2話:功績の強奪と、泥を啜る覚悟
翌朝、侯爵邸の書斎。
重厚なマホガニーのデスクを挟んで、父は冷淡な顔で私を見下ろしていた。その隣には、昨夜のショックから立ち直ったらしいカサンドラが、殊勝な面持ちで座っている。
「昨夜の件、リュシアン殿下からも直々にお叱りを受けた。リディアーヌ、お前の『教育理論』は、この国にはあまりに過激で、そして有害だ」
父の第一声に、私は反論する代わりに問いを返した。
「有害、とは何に対してでしょうか。私の理論は、過去十年の外交記録と経済指標に基づき、次代を担う若者に必要な『自律性』と『論理的交渉力』を育てるためのものです」
「その『自律性』とやらが、周囲との摩擦を生んでいると言っているのだ!」
父が机を叩いた。その衝撃で、ペン立ての万年筆が小さく音を立てる。
「お前が執筆し、実地試験を行っていた『次世代教育指導案』。あれは今日限りで、すべてカサンドラに引き継いでもらう。執筆者名も彼女に変え、我が家の功績として発表する。お前は一切、関与するな」
「……なっ」
私は絶句した。
指導案。それは私が十代のすべてを捧げ、歴史、心理学、統計学を網羅して書き上げた、私の人生そのものだ。
「カサンドラにはお前のような冷徹な知性はない。だが、彼女には人から愛される才能がある。殿下もおっしゃっていた。教育に必要なのは鉄の規律ではなく、導き手の魅力だと。カサンドラがその愛嬌で包み込めば、お前のガチガチな理論も、ようやく民衆に受け入れられる柔らかいものになるだろう」
「お父様、無茶です。彼女は基礎理論を理解していません。前提条件を無視して運用すれば、組織は内側から腐敗します。あれは……」
「お姉様、失礼ですわ」
カサンドラが口を挟んだ。その瞳には、隠しきれない優越感が滲んでいる。
「私、お姉様の書斎の書類、少し読みました。確かに難しい言葉ばかりで怖かったけれど、要するに『相手を思い通りに動かすコツ』が書いてあるのよね? だったら、私が得意な『笑顔』を混ぜたほうが、みんな幸せになれるわ。お姉様はもう休んでいいのよ?」
「違うわ、カサンドラ。あれは人を操作する術ではない。人が自分で考え、責任を取るための――」
「黙れ、リディアーヌ」
父の冷酷な声が、私の言葉を遮った。
「これは侯爵家としての合理的な判断だ。お前は厳しすぎて敵を作りすぎる。対して、カサンドラは殿下の寵愛を受け、国民からの人気も高い。カサンドラを広告塔にし、お前の成果を彼女の功績として発表する。それが我が家の繁栄に最も資する道だ」
合理、だと?
目の前の男が言っているのは、ただの「感情的な贔屓」を「政治的判断」という言葉でコーティングしただけの、救いようのない欺瞞だ。
「納得できないという顔だな。ならば、お前にヴァランシエンヌの家名は必要ない。お前のような可愛げのない娘が家にいれば、カサンドラの、ひいては殿下の輝かしい未来に泥を塗ることになる」
「……それは、勘当ということでしょうか」
「そうだ。今すぐこの家を出て行け。お前の持ち物は、お前自身の私物以外すべて置いていけ。特に、教育に関する研究資料はすべてこの家に残る。……それはもう、カサンドラのものだ」
視界が白くなるほどの屈辱がこみ上げた。
私が積み上げてきた努力、磨き上げた知性、不眠不休で書き上げた原稿。それらを、昨日今日までダンスと茶会にしか現を抜かしていなかった妹に、そのまま差し出せと言うのか。
「お姉様、そんなに悲しまないで? お姉様の名前だとみんな怖がっちゃうけど、私の名前で発表すれば、きっと素敵な『魔法の教科書』として世界中に広まるわ。お姉様も、自分の子供が有名になるなら、嬉しいでしょう?」
カサンドラが、私の手を取って無邪気に笑う。その手が、あまりに汚らわしく感じられた。
(ああ、そうか。この人たちは「本質」を見ていない)
積み木を一段ずつ積み上げる苦労を知らず、完成した塔のてっぺんだけを掠め取り、それを自分の力だと思い込んでいる。土台のない建築がどうなるか、その想像力すら欠如しているのだ。
「……わかりました。お望み通り、この家を出ます。資料もすべて置いていきましょう」
「物分かりがいいな。最初からそうしていれば、お前ももう少し愛されたものを」
父が鼻で笑う。私は椅子から立ち上がり、最後にカサンドラをまっすぐに見据えた。
「カサンドラ。一つだけ警告しておきます。その資料は、私が十年かけて築いた論理の連鎖です。一箇所でも理解せず、都合よく書き換えれば、全体が崩壊します。……その時になって私に泣きついても、もう教育は授けませんよ」
「ふふ、大丈夫よ。私にはリュシアン殿下がついているもの。お姉様の『時代遅れな厳しさ』なんて、殿下の愛が全部上書きしてくれるわ!」
反論する気力すら失せた。
私は身一つで書斎を出た。
豪華な廊下を歩きながら、私は確信していた。
彼女は必ず失敗する。そして、彼女を担ぎ上げた父も、王子も。私が注いできた「教育」という名の重石が外れたこの国が、どれほど脆く、そして無残に転落していくか。
(せいぜい、その偽りの栄光を享受するがいいわ。私は泥を啜ってでも、隣国で私の正しさを証明してみせる)
私は、玄関に用意されたわずかな荷物を手に取った。
門を出る際、一度も振り返ることはなかった。
3話は本日20時ごろ投稿予定となっております。お楽しみに




