42話 饗宴<サバト> 下
アスモデールは、ゆっくりとリーザを生贄台に横たえ直した。
その爪先が、ゆっくりと彼女の下腹に近づく。
「今こそ……俺の名を、永遠に刻もう」
厳かなる署名――悪魔の刻印。
魔界の古い儀式に従い、アスモデールが爪を沈めようとしたその瞬間。
ドンッ!という鈍い音をたてて、電光のような黒い閃光が、血の海から迸った。
ルシエルの残った右手から放たれた最後の魔弾が、アスモデールの手首を正確に捉え、肉と骨を粉砕しながら吹き飛ばす。
鮮血が飛び散り、爪が宙を舞う。
「…………くすぐったい」
アスモデールは眉一つ動かさず、即座に肉体を再生させた。
吹き飛んだ手首から黒い魔力が渦を巻き、瞬時に元の形に戻る。
彼は嘲るようにルシエルを見下ろした。
「最後のあがきか、半血。……可愛いものだな」
だが――その言葉が終わらないうちに、流れ弾だったはずの黒い電光が、奇妙に増幅し始めた。
一発、二発……いや、数十発。
ルシエルの周囲で、次々と生まれる黒い閃光が、サバト会場の悪魔たちを無差別に貫き、焼き、引き裂く。
悲鳴が上がり、絶叫が響く。
貴賓席の令嬢たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、観客席の魔族たちが次々と倒れ、血と肉片が飛び散る。
古城の塔が、黒い電光の衝撃で傾き、崩落する石塊が下にいた悪魔たちを押し潰す。
轟音と粉塵がホール全体を覆い、ルシエルの放った黒い雷鳴は、不吉な魂のようにサバト会場を咆哮する。
「なんだと……?」
アスモデールが初めて、声に苛立ちを滲ませた。
彼の視線の先……血の海から、ゆっくりとルシエルは生まれ変わった。
崩れた古城の瓦礫と、魔族たちの断末魔が響く中、彼の体は赤黒い血の膜に包まれながら浮き上がる。
濡れた髪が頰に張り付き、長い睫毛に血の雫が光る。
紫の瞳は、黒い炎を宿しながらも、かつての優美な輝きを失っていない。
唇は血に染まって深紅に濡れ、完璧な輪郭の顔立ちは、痛みと憎しみでわずかに歪みながら、それでも息を呑むほど妖艶だった。
まるで血を吸い上げて咲いた薔薇のように、暗闇から生まれた者の持つ美しさが、そのまま残虐さを増幅させている。
その背中から、巨大な大鴉の翼が生えていた。
黒い羽は濡れたように艶めき、光を吸い込む深い闇色が、血の滴を弾きながらゆっくりと広がる。
翼の先端は鋭く、羽の一枚一枚が、血の膜を切り裂くように震え、闇の風を巻き起こす。
体は人間の形をほぼ保ち、白い肌に血の筋が走り、再生した左腕は黒く脈打つ血管が浮き出ているが、変化は異様に大きな大鴉の翼だけだった。
それが逆に恐ろしく魅惑的で、濡羽色の貴公子は、血の海から這い上がった堕ちた天使のように見える。
ルシエルは静かに浮遊し、美しい顔がゆっくりとアスモデールに向く。
長い睫毛が血の雫を振り落とし、紫の瞳が黒い炎を燃やしながら、冷たく見据える。
唇が、かすかに開く。声は低く、かすれながらもはっきりと響いた。
「俺はいま、人間の母から受けた、血と涙を流し尽くしたぞ、アスモデール。俺は……純血でも半血でもない。ただの憎しみそのものだ」
その一言で、黒い翼が一閃し、濡れた羽が空気を切り裂き、黒い風が会場を吹き荒れる。
彼は、まさに……何かに生まれ変わっていた。
そして彼自身も、それが何なのかを理解しないまま、怒りに燃え、復讐に猛っていた。
崩れた瓦礫が舞い上がり、魔族たちの悲鳴がさらに高まる。
ルシエルの黒い髪が風に乱れ、血に濡れた頰を伝う雫が、ゆっくりと落ちる。
美しい顔に浮かぶのは、復讐の微笑みとも、絶望の涙ともつかない。
アスモデールは、再生した手首を握りしめ、初めて……本気の苛立ちを瞳に宿した。
