第3話「既読という名の死体」
◇
「――未読無視と既読無視、どちらがより残酷だと思う?」
放課後の文芸部室。
白峰アリアは紅茶をひと口飲んでから、人ひとりの人生をわりと雑に分岐させる問いを投げてきた。
窓の外では運動部の連中が、今日も青春を全力で消費している。
青春というのは、たぶんああいうものだ。
一方こちらはというと、放課後の文芸部室で未読無視と既読無視について真剣に討論している。
同じ高校生とは思えない。向こうが青春なら、こっちは法廷だ。
しかも被告はたぶん俺である。
「いきなりだな」
「青春の問題は、たいてい突然に始まるものよ」
「それっぽいこと言ってるけど、ただのメッセージアプリの話だぞ」
「あなたは“ただのメッセージ”で傷ついたことがある顔をしてる」
「人の顔を勝手に経歴書にするな」
アリアは気にした様子もなく、頬杖をついた。
この女はたぶん、人の急所を見つけるためだけに進化した新種の生物だと思う。
「で、どっち?」
「……既読無視じゃないか」
「理由は?」
「読んだ上で返さないって、わざわざ拒絶された感じがする」
「なるほど。死刑宣告型ね」
「その分類、嫌だな」
「未読無視は?」
「まだ言い訳ができる。忙しいとか、気づいてないとか、スマホを川に落としたとか」
「随分と優しい世界線ね」
「人は希望がないと生きられないんだよ」
「正確には、“自分に都合のいい解釈”がないと、ね」
それは妙に納得できた。
人間という生き物は、事実より物語を重視して生きている。
返信が来ない、という事実より。
きっと忙しいんだ、という妄想のほうを信じたがる。その方が、少なくとも夜に天井を見上げる時間は減る。
いや、減らないか。普通に増えるな。
「じゃあ、未読無視のほうが優しいのか?」
「いいえ。むしろ残酷」
「なんで」
「終わらないから」
即答だった。
「既読無視は、少なくとも判決という名の答えが出てる」
「まあ、嫌な答えだけどな」
「でも未読無視は違う。生きてるのか死んでるのかも分からない」
アリアは窓の外を見た。夕陽が銀色の髪に薄く滲んでいた。
普段は人の黒歴史を発掘して展示する学芸員みたいなことをしているせいで忘れがちだが、こういう瞬間だけ、この女がちゃんと美少女だったことを思い出す。
「期待だけが、延命措置みたいに続く」
「その言い方やめろ。やたらリアルだ」
「だってそうでしょう」
たしかにそうだった。
既読無視はナイフだ。
一回刺されて終わる。
シンプルで分かりやすい。実に親切設計だ。死刑執行書みたいなものだと思えばいい。
問題は未読無視である。
あれはナイフじゃない。
もっとこう、静かに酸素を抜かれていく感じだ。
死ぬほどじゃない。でも確実に苦しい。
しかも相手は、たぶんそのことを知らない。相手に殺意があるのかないのか分からないくせに、ちゃんと苦しい。
非常に性格が悪い。
「……ちなみに」
アリアがこちらを見る。その目は、だいたい他人の墓を掘り返す時の目だ。嫌な予感しかしない。
「あなたは未読無視されたことがある」
「なんでそうなる」
「既読って単語にだけ反応が鋭い」
「俺は犬か」
「ええ。しかも、捨てられた犬みたいな目をする」
「急に保健所みたいな話にするな」
「『相手にも事情がある』って、傷ついた側の人間しか言わない」
「論理が雑なのに妙に正確なのやめろ」
「呼んでも来ないくせに、特定の単語にはちゃんと反応する」
「ますます犬じゃねえか」
「忠犬とは言い難いけれど」
誰がお前なんかの帰りを10年も待つか。
「中学生の頃」
「やめろ」
「好きだった女の子」
「やめろ」
「勇気を出して送ったメッセージ」
「やめてください」
「そして表示される、無慈悲な――」
「未読」
「そう」
頷くな。
ご臨終です、みたいな顔で。
俺は机に突っ伏した。
人間には、思い出したくない記憶がある。
たとえば中学二年の夏とか。
たとえば好きだった女の子とか。
たとえば、その子に送った最悪のメッセージとか。
よく喋るわけじゃなかった。席が近かった時期に、何度か消しゴムを貸したくらいの関係だ。
けれど、その子は帰り道で空を見上げる癖があった。
夕方の雲とか、月とか。
