44 降臨
ロザリンドはエドワードの手を借りて、鉄格子の外に出る。
暗く湿った廊下を急いで進み、足音が反響する中、階段を慎重に登っていく。
地上が近づいてくるが、不思議なほどに人の気配がない。連れてこられる時にいた警備もいなくなっている。
その代わりのように、上から騒がしい音が聞こえてくる。
(何が起こっているの?)
ぞわっと胸騒ぎを覚えながら、地下から出る。周囲には誰もいない。そして、寒い。地下よりも空気が一層冷たくなっている。夏なのに。
そしてロザリンドは、この空気の冷たさに覚えがあった。
「……お兄様?」
クリストファーが怒った時――感情を態度に表すことはないが、おそらく本人も無自覚なうちに周囲の空気が冷えていく。その冷たさとよく似ていた。
エドワードの表情が、いままで以上の真剣みを帯びる。
「……もし、クリストファーがもう来ているとしたら……神殿を破壊してしまいかねないな」
「そこまでですか?」
さすがにそこまでするとは思い難い。
だが、エドワードは確信を持って頷く。
「急ごう」
地下を出て神殿内部に足を踏み入れると、逃げ惑う神官たちの群れを目の当たりにする。
罪人が脱獄しているというのに、第二王子がいるというのに、誰もこちらを気にしていない。それよりも、迫りくる氷の炎から逃げるのに必死という様子だった。
既に神殿のあちこちが氷の炎に包まれて、氷の迷宮のようになっていた。神聖な場所は凍りつき、変わり果てた姿になっている。
幸いにも怪我人は見当たらないが、エドワードは深刻な表情で呻く。
「実力行使が早すぎる……かなり怒っているな……」
「……お兄様は、私に怒っているのかもしれません。聖女様を怒らせてしまい、ロードリック家の名を汚し、迷惑をかけていますから」
「それだけはない」
エドワードは断言する。
「自覚しにくいのかもしれないが、クリストファーは君を本当に大事に思っている。この状況も、君を心配するあまりだ。実力行使をしてでも、助けたいと、取り戻したいと思っているんだ」
「…………」
そこまで真剣に言われても、やはりどこかで言葉を受け止めきれない。
(どちらにしても……私が行かないと、事態は収まらないわよね)
ロザリンドは心を決め、炎の勢いが強い方へ走った。
「ロザリンド!」
エドワードの声が後ろから響くが、ロザリンドは振り返らずに走った。
神殿が徐々に壊れていくその奥に、きっとクリストファーがいる。
凍るような寒さを帯びた炎だが、不思議と熱さも冷たさも感じない。
――そしてロザリンドは、炎の先にその姿を見た。
凍るような熱を帯びた炎を纏い立つ姿を。
孤高で、誰も寄せ付けない威圧感。
圧倒的で、美しく。滅びゆく神殿の中に立つその姿は、誰よりも魔王の名に相応しい。
「お兄様!」
ロザリンドの叫び声が響くと、クリストファーは驚いたように振り返った。一瞬のうちに、表情が変わる。魔王の顔から、ロザリンドのよく知るクリストファーの顔へ。
「ロザリー……!」
声に導かれるように、ロザリンドは炎の中をまっすぐに駆ける。そしてその勢いのまま、クリストファーの身体にしがみつくように抱き着いた。
勢いあまって激突してしまうが、不思議と痛みはなく、衝撃もないくらい柔らかいものだった。
クリストファーの両腕が、ロザリンドを優しく抱きしめる。
――その瞬間、ロザリンドは。
遠い昔、森で迷子になった時、見つけてくれたクリストファーに泣きながら抱き着いた時のことを思い出した。
あの時もクリストファーはロザリンドを安心させるように、優しく抱きしめ返してくれた。
目許に熱い涙が浮かんでくる。
「お兄様、もう、大丈夫です。私は無事です」
顔を上げて言うと、クリストファーは安堵の表情を見せた。
周りの氷の炎はいつの間にか消えていた。
「ロザリー、怪我はないか?」
「はい」
「……お前が捕らえられたと聞いて、気が気でなかった」
「エドワード様が助けてくださいました。お兄様も、来てくださってありがとうございます」
