせながら、ゆっくりと顔を上げた。


濡れ羽色の髪が血に張り付き、長い睫毛に赤い雫が光る。


唇から血の筋が一筋、ゆっくりと伝い落ちる。


それでも、彼の紫の瞳は、黒い炎を宿したまま、決して揺らがない。


「……そうでもありません、女公主殿下」


声はかすれ、血に濡れて低く響いた。


痛みで息を詰まらせながらも、王妹に対する礼儀を崩さず、静かに、しかし毅然と応える。


ナイメリアの瞳に、ただ冷徹な興味を湛えた光が浮かぶ。


「ええ、きっとそうでしょうね」


彼女はゆっくりと手を伸ばし、ルシエルに突き刺さった槍に触れた。


キィィン……と金属が砕けるような音を立てて槍が消滅し、ルシエルはそのまま地面に投げ出された。


黒い血がさらに広がり、濡れ羽色の翼が弱々しく震える。


ナイメリアは、その視線をアスモデールに移した。


「サバトは終わりよ、アスモデール。これ以上、王家の恥を上塗りすることは許さない。


こんな大騒ぎになったら、天界だって見逃さないでしょう」


アスモデールは、膝をついたまま、額に冷たい汗を浮かべる。


「……は、申し訳ありません、伯母上」


ナイメリアは、ゆっくりとアスモデールを見下ろした。


藍色の瞳に、冷酷な光が宿る。


「魔界には魔界の品位というものがある。お前のやり方は少々……下品よ、アスモデール。サバトひとつ治められずに」


サタン帝王の嫡子は、唇を噛んだ。


膝をついた姿勢のまま、肩がわずかに震えていた。


ナイメリアは、視線を犠牲台の上に倒れたままのリーザ姫に移した。


リーザの細い金髪が血と白濁にまみれ、傷だらけの白い肌が赤く火照っている。


「生贄のむすめは、私の預かりとして持ち帰るわ。


サバトの生贄は――最も高位の悪魔に捧げられるもの。つまり、私がこのサバトの主だということになる。


もし誰か異論があるならば、今すぐおっしゃい」


会場は、息を呑んだまま沈黙した。


誰も口を開かない。


ただ、血の海が静かに波打ち、赤黒い燭台の炎だけが、ぱちぱちと音を立てて揺れる。


ナイメリアは、満足げに小さく顎を動かした。


藍色の瞳が、再びルシエルに向く。


「ルシエル公爵。貴方は、この娘の所有者だとアスモデールに宣言したそうね。


みたところ……彼女に盟約は入っていない。つまり貴方のものではないわ。


ありもしない所有権を主張して、私の甥のサバトを汚したのであれば……、それ相応の処分を受けるべきでしょうね」


ルシエルは、地面に膝をついたまま、血に濡れた唇をゆっくりと動かした。


声はかすれ、しかし貴族としての礼を崩さない。


「……彼女とは、幼き日に結婚の約束をいたしました。女公主殿下」


ナイメリアの唇に、冷たい微笑みが浮かぶ。


「とてもロマンチックなお話ではあるけれども、それはいわゆる”盟約”とは言えないわね、公爵。


貴方が今後、そのような所有権を主張することは許しません。


このむすめは、私が預かるわ。以後、私のものとして取り扱います」


ルシエルの紫の瞳が、わずかに揺れる。


血に濡れた美しい顔に――まだ消えない執念が交錯する。


「……承知いたしました、女公主殿下」


「まだ何か言いたいことありそうに見えるわ、ルシエル公爵。


ただ……まずは貴方の処分が済むまで、当面のあいだ謹慎しておくことね」


ナイメリアに付き従う臣下たちが、素早くリーザを手早くマントに包み、抱きかかえて連れ去った。


リーザの金髪が、臣下の肩に垂れ、血の滴を残しながら闇の奥へ消えていく。


ナイメリアは、ルシエルとアスモデールの両者をそれぞれ見やってから、ゆっくりと踵を返した。


赤い薄絹のドレスが血を滴らせながら、彼女は優雅に立ち去っていった。


――サバトの夜は、静かに明け始めていた。


血に濡れた地面に、夜明けの薄い光が落ち、ルシエルの紫の瞳に、淡く反射する。


リーザの姿はすでに闇の彼方へ消え、会場の喧騒は、風に散って遠ざかっていた。


血と殺戮と凌辱にまみれて、サバトは終わった――。


だが、ルシエルの胸に灯る執念は、今も闇の中にあって、静かに燃え続けていた。

▼次話

43話 往復書簡

挿絵(By みてみん)

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