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第02話 赤い傘と地下街の警告

 左折する。ハンドルが重い。タイヤの音が変だ。何かが挟まっている。急ブレーキをかける。


 車を降りる。後輪を確認する。何もない。疑心暗鬼だ。拳を握りしめる。骨が軋む音がする。


「冷静になれ」


 再び車に乗る。心拍が早い。鼓動が耳朶を打つ。暗号化通信を試みる。接続失敗の表示が三回続く。


 端末を叩きつけそうになる。手を止める。代わりにダッシュボードを開ける。予備の端末が二台。まだ使える。


「ここから動くな」


 エンジンを切る。路肩に停車する。周囲を観察する。歩行者はいない。店は閉まっている。


 新しい端末で安全情報を確認する。在留邦人のGPSは半数以上が圏外だ。主要避難場所のカメラ映像が次々に遮断される。


「追い詰められている」


 深呼吸をする。冷たい夜気が肺に染みる。計画を変更しろ。今すぐに。移動しながら解析は諦めろ。まずは生き残れ。


 玄関のドアノブに手をかける。金属が冷たい。指先が滑る。汗を拭う。


 ドアを開ける。隙間から外を覗く。路上に車はない。人影も消えている。静まり返っている。


 足を踏み出す。コンクリートが硬い。靴底が軋む。一歩、また一歩。速度を一定に保つ。


 左側の路地を見る。暗がりが深い。何かが動いた気がする。目を凝らす。猫の影だ。


 バス停は百メートル先。街灯がちらつく。電球が切れかけている。明滅がリズムを乱す。


 背筋がゾッとする。監視されている感覚が肌を走る。振り返らない。自然な歩幅を保つ。


 右耳で周囲の音を拾う。風の音だけだ。川の匂いが混じる。潮の香りがする。


 ポケットの衛星電話が微かに震える。着信ではない。干渉か。握りしめる。固い角が掌に食い込む。


 バス停の標識が近づく。ベンチは空いている。時刻表の文字がかすれている。


 立ち止まる。バスの到着時刻を確認するふりをする。代わりに周囲の窓を見渡す。


 三軒先の二階のカーテンが揺れた。一瞬だけ隙間が開いた。誰かが覗いていた。


「捕まった」


 その場から離れる。バスは待てない。歩道をそのまま進む。速度を上げない。焦りは禁物だ。


 次の角を曲がる。路地に入る。暗がりに身を隠す。壁に背中を預ける。冷たさが伝わる。


 鼓動が喉元で鳴る。胃が縮む。深呼吸を一つ。夜気が鋭い。


 再び衛星電話を取り出す。電源を入れる。画面が歪む。文字が滲む。干渉は確実だ。


 路地の奥へ歩き出す。裏通りへ繋がるはずだ。足音だけが響く。


 裏通りに古い公衆電話があった。受話器が歪んでいる。硬貨を入れる。ダイヤル音が途切れる。喉の奥が乾く。


 衛星電話のバッテリー蓋をこじ開ける。内部のプリント基板に微かな変色。薬品の匂いがする。


「こいつもやられたか」


 林の家を出る前に確認すべきだった。油断だ。肩の重みが増す。


 公衆電話に硬貨を入れ直す。佐藤の携帯番号を回す。呼び出し音が一つ。二つ。三つ。


 鼓動が耳朶を打つ。四つ。五つ。


「もしもし」


 声が掠れている。だが、確かに佐藤だ。


「今どこだ」


「支店の裏倉庫です。支店長、無事ですか」


「今から聞くことを実行しろ。第一、全ての通信機器を電源オフ。第二、待機地点Cへ移動。第三、一時間後に改めて連絡する」


「了解しました」


 受話器を置く。硬貨の返却口が空いていた。小銭が戻らない。


 この電話も監視下か。皮膚が粟立つ。


 歩き出す。淡水河岸への点検は諦める。佐藤との再連絡が最優先だ。


 路地の向こうでエンジン音が唸る。ヘッドライトが壁を舐める。


 引き返す。別の路地へ潜り込む。影に溶け込む。息を殺す。


 後悔が頭を打つ。バスに乗っていれば。河岸を確認していれば。計画変更が遅すぎた。


 しかし、今動け。止まれば終わりだ。足を前に出す。


 林の家に着いた。書斎の机が光っている。


「結城、今日の書類は少し違うな」


「林、机を見てくれ」


 ペン立てが中央から三センチ右。ファイルの山が五度傾いている。


「机は整理されてるが、不自然だ」


「俺が到着する前、誰かが入った。証拠隠滅だ。監視されている可能性が高い」


 林が机を蹴る。鍵束が床を転がる。


「筆記具は昨日と3センチ違う。ファイルの角度は5度ずれている」


「引き出しの印もだ。2ミリ右にずれている」


 指差す。引き出しのノブがつやつやしている。


「ノブの汚れが消えている。昨日はここに指紋があった。鍵穴の傷も、新しい」


「誰がやった?何の目的で机を整理したんだ?」


「俺の机だ。誰が整理したんだ?」


 林の拳が震える。俺の額に汗がにじむ。 玄関の鍵穴に目を凝らす。微かな光の反射がある。


 指先を近づける。金属の粉が、かすかに散らばっている。


「工具の削り粉だ」


 林が息をのむ。俺の背筋が凍る。


「ピッキングか」


「緊急の開錠ではない。痕跡を残さない技術だ」


 粉は銀色と青。特殊な鋼とチタン。軍や諜報機関が使う。


「高い技術の持ち主が入った」


 林の顔が青ざめる。俺の歯が軋む。計画は完全に筒抜けだ。 書斎のランプに手を伸ばす。スイッチの金属が温かい。


 ノートPCの裏面を触る。熱が伝わる。通電後の余熱ではない。


「これ、電源切れてるか」


 林が首を振る。俺の指が電源ボタンに触れる。


 小さな凹凸。脂の痕が、べたついている。


「指紋が多すぎる」


 林の息遣いが荒くなる。俺の胸郭が締めつけられる。


 デスク下のモデムを探る。発熱している。ランプは消えたままだ。


「データ転送の跡だ」


「いつ?」


「俺たちが着く直前まで」


 林が窓辺へ走る。カーテンの隙間から外を窺う。


 俺は通信記録を探す。ログは消されている。だが熱は残る。


「緊急の通信があった。データの削除作業も」


 路地でエンジン音が遠のく。林の肩が跳ねる。


「向こうはすべて把握している」


「逃げ道を塞がれた」


 俺の手のひらが汗で滑る。計画の基盤が、音を立てて崩れる。 林が窓辺で固まる。カーテンの端が微かに揺れる。


 こっちを向くな。思う。


 眼が路地の闇を裂く。何かが動いた。影の流れ。


 心臓が胸骨を打つ。手足の重さが地に引かれる。


 人影だ。すり足で滑る。壁伝いに走る。


 視線を感じた。首の角度が変わる。


 人影が反応する。旋回。次の陰へ消える。


 動作が一続きだ。途切れがない。訓練された流れ。


 血が冷える。肩の緊張が鎖のように。


「…見られた」


 声が出ない。吐息だけが白く乱れる。


 林が息を殺す。俺の拳が窓枠に食い込む。机のノブを引く。引き出しが滑り出す。


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