微笑むと、クリストファーの表情が少し和らぐ。
ロザリンドは再び笑い返した。
(――ここから、どうしよう)
問題はここからだ。
ロザリンドは脱獄し、クリストファーは神殿を攻撃してしまった。
このままでは確実に神殿を敵に回す。いや、もう回している。大問題だ。
エドワードはこちら側についてくれると言ったが、王族が神殿と対立すれば内乱になりかねない。こちらも大問題だ。
いっそ逃げてしまいたいが、このまま家に帰ると後々もっと大変なことになりかねない。
(どうしよう……もう、昨日までと同じには生きられないわよね……――ううん、私は――)
ロザリンドは、開き直ることにした。
(私は、いままで以上の、もっといい明日のために生きる。そのために戦うと決めたんだから)
ロザリンドは腕を解いて少しだけ距離を開けようとしたが、クリストファーはロザリンドを離さない。
抱き締められたまま、顔を上げる。
まっすぐに、青い瞳を見つめる。
「お兄様、もし私が世界の敵になったらどうしますか?」
「考えるまでもない。俺は何があろうともお前の味方だ」
一切の迷いなく答える。
「世界がお前の敵になるというのなら、俺はお前のために戦おう」
「……お兄様なら、世界まで滅ぼしてしまいそうです」
苦笑すると、抱き締める力が強くなる。
「俺はお前さえいればいい」
「……私は、お兄様がいなければダメですが、お兄様だけでもダメです。私は、平和で平穏な、楽しい暮らしがしたいのです」
わがままを言うように自分の気持ちを伝えると、クリストファーの瞳に温かな光が宿る。
「そうか。ならば、お前が大切と思うものも守らなければな」
「ありがとうございます……!」
嬉しくなって、再び抱きつく。
クリストファーは優しく抱きしめ返してくれた。
(よかった……これでひとまず、王都が滅びることはなくなったわよね?)
ひとまず安心する。
これでクリストファーが神殿を滅ぼすことも、魔王化することもなくなるはずはずだ。
あとは自分が魔王化しないようにするだけだ。
――そのために乗り越えなければならない壁は、とてつもなく高いけれども。
「それで、ロザリー。お前を苦しめているのは誰だ?」
優しく響く声に、ぎゅっと心臓が締め付けられる。
「何故お前が投獄されることになった?」
声も、眼差しも優しいのに。
ものすごく怖い。
――ここで、女神と聖女が原因と言おうものなら。
大惨事が起きるかもしれない。
でも、言っておかないと。
覚悟を決めたのだ。女神とも戦う覚悟を。
「……信じてもらえないかもしれませんが――」
「信じないはずがない」
力強い言葉に、安心と不安を同時に覚える。信じて受け入れてもらえる安堵感と、それでも信じてもらえないかもしれないという不安。
そして、言ってしまったらどうなるのだろうという不安。
――それでも、言うべきだ。クリストファーに信じてほしい。
ロザリンドは深呼吸をし、すべてを打ち明ける覚悟を固めた。
「お兄様は、魔王のことはご存じですよね……?」
声が震えている。
クリストファーは静かに頷く。
「勿論だ」
魔王の意志が宿ったものが魔王となり、何度もこの世界に現れては、魔人を率いて世界を滅ぼそうとした。
だが、そのたびに勇者によって倒されてきた。
この世界の生命すべての敵。
「女神は――……私を……」
その時、天から神々しい光が差し込む。
凄烈なまでの白と、七色を帯びた光が。
『ロザリンドはいずれ魔王になる存在です』
神託が鐘のように響き、白い羽根が舞い落ちる。
割れた天井から降りてきたのは、アリーシャだった。
ナヴィーダと融合し、翼を持った姿は女神そのもので、それはロザリンドもよく知っているものだった。
(これは……ゲーム中で最強技を使うときの主人公の姿)
アリーシャ――否、ナヴィーダがクリストファーへ微笑む。
『勇者クリストファーよ。あなたに使命を与えます』




