11話 老家令
家令アルフレッドの執務室は、本邸の最奥、階段を上った先の静かな一角にあった。
他の使用人部屋とは違い、壁一面に古い革装の本棚が並び、重厚な黒檀の机の上には、魔界の紋章が刻まれた銀の燭台が静かに灯っている。
蝋燭の炎がゆらめく中、アルフレッドは机に向かい、ルシエルから指示のあった私邸改修計画の書類を広げていた。
向かいにはレジナルドが座り、銀縁メガネの奥から淡い灰色の瞳を上げている。
「ご主人様からの指示は明確だ。私邸の別棟を、リーザ姫を迎えるに相応しい居室に改修せよ、ということだな。」
アルフレッドの声は低く、落ち着いていた。
彼は書類の端を指で軽く叩き、続けた。
「だが、その前に……お前の計画どおり、双子を人間界に連れていく手順を詰めよう。
リリアとソフィアは、もう限界に近い。
ルシエルさまの苛立ちが頂点に達している今、彼女たちをお前とともに人間界に送り出すのは、”一時保護”という名目で正当化できる最後の機会だ。」
レジナルドは静かに頷いた。
彼の手元には、すでに人間界の王宮地図と、リーザ姫の従兄弟にあたる王太子の側近リストが広げられている。
「私が王の息子の召使に化け、双子はメイドとして王宮に潜入します。
私は人間ですし、双子らの魔力は弱く小さいですから、天界の監視体制をかいくぐるのは容易でしょう。
リーザ姫の日常に溶け込み、十二夜と同じく意識を魔界と同調させる媚薬を、紅茶や菓子に仕込んでおく予定です。」
アルフレッドは小さく息を吐いた。その瞳に、わずかな痛みが宿る。
「……お前が純粋な魔族であれば、私は迷わず、自分の後継者に据えていただろうな。」
レジナルドは苦笑した。
「それは光栄です。ですが、私の寿命は人間のそれです。閣下の後継者になるには、短すぎます。」
アルフレッドは目を細め、静かに言った。
「それでもお前は、双子たちの面倒をよくみてくれているな。おのれの寿命をけずってまで……感謝しているよ、レジナルド。」
一瞬の沈黙が落ちた。
アルフレッドの声は、いつもより低く、優しかった。
「私はルシエル様を、自分の孫のように愛してきた。お小さい頃から教育し、傍で見守ってきた。
あの方の辛いお気持ちも、ままならないことへの強い苛立ちもすべて理解しているつもりだ。
……だからこそ、お前があの方のそばにいてくれることが、どれほど心強いか」
レジナルドは静かに頭を下げた。
「恐縮です。私にできるのは、ただ誠心誠意、閣下にお仕えすることだけです」
蝋燭の焰がゆらめき、黒檀の机に長い影を落とす。
レジナルドはすでに立ち上がり、書類を片付け始めていたが、ふと視線を落とした。
老家令の机に、古い羊皮紙の束が置かれている。
革紐でまとめられたそれは、公爵家の紋章が刻まれた封蝋で封じられていた。
レジナルドの手が、わずかに止まる。
「……これは」
アルフレッドは見てもよい、と仕草で示す。
彼はそっと手を伸ばし、封蝋の紋章に触れた。蝋の縁に、微かなひび割れと、一度剥がされた跡が残っている。
誰かが過去に開封し、再び丁寧に封じ直した痕跡だ。
先代の公爵にしてルシエルの父君・ハデス卿と、妻であるプロセルピナ姫の婚姻を記録した文書。
人間界の王族姫を魔界に迎え入れるための、正式な盟約書と魔族化の儀式許可証。
当時の執事、だったアルフレッドが、すべてを取り仕切った証拠書類だった。
羊皮紙をそっと開くと、美しい女性の筆跡で、プロセルピナの署名が残っている。
「永遠の愛を誓い、御身の傍に……」
レジナルドの指が、わずかに震えた。
アルフレッドは静かに視線を戻し、穏やかに言った。
「……人間の身で、これを目にした者は、恐らくお前が最初で最後だろう」
レジナルドは羊皮紙をそっと閉じ、机に戻した。
「リーザ姫をお迎えするための……準備ですか。」
アルフレッドは小さく頷いた。
彼の声は、いつもより低く、静かだった。
「先代も、同じようにした。人間の姫を魔界に迎え入れるための、すべての手続きを、私が整えた。盟約の締結、魔族化の儀式、貴族社会への説明……すべてを。」
彼は机の引き出しから、もう一枚の古い羊皮紙を取り出した。
それは、プロセルピナの魔界転生を示す確証だった。
「人間の血を魔界に取り込み、新たな血統を生む」ことを認めた、先代公爵の署名入り。
「リーザ姫を、この魔界で正式な妻として迎えるなら、同じ手続きが必要だ。
人間の王女を魔界に連れてくることは、決して容易ではない。だが……先代が成し遂げたように、私もまた、整えるつもりだ。」
レジナルドは静かに息を吐いた。
「……ルシエル様は、まだそのお気持ちを口にされていませんが。」
アルフレッドは小さく笑った。
それは、優しくも、どこか痛みを帯びた笑みだった。
「口にされなくとも、わかる。あの十二夜から戻られた後から、あの方の目は変わった。……だからこそ、準備は進めておく。閣下が決断なさったとき、すぐに動けるように。」
彼は羊皮紙をそっと引き出しに戻し、机の上の書類を整えた。
「レジナルド。お前が双子を連れて人間界に潜入し、リーザ姫の近くに寄り添う。それが、今の最善の手だ。
……そして、いつか、閣下が本気で決断なさったとき、この文書のように、すべてを整えておく。」
レジナルドは一礼し、退出するために扉に向かった。
ふと、足を止めた。
「妙ですね……この本は、先週もここに落ちていました」
彼が拾い上げたのは、書棚の下に落ちていた小さな冊子だった。
古びた革装の恋愛詩集。
ページを開くと、美しい女性の筆跡で、優雅な文字が綴られた献辞がある。
「永遠にあなたを愛しているわ B」
さきほど見た、ルシエルの母であるプロセルピナ姫のそれとは違っているが、流麗でゆたかな教養を感じさせる姫君の美しい筆跡だ。
「その本を戻しておいてくれ、一番上の段に」
目線をよこさず、老家令がつぶやいた。
「また、落ちているようになった。ここしばらくはなかったのだが――。
もしまた見かけたら、本棚に戻しておいてくれ」
「これは、ルシエル様の亡くなられたお姉君……ベアトリチェさまの形見でございますか」
異母の姉君が居たことは、知っていた。
「……そうだ。ベアトリチェさまが亡くなられて、すべて処分されたはずのものだ。
ただ、この一冊だけは、私が密かに持ち去った。先代の公爵様も、もちろんルシエル様もご存知ではない。
何度もご火中つかまつろうと思ったが――この老耄にはどうしても出来なかった。どうかお前の中にだけしまっておいてくれ」
レジナルドは黙って、古い詩集を本棚の一番上の段に戻す。
老いたアルフレッドでは手の届きようもないが、彼やルシエルほどの背丈であれば、ちょうどその背表紙が目に入る高さだった。
レジナルドは、銀縁のメガネを指先で軽く押し上げた。
淡い灰色の瞳が、老家令に向かって穏やかに、しかし確かな敬意を込めて注がれる。
「それでは、失礼いたします。閣下」
レジナルドはもう一度、深く頭を下げた。
その仕草は、いつものように静かで、完璧だった。




