第五十七話 蒼き龍
龍へと変貌したシルフ。
その怒りを鎮められるものは誰もいない。
空を覆うほど巨大な龍。
ファンタジーや神話の世界から飛び出したような、東洋の龍に酷似したフォルム。人を丸呑みできる程巨大な猛禽類の嘴。その奥には鋭い歯が並ぶ。口周りには立派な髭を蓄え、憎しみの溶岩を赤い瞳に滾らせていた。胴体は蛇のように長尺で柔靭。腹は白く、背は蒼い鱗が敷き詰められ、背鰭が尾の先まで立ち並ぶ。
「おいおいおいおい、何なんだよ、アレは!」
絶賛乱心中のグロリアには目もくれる余裕はなく、ただただ空に顕現した龍に心奪われていた。
「お、俺は逃げるからな!」
足を巻いて逃げ去る大男。決して侮蔑はしない。それは当然の反応だ。
だが、俺まで逃げるわけにはいかない。
「あの石は相変わらずトンデモアイテムだな。正直、背中を向けてしまいたいぜ」
今まで対峙したことのないビッグサイズ。こんなもの、一人でどうこうできるレベルではない。
「だが、こっちにも意地ってもんがあるんでな。この落とし前をつけるっていう」
刀を龍の鼻先へ向ける。
この武器だからこそ、まだ戦える可能性があった。
「刮目せよ。ここからが真の『サイキョウ』を決める大一番だ」
まるで言葉が伝わったかのように、龍が咆哮する。木々を震わせ、血肉を沸かせるほどのプレッシャーを放ちながら。
それが戦いのゴングだった。
まずは、奴の行動を見る。
仕掛けてきたのは、重力に身を任せた、巨体による突進。
右へロールしながら回避するも、少し掠る。掠っただけで、大きく体が吹き飛ばされた。
至近距離で実感するあの巨体。丸太なんて比喩は不正解。例えるならば、空を自由に走る鉄道、もとい新幹線だ。
先程までいた場所を見れば、土が大きく抉れ、その威力の凄まじさを物語っていた。
龍は空へ戻り、ゆったりと八の字を描くように泳ぎながら、こちらを伺っている。
上空に留まれば、こちらの攻撃を当てることはできない。チャンスは先程のように下りてきた瞬間。
奴を常に視界に入れながら、身構える。
まだ、まだ、まだ。
龍の動きに変化が起きる。ぐるりと旋回した後、頭をこちらに向け、長い体が一直線になった。
来る。
先程よりも垂直に近い角度。
タイミングは一瞬。その時を待ち、刀を下段に構えた。
村へ辿り着く脱走者一同。
先頭に立つ俺とラピスは、ここまでずっと手を握っていた。
「風が強くなってきたね……」
「うん……」
「私達、生きてるんだよね」
「……うん」
「夢なんかじゃ、ないよね」
「――うん!」
右手から伝わる力が、熱が、願い焦がれた現実だと教えてくれる。
まだ、土地としては魔界のままだけど、取り返したのは確かだ。
村人たちは、皆抱き合い、涙を流して生還を喜び合っていた。知らない人たち――アクセル出身の人たちは、喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。戸惑っている様子でもあった。
「ルイン」
「ん?」
改まって呼びかけられる。
「ありがとう」
それは、ただのお礼でしかないのに、ずっと特別に感じた。
だけど。
「ルイン?」
これで終わりなのか。
過酷な戦いは、すんなり終わってしまった。
「え、あ、いや、何でもない……」
マザランからはここを任された以上、向かう訳にもいかない。
前回は帰る途中に襲われた。今度は、帰った後に襲われてもおかしくない。
そう、抜けた気持ちを入れなおしかけた瞬間。
突如響き渡る咆哮。それは、どの野獣とも一致しない、大きく、野太い声。
「何、今の音?」
村にいる全員に戦慄が走る。
支配されていた記憶が、トラウマとなって蘇った。
泣きじゃくる子供。その場に蹲る大人。中には大事な人と抱き締め合って互いを守る人もいた。三者三様の行動を取るその様子を見て、俺は自分自身の中に、まだ戦う炎が残っていることを自覚する。
俺は、縋るように繋がっていた右手を振り払う。
「ヤダ……」
それでもまた掴まれてしまった。
一瞬、その手を放したくない衝動に委ねてしまいそうになる。だけど、それでは守れるものが守れなくなるかもしれない。そんな予感がした。
「ごめん、でも、行かなきゃ」
彼女は無言で首を横に振る。
もう、泣き崩れてしまいそうな、そんな表情で。
「大丈夫。必ず帰るから」
握られた手を引いて抱き寄せ、耳元で囁く。
震える小さな肩。愛おしい気持ちを捨て、引き剥がした。
「本当に行くんだね」
「うん」
やつれてしまった母親が、寂しそうに尋ねる。
また止められたらどうしようか。だが、かけられたのは違う言葉。
「絶対、生きて帰るんだよ。美味いもん、用意しておくからさ」
「うん。楽しみにしてる!」
俺は駆けだす。
その先に、相棒が待っている。
マニフォールの街。
彼らが進軍して半日が経った。
「今日は静かね」
「ええ。でも、これがもし嵐の前の静けさだとしたら――痛い!」
額にコツンと微痛。目を開ければ、デコピンの指を解く、怖い顔をしたクルトの姿。
「そういうこと言うと、本当になっちゃうから言わないの!」
「でも……」
「でもじゃない」
「いひゃいれす」
今度は両頬を引っ張られる。もう充分だ。
「静かなのはいいことじゃない。それだけ平和ってことなんだから」
「高ランク冒険者はみんな行っちゃいましたからね」
熱を持った頬を優しく労わりながらそう差しておく。
「それもそうね」
そう、話をしていた矢先。
「た、大変だ! 龍が、龍が出た!」
血相を変えて、一人の低ランク冒険者が転がり込んできた。
「龍って何を言っているんですか。お伽話じゃあるまいし」
「お、俺だって目を疑ったよ。ででで、でも、本当に、本当にこの目で見たんだ!」
彼の言葉に嘘偽りはなさそうだが、龍とはこれまさに。
「蛇の魔物ではなくて?」
「ば、馬鹿言え! 空飛ぶ蛇が何処にいるよ!」
私はクルトと顔を合わせる。
彼女は目を見開いていたが、私も同じ顔をしていただろう。にわかに信じがたい。
「その龍は、今どこにいるんですか?」
彼は、指を上に向ける。
「……は?」