「こいつ……!何様のつもりだ!」
ルシエルは答えない。ただ、大鴉の翼をゆっくりと広げ、濡れ羽色の羽が、血の光を反射して妖しく輝く。
紫の瞳が、黒炎を宿したまま、アスモデールを貫くように見つめる。
アスモデールもまた、彼が持って生まれたもの――空間そのものを歪めるほどの魔力を爆発させた。
「半血の残滓が……よくも俺のサバトを汚したな!」
虚空が裂け、純血の魔王の血が呼び起こす無数の黒い槍が、ルシエルに向かって雨のように降り注ぐ。
虚空の槍は、凄まじい速度を保ちながら、ルシエルの心臓をただ一点狙い撃ちする。
ルシエルは動かない。ただ、ゆっくりと大鴉の翼を広げた。
濡れ羽色の羽が一瞬、黒い炎のように揺らめき――次の瞬間、翼が一閃し、黒い風が渦を巻き、虚空の槍をすべて弾き返す。
槍は逆にアスモデールに向かって跳ね返り、彼の肩を浅く抉った。鮮血が飛び散る。
「くっ……!」
アスモデールが初めて後退する。
彼は両手を広げ、空間を握り潰すようにして「散じよ」の呪文を重ねる。
空気が凝縮し、ルシエルの体を内側から爆散させようとする圧力が襲う。
だが――ルシエルはもう二度と、同じ手は喰わなかった。
紫の瞳が黒炎を噴き上げ、大鴉の翼が一気に羽ばたく。
黒い風が圧力を切り裂き、ルシエルは瞬時にアスモデールの眼前に迫った。
再生した左腕が、黒く脈打つ爪となってアスモデールの喉に触れる。
わずか数ミリの距離で止まる。
アスモデールの瞳に、初めての恐怖がちらついた。
ルシエルは美しい顔を近づけ、低く囁いた。
「……殿下の首級は、俺が頂戴しましょう。お覚悟は、もうよろしいですか?」
濡れ羽色の翼がゆっくりと広がり、血の光を反射して妖しく輝く。
――復讐の微笑みが、唇に浮かぶ。
その瞬間――虚空が裂ける音が響き、上空から一本の虚空の槍が、音もなくルシエルの胴を正確に狙い、一瞬で貫いた。
「がぁっ……!」
黒い血が噴き出し、ルシエルの翼が激しく痙攣する。
美しい大鴉の貴公子は、虚空の槍ごと、そのまま地面に串刺しにされていた。
槍は魔力の鎖となって彼の体を拘束し、翼を広げることすら許さない。
紫の瞳が痛みに歪み、血に濡れた唇からかすかな呻きが漏れる。
アスモデールの瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……これは誰が……?」
アスモデールは、再生した手で自分の胸を押さえ、上空を見上げた。
そこには何者かが虚空の槍を放った魔力の残滓が、赤く薄く残っている。
アスモデールの声に、初めての混乱が混じる。
自分以外で、虚空の槍を使いこなす魔族など見たことがない。
その時――雷鳴が轟き、夜の闇を赤い影が切り裂いた。
深い海のような藍色の瞳に、凄まじい怒気を孕んだ美しい女性――いや、幼さを残した年若い少女が、まるで赤い叢雲のように上空から舞い降りて来る。
長い銀青色の髪が風に舞い、王族の威厳を纏った赤い薄絹のドレスが、血の海の上で優雅に翻る。
「なぜ……なぜ貴女が……?」
「サバトの夜に魔性同士で血を流す愚か者ども。これはどういう騒ぎだ、アスモデール」
その声色は、少女らしく愛らしい高さではあったが、しかし絶対的な威圧を帯びていた。
空気が一瞬で凍りつく。
魔族たちの悲鳴が、ぴたりと止まる。
アスモデールの瞳が、大きく見開かれた。
「……ナイメリア伯母上……!」
サタンの前妃にして、いまはサタンの「王妹」の称号を持ち、広大な領地を治める大領主である――ナイメリア女公主その人だった。
彼の声は震えていた。初めての、明確な動揺と混乱が顔に浮かぶ。
ナイメリアはアスモデールの言葉に一切応じず、ただ静かに呟いた。
