第32話 愛してほしかっただけなのに
「浦原先輩、手伝いますよ」少し残業してから帰ろうとすると、背後から声がする。
彼は新入社員の清水大洋。
彼が入社した時、先輩や同僚からワーキャーと喜ぶ声が聞こえた。
何やら彼は人気があるらしい。
――だって仕事できないし。
だが菜々子には、どこがいいのかと魅力を理解できなかった。
「……そうだ」菜々子は早速、企てを実行に移す。
「ねぇ?」ベッドで唇を重ねてくる彼の左手の薬指の結婚指輪に手をかける。
「奥さんと離婚して」
「え?」
「……お願い」菜々子は彼の股間に手をやった。そして優しく撫でた。
「……分かった」悩んでいたのか、少し間を空けてから、答えた。
「本当に?」
「うん」
「ありがとう」菜々子は唇を重ねた。そして心の中でほくそ笑む。
ああ、本当に馬鹿な男だ。性欲に負けるなんて。
菜々子は森尾と結婚するつもりなんてさらさらなかった。
離婚をさせて、不幸のドン底に落としてやりたかった。
そして、別の男と結婚すると一体どんな顔をするのだろうかと、楽しみで仕方がなかった。
もし、万が一のことがあっても、悲劇のヒロインにはなれる。
別の男、もう菜々子はターゲットを決めていた。
彼は元から菜々子に気があるようで、付き合うことは容易だった。
しかし、彼とすぐ結婚というわけにはいかなかった。
大洋は意外と慎重で、なかなか踏み込んでくれない。
愛してくれているはずなのに。
菜々子は焦れったさを感じ、付き合って1年経ったある日、菜々子は妊娠したと嘘ついた。
大洋は疑っていたが、菜々子の悪阻に苦しんでいるふりに騙され、とうとう子供ができたと喜ぶようになってしまった。
菜々子はまたほくそ笑む。
――これで目論見は、成功する。
確信した時、高村聡に瓜二つの男が目の前に現れた。
結城孝典、彼を一目見た時、生きた心地がしなかった。
恨んでいるはずの彼は大洋との結婚に反対するだろう。
だが何か様子がおかしい。
顔を見ても何も思わなかったみたいだ。
話をするうちに彼が記憶喪失であることを知った。
そのせいで彼が彼なのか、それとも瓜二つの別人なのか、確証が得られなかった。
けれど、今の彼なら成功するだろう。
これは運命だと感じた。
――もう一度、彼が悲しむ顔が見たい。
これは、一方的に捨てた聡への復讐心。
フィアンセの大洋を殺して、弱ったふりをして瓜二つの彼に近づく。
そうすることで唯一の失敗を帳消しにできる気がした。
「大洋を殺してくれたら、もう一度」正常な判断ができなくなった森尾は甘い蜜に飛びついた。
結婚式で大洋は倒れ、賑やかだった会場が一瞬にして沈み返り、パニックに陥る光景は素晴らしかった。
あれだけの人数の笑顔を一気に奪う経験はもう二度とできないだろう。
菜々子は、舌舐めずりをした。
もうここは蟻地獄の中。
昔のあなたを知っていると話せば、自然と聡は近づいてきた。
彼の記憶がいつ戻るのか、ヒヤヒヤした。
ひょっとして、もう戻らないのかもしれない。それならそれで好都合だ。
でも、厄介なのが溺愛する果穂の存在だ。
あの時と同じ。
彼女が聡のブレーキになる。
はっきり言って邪魔だ。
けれど、彼を酔わせれば、アクセルは全開になるはず。
そして、一回でも抱かれれば、きっと堕ちる。
あとは、既成事実を作るだけだ。
――大丈夫、うまくいく。
菜々子は自分に言い聞かせた。
ちょっとしたきっかけさえあれば、彼は抱いてくれる。
そして、遂にその時が訪れた。菜々子は悦びを噛み締める。
――これで全て思い通り。
幸福に包み込まれ、眠りにつく。
「あー!!」早朝、聡の叫び声で目が覚める。
彼の顔色は、真っ青だった。
「大丈夫?」菜々子は心配して、声を掛ける。
額にはびっしょりと汗を掻いていた。思わず、それを拭う。
