宗教の存在意義
先日、地域の須佐之男之命神社で行われる秋祭りの準備をした。祭りの当日は、太鼓を叩く子供を乗せた神輿を担ぎ、一日中街を練り歩く。何度か神輿を担がせてもらったが、死ぬ。マジで死ぬ。同じやるならフルマラソンの方がなんぼかマシ。それくらいに大変だった。
ところで、この秋祭りは須佐之男之命神社に関係した宗教的な儀式になる。日本各地に大なり小なりの祭りがあるが、それら全てが宗教的な儀式だと考える。その起源を辿れば、五穀豊穣、先祖の慰霊、また疫病の流行を抑えるためといった理由がある。
昭和の時代、多くの新興宗教が誕生した。オウム真理教のテロ行為や、統一教会と自民党との癒着は大きな社会問題となり、宗教に対する忌避感が広がった。僕の友人は、宗教は心の弱い奴がすがるものだと言ったりする。宗教と一口に言っても、キリスト教、イスラム教、仏教といった世界的な宗教もあれば、神社の祭りという地域に根差した民間信仰もある。全てが「宗教」という一つの言葉でくくられているが、その内容は多様である。この宗教について考えてみたい。ネットのwikiから、宗教の定義を参照する。
宗教:一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系であり、また、その体系にもとづく教義、行事、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のこと。この定義から、宗教に必要な要素をピックアップしてみる。
・信仰の主体
・教義
・行事、儀礼
・社会集団
これらの要素に、僕が参加した秋祭りに該当させてみる。
・信仰の主体 = 須佐之男之命
・教義 = ない
・行事、儀礼 = 神輿を担ぐ祭り
・社会集団 = 地域の氏子
秋祭りに参加している人々の多くは、秋祭りは行事であり、宗教とは思っていないかもしれない。また、秋祭りの意義が説明される機会もなかった。そうした意味も含めて、教義に関しては「ない」とした。ただ、広義では古事記がそれに該当するかもしれないし、あまりにも古すぎて教義が忘れられたのかもしれない。ただ、参加者の多くが信仰に対する意識が低かったとしても、この秋祭りが宗教的な儀式であることは間違いない。似たような例では、年始の初詣も宗教的な儀式になる。
聖徳太子の物語を書くために、僕は古代史を勉強してきた。古事記や日本書紀に描かれる世界では、多くの神様が登場する。大王家も含めて古代の豪族は、先祖を神と仰いだ。また教義は、口伝として一族の間で共有されていたと考える。また、新嘗祭をはじめとして、五穀豊穣を祈る儀式が存在していた。これら、信仰の主体、教義、儀式は、豪族の結束を強固にするための要素になっている。
宗教的な要素は、実はコミュニティが存続する上で必要な要素と符合することに注目したい。例えば、僕は地域で自治会長をしている。先ほどの要素に当てはめてみる。
・信仰の主体 = 自治会長
・教義 = 会則
・行事、儀礼 = 総会、地域美化、防犯パトロール、祭り
・社会集団 = 地域の自治会員
信仰の主体に、自治会長をおいた。コミュニティの存続において、中心者はどうしても必要になる。コミュニティにおいて意志の決定者は、組織の方向性を決めるから。ただ現代では、その結果においては責任を取らされて、中心者は下ろされることもある。そうした意味では、信仰的な主体と比べて、その信じられる強固さに違いがある。比較対象として、日本の国家とも比べてみる。
・信仰の主体 = 天皇
・教義 = 憲法、法律
・行事、儀礼 = 国会、行政、裁判所
・社会集団 = 日本国民
宗教と国家の比較は、少し強引に見えるかもしれない。しかし古代において、宗教と国家運営は一体だった。憲法や法律は、古代における宗教的教義に該当する。ただ、現代の日本では、政教分離が基本となる。とはいっても、厳密には宗教と政治を切り離すのは難しい。政教分離とは、太平洋戦争で国家が国民に宗教を強要した歴史を繰り返さないために誕生した。趣旨は、信教の自由を守るための概念だと考える。しかし、日本という国を存続させる上で、象徴である天皇を外すことは出来ない。これは日本という国のアイデンティティだから。そうした意味では、国家運営も広義では宗教的な存在だと考える。
古代においても現代においても、宗教的はコミュニティを存続させるために必要な構造だった。これは、コンピューターにおけるOSに該当する。OSの存在は、複数のプログラムを安全に遅滞なく同時に活動させるために管理をする。これは国家における行政サービスに該当している。
ところが、現代人が感じている宗教観は違う。この宗教観を一言で表すと、「神様にお願いする」だと考える。神社の絵馬には、受験合格、縁結び、病気平癒といったお願いが書かれている。「霊験あらたか」という言葉があるが、神様とは人々のお願いを聞き届けてくれる対象としてのイメージが強い。新興宗教の多くも、信仰者の願いを叶えるという点が強調されている。
コミュニティの構成要素は、管理者と構成員に分けることが出来る。これまで述べてきたOS的な宗教観の内容は、管理者からみた一側面になる。宗教と一口に言っても、管理者と構成員とでは見え方がまるで違う。管理者は、コミュニティが存続することの利益を説くが、構成員はコミュニティに参加することで得られる利益を求める。つまり、その宗教を信じている人々は、その対価としての奇跡を求めている。神様にその力があることを期待している。宗教を考える時、この違いを理解する必要がある。
現代において、自治会の存続が危ぶまれているのは、自治会に対する期待が弱まっていることを意味する。コロナが明けてから、自民党の裏金問題、自動車会社の不正隠蔽問題、ジャニーズや宝塚と、名だたる巨大なコミュニティで問題が発覚した。これらの問題の多くは、内部からの告発であり、それは信仰の主体であるブランドイメージが弱まっていることを意味する。僕の中では、これらの問題と現代における宗教の存在意義は、同じ構造だと考えている。
ホモサピエンスの特徴とは、信仰の主体を中心にしてコミュニティを存続させることが出来る力になる。世界中で様々な宗教が誕生したのも、この特徴が原因になっている。これら宗教的な存在は、農耕文化の発展と共により大きく成長した。世界各地に多くの宗教があるが、その構造もよく似ている。
そうした中、紀元前600年ごろに誕生した仏教は、現代では宗教というジャンルでくくられているが異質だった。なぜなら、信仰の主体を「仏」としたから。「神」と「仏」は違う。「仏」とは、人々が目指す目標だから。多くの宗教と仏教ではその構造が大きく違うが、ここではその違いについては詳しく言及しない。ただ、仏教が、「人間の幸せとは何か?」を、直接問いかけたことに意義がある。仏教的な「問い」は、これからの未来において、大きな示唆を明示するものだと考える。