「……うるさいわね。この羽虫のような音を、止めなさい」
彼女の藍色の瞳が、ゆっくりと会場全体をなぞるように動いた。
一瞬の静寂の後――
すべての魔力電網が根こそぎ断ち切られた。
無数のドローン魔獣が空中で硬直し、次々と墜落していく。
金属と魔力結晶の破片が雨のように降り注ぎ、けたたましい音を立てた。
巨大スクリーン、個人端末、魔界全土の視聴回線が一斉にブラックアウトする。
配信音声が途切れ、魔界中に「ネットワーク接続エラー」の文字だけが浮かんでいた。
ナイメリアは小さく首を傾げ、独り言のように続けた。
「さて、アスモデール」
ナイメリアは、ゆっくりと義理の甥を見下ろした。
藍色の瞳に、冷酷な光が宿る。
「お前は、このサバトの主としてサタン帝王の嫡子として招かれたはず。
この……みっともない状況は一体どういう事なのか、きちんと説明なさい」
彼女の声は静かだった。
しかし、その静けさは、嵐の前の静寂そのものだった。
空気が重く沈み、古城全体が息を潜める。
アスモデールは喉を鳴らす。
「……伯母上。これは……サバトの儀式です。
そこにあるルシエル公爵が、私のサバトを汚そうとしたものを、正しく処断しようとしております」
ナイメリアの藍色の瞳が、細くなる。
「処断?
私があの槍で、きれいな顔の大鴉を射止めなければ、お前は首級を取られていたわ、アスモデール。
仮にもサタンの嫡子が、たかが魔王の一人に殺されたなんて……兄上の名を貶める一族の恥になるところだった」
彼女は「兄上」と呼ぶものの、ナイメリアはすでにサタンの離婚済みの元王妃だった。
表面上、数百年近くにわたり友好的な「兄妹」関係を保ち続けているが、彼女の機嫌を損ねれば、サタン帝王の耳にどんな形で届くかわからない。
アスモデールはそれを、誰よりもよく理解していた。
一瞬の沈黙が流れる中、ナイメリアの視線が、串刺しのルシエルからアスモデールの腹心アギーレへ移った。
「それはそうと……花嫁狩りの場で、私の小姓を殺した者がいる。
生贄の姫を捕らえた森で小隕石に打たれて死んでいた。
あの子を殺したのは、お前の部下か、アスモデール」
ルシエルがリリアとレジナルドを探し、焼け焦げた森の中で見た、死んだ魔族の少年のことだった。
アスモデールの顔が青ざめる。
アギーレが無表情で跪いたまま、わずかに身を震わせる。
「伯母上……それは……俺は知りませんでした!アギーレ、お前か……?」
ナイメリアの声が、低く響く。
「知らなかった?だから何だと言うの。……処断なさい、アスモデール」
アスモデールは、喉を鳴らし、迷うことなく手を掲げた。
「散じよ」
空間が歪み、アギーレの体が内側から爆散する。
一言で、無残な断末魔すら上げられず、腹心の部下は血と肉片となって血の海に溶け落ちた。
ナイメリアは冷たく、その肉塊を見据えただけだった。
ナイメリアは、ゆっくりと串刺しにされたルシエルに近づいた。
血の海が、彼女の赤い薄絹のドレスを濡らし、裾を重く染めていく。
しかし、彼女は気にも留めず、優雅な足取りで歩を進めた。
うつくしい藍色の瞳が、痛みに歪むルシエルの美しい顔を、静かに見下ろす。
「ごきげんよう、公爵。今宵の宴は、楽しまれたかしら」
その声は、少女のように愛らしく、しかし底知れぬ冷たさを帯びていた。
空気がさらに重く沈み、魔族たちの息遣いが止まる。
ルシエルは、槍に貫かれた胴から黒い血を滴らせながら、ゆっくりと顔を上げた。
濡れ羽色の髪が血に張り付き、長い睫毛に赤い雫が光る。
唇から血の筋が一筋、ゆっくりと伝い落ちる。
それでも、彼の紫の瞳は、黒い炎を宿したまま、決して揺らがない。
「……そうでもありません、女公主殿下」