聡は菜々子の腕を払いのけた。
「君が悪いんだ、僕を興奮させるから」聡は菜々子を見つめた。
その視線は冷たかった。
まるでゴミを見るかのように。
「興奮? じゃあ、もう一回する?」菜々子は誘うように添い寝する。
「違う、そうじゃない」彼は、拒否して起き上がった。
「どうしちゃったの? おかしいよ?」菜々子は動揺を隠して、訊ねる。
「おかしいのは、君の方だよ」孝典は床に置いてあった服を着た。
「何の話?」菜々子はとぼける。
「君は僕の大切な人を殺した」
「何、それ? 変な夢でも見たの? 水でも飲んで落ち着きなよ」菜々子はコップに水を注ぎ、渡す。
聡はその水を飲まずに、床にぶち撒けた。
「全て思い出したんだ」
「嘘……」菜々子は絶句した。
まさか、ここでバレると思わなかった。
「どうしてあんなことしたんだ!」彼は怒鳴る。
菜々子は何も答えなかった。
認めてしまえば、負けだと思ったからだ。
「まさか、サニーのことも……」聡はハッとした表情で睨みつける。
もう化けの皮が剥がれてしまった。
「……フフッ。ウフフッ、アハハ」菜々子はどうしようもなくて笑った。
堪えられなかった。
我慢できなかった。
「何が可笑しいんだよ」
「やっと気がついたのね。全部知ってて、止めなかったの」
「そんな……」聡の顔は絶望の色に染まっていた。
菜々子は、笑いを止められない。
「そうよ。優希も、あなたの両親も、大洋も、唯月も、殺したのは私だよ。全部、私」菜々子はもうめちゃくちゃになればいいと思った。
「唯月って何のことだよ!」
「あれ? 全て思い出したんじゃないの? 上京してきた時に一緒に連れてきた彼女じゃない。そっか……もう捨てたもんね」
「ナナのことか!? 嘘だろ……?!」聡は頭を抱えた。
「ねぇ、私のこと憎いでしょ? 殺したくなったでしょ?」菜々子は煽るように言った。
「ああ、殺してやりたいよ」
「じゃあ、やってみなさいよ」菜々子が言うと、聡は無言で近づいてきた。菜々子の首元を両手で絞める。
――これで、私とあなたは同じになるの。
菜々子は目を瞑った。
彼の手が震えているのが分かった。
力が弱い。それじゃ足らないの。もっと強く。
「できるかよ、こんなこと」聡は息を荒げ、手を離した。
「なんで、できないの?」
「僕は君とは違う」
「同じよ、どこが違うっていうの?」
「僕は平気で人を殺したりしない。たとえ、どんなに憎くても」彼は泣きながら、声を震わせながら答えた。
それを聞いた時、あんなに熱くなっていた身体が冷たくなっていくのが分かった。
そして、菜々子は悟った。
――また失敗してしまった。
「そっか、なら仕方がないよね」菜々子は聡にゆっくりと近づいていく。
彼は怯えていた。菜々子の一挙手一投足を気にしている。
その姿が滑稽だった。
「安心して。私はあなたには何もしないから」菜々子は笑顔で答える。
「本当?」彼の顔から不安が消えた。
「うん。だけど……」菜々子は何かを言いかけてやめた。
「だけど、何?」再び、笑いが止まらなくなる。
「最後まで言わなきゃ分からないの? あなたの彼女、今家で一人でしょ?」
「まさか、おい……」
「もうそろそろじゃないかな?」菜々子は時計を確認した。午前7時を指そうとしている。
「ボーッとしてないでさ、早く行かないと死んじゃうかもしれないよ」
「果穂に何したんだよ!」
「さあ? 知らないよ」菜々子は人差し指を左右に振った。
「お前……」聡の目付きが変わる。彼は急いで部屋を飛び出して行った。
菜々子は一人、部屋に取り残される。
「嘘に決まってるじゃん……バカ」呟くと、涙が溢れてきた。
最後まで正直にならなかった。
ただ、愛して欲しかっただけなのに。
それだけだったのに。
菜々子は自分の愚かさを悔やんでも、もう遅いことを理解していた。