そういうものを見つけると、ほんの少しだけ足を止める。その横顔が、妙にきれいだった。
だから俺は、ある夜、送ってしまったのだ。
『今日の月、なんか綺麗じゃね?』
と。
今なら分かる。
それは恋文ではない。
ただの事故報告書だ。
「…………」
「…………」
アリアはしばらく黙っていた。
せめてもの慈悲が生まれたのかと思ったが、そんなことはなかった。
「それで返事が来ると思ったの?」
「死体蹴りは止めてくれ」
「中学生だからギリギリ許されるライン」
「今でも普通に致命傷なんだが」
アリアは少しだけ笑った。
完全に勝者の笑みだった。
たぶんこういう顔で、歴史上の独裁者たちは敗者にサインを書かせたんだと思う。
「でも」
彼女は珍しく、少しだけ声を柔らかくした。
「未読のほうが、あなたにはよかったのかもしれない」
「なんで」
「既読無視だったら、ちゃんと嫌われたって確定するから」
「やめろ」
「未読なら、まだ物語を書く余地がある」
「忙しかった、とか?」
「スマホを川に落とした、とか」
「そこ採用するのか」
「あなた、そういうの好きでしょう」
「好きでやってるんじゃない。生存戦略だ」
「人間らしくていいと思う」
その言い方が、少しだけ優しかった。
だから困る。
普段めちゃくちゃ刺してくる奴が、たまに絆創膏を貼ってくるのは反則だ。
刺したのお前だからな。
「けどさ」
俺は顔を上げた。
「既読無視って、返さない側にも事情があるんじゃないのか」
アリアの指が、カップの縁で止まった。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬だけ、彼女の目が少し遠くなった気がした。
「……あるでしょうね」
「やけに素直だな」
「返事をしないことが、いちばん傷つけない選択になる場合もある」
「それは本当に?」
「少なくとも、返す側はそう思ってる」
その声は、いつものように冷たかった。
でも、どこか薄かった。氷じゃなくて、溶けかけの硝子みたいな声だった。
「経験者?」
「想像よ」
「本当に?」
「詮索は嫌われるわよ、佐藤くん」
「もう嫌われてる可能性がある」
「安心して。今のところ、観察対象としては良好」
「人間扱いしてくれ」
アリアは小さく息を吐いた。
それから、静かに言う。
「未読も既読も、本当は通知の問題じゃない」
「じゃあ何の問題なんだ」
「待つ側と、待たせる側の罪悪感の問題」
部室に沈黙が落ちる。
外の歓声が、少しだけ遠く聞こえた。
「待つ側は、自分が軽く扱われたと思う。待たせる側は、自分が悪者になったと思う。だから、どちらも少しずつ傷つく」
「……人間って面倒だな」
「ええ」
アリアは薄く笑った。
「だから文学になる」
そう言われると、反論しづらい。
人間がもっと単純な生き物だったら、世の中の小説の半分くらいは成立しない気がする。
残り半分はたぶん筋トレ本だ。
「――ところで」
「まだあるのか」
「その相手、今も好き?」
俺は鞄を持った。
「帰る」
「まだ部活中」
「退部します」
「逃げた」
「戦略的撤退だ」
「敗走とも言う」
うるさい。
本当にうるさい。
だけど、ドアに向かいかけた俺の背中に、アリアの声が落ちた。
「佐藤くん」
「なんだよ」
「返信が来なかったからって、その気持ちまで無かったことにはならないでしょ」
振り返ると、アリアはもう、こちらを見ていなかった。
窓の外を見ている。夕陽の中で、その横顔だけがやけに静かだった。
「……それ、慰めてるのか?」
「分析よ」
「便利な言葉だな」
「ええ。優しさって言うより、照れずに済むもの」
そう言って、アリアは紅茶を飲んだ。
俺は何も言えなかった。
未読無視も、既読無視も。
たぶん本当に残酷なのは、返事が来ないことそのものじゃない。
返事が来ない間に、自分で自分を否定し始めることだ。
あの日の俺のメッセージは、結局、読まれたのかどうかも分からない。
でも。
月が綺麗だと思ったことまで、なかったことにはならない。
……いや。
やっぱり普通に恥ずかしいな。
月のくだりだけは完全に死体だ。
あれだけは、埋葬してほしい。
できれば誰にも掘り返されない場所に。
特に、白峰アリアには。