声はかすれ、血に濡れて低く響いた。
痛みで息を詰まらせながらも、王妹に対する礼儀を崩さず、静かに、しかし毅然と応える。
ナイメリアの瞳に、ただ冷徹な興味を湛えた光が浮かぶ。
「ええ、きっとそうでしょうね」
彼女はゆっくりと手を伸ばし、ルシエルに突き刺さった槍に触れた。
キィィン……と金属が砕けるような音を立てて槍が消滅し、ルシエルはそのまま地面に投げ出された。
黒い血がさらに広がり、濡れ羽色の翼が弱々しく震える。
ナイメリアは、その視線をアスモデールに移した。
「サバトは終わりよ、アスモデール。これ以上、王家の恥を上塗りすることは許さない。
こんな大騒ぎになったら、天界だって見逃さないでしょう」
アスモデールは、膝をついたまま、額に冷たい汗を浮かべる。
「……は、申し訳ありません、伯母上」
ナイメリアは、ゆっくりとアスモデールを見下ろした。
藍色の瞳に、冷酷な光が宿る。
「魔界には魔界の品位というものがある。お前のやり方は少々……下品よ、アスモデール。サバトひとつ治められずに」
サタン帝王の嫡子は、唇を噛んだ。
膝をついた姿勢のまま、肩がわずかに震えていた。
ナイメリアは、視線を犠牲台の上に倒れたままのリーザ姫に移した。
リーザの細い金髪が血と白濁にまみれ、傷だらけの白い肌が赤く火照っている。
「生贄のむすめは、私の預かりとして持ち帰るわ。
サバトの生贄は――最も高位の悪魔に捧げられるもの。つまり、私がこのサバトの主だということになる。
もし誰か異論があるならば、今すぐおっしゃい」
会場は、息を呑んだまま沈黙した。
誰も口を開かない。
ただ、血の海が静かに波打ち、赤黒い燭台の炎だけが、ぱちぱちと音を立てて揺れる。
ナイメリアは、満足げに小さく顎を動かした。
藍色の瞳が、再びルシエルに向く。
「ルシエル公爵。貴方は、この娘の所有者だとアスモデールに宣言したそうね。
みたところ……彼女に盟約は入っていない。つまり貴方のものではないわ。
ありもしない所有権を主張して、私の甥のサバトを汚したのであれば……、それ相応の処分を受けるべきでしょうね」
ルシエルは、地面に膝をついたまま、血に濡れた唇をゆっくりと動かした。
声はかすれ、しかし貴族としての礼を崩さない。
「……彼女とは、幼き日に結婚の約束をいたしました。女公主殿下」
ナイメリアの唇に、冷たい微笑みが浮かぶ。
「とてもロマンチックなお話ではあるけれども、それはいわゆる”盟約”とは言えないわね、公爵。
貴方が今後、そのような所有権を主張することは許しません。
このむすめは、私が預かるわ。以後、私のものとして取り扱います」
ルシエルの紫の瞳が、わずかに揺れる。
血に濡れた美しい顔に――まだ消えない執念が交錯する。
「……承知いたしました、女公主殿下」
「まだ何か言いたいことありそうに見えるわ、ルシエル公爵。
ただ……まずは貴方の処分が済むまで、当面のあいだ謹慎しておくことね」
ナイメリアに付き従う臣下たちが、素早くリーザを手早くマントに包み、抱きかかえて連れ去った。
リーザの金髪が、臣下の肩に垂れ、血の滴を残しながら闇の奥へ消えていく。
ナイメリアは、ルシエルとアスモデールの両者をそれぞれ見やってから、ゆっくりと踵を返した。
赤い薄絹のドレスが血を滴らせながら、彼女は優雅に立ち去っていった。
――サバトの夜は、静かに明け始めていた。
血に濡れた地面に、夜明けの薄い光が落ち、ルシエルの紫の瞳に、淡く反射する。
リーザの姿はすでに闇の彼方へ消え、会場の喧騒は、風に散って遠ざかっていた。
血と殺戮と凌辱にまみれて、サバトは終わった――。
だが、ルシエルの胸に灯る執念は、今も闇の中にあって、静かに燃え続けていた。




