第12話 保護を装う工作員
背筋が凍る。喉が詰まる。
「接触方法は?」
「 '保護を装った誘導' です。病院や大使館を名乗っている」
受話器を握りしめる。プラスチックが軋む。
「邦人側の対応は?」
「半数が応じた模様。残りは警戒している」
時計を見る。針が早く進む。
「囮工作の本格化だ。我々の手立ては?」
「物理的接触だけです。表向き業務を盾に、直接警告する」
電話を切る。沈黙が机を覆う。
呼吸が浅い。肺の奥が痛む。
「佐藤、短波で第二報を。『竜、餌に食いつく』」
「了解。ただちに」
部下がオフィスを出る。ドアが静かに閉まる。
パソコンの画面を見つめる。業務報告のウィンドウが開いたままだ。
「演じ続ける。裏で戦い、表では平静を装う」
キーボードを打つ。指先だけが熱を持つ。
「七十二時間。この仮面が剥がれるまで」 定例報告書のファイルを開く。文章が空虚に並んでいる。
「本日の業務報告は『平常通り』のみとせよ」
キーボードを打つ。指先だけが動く。心拍は早い。
佐藤がデスクに近づく。息遣いが荒い。
「支店長、本社からの問い合わせです。詳細な報告を要求しています」
画面をちらりと見る。本社システムからの自動メッセージだ。
「返信は『現地情勢不安定につき、詳細は後日』とだけ」
「それで良いのですか?」
「余計な情報は一切流すな。全てが監視下にある」
胃が重く沈む。背中に冷たい汗が流れる。
メールを送信する。画面が「完了」を示す。
受話器を取る。林への内線を回す。呼び出し音が長く響く。
「通信障害は継続中か?」
「……はい。全ての回線が不安定です」
「寺院の鐘は組織的工作だ。通常業務は最低限に切り替えよ」
「了解しました。表向きの動きは?」
「定例報告を簡略化した。これ以上は危険だ」
電話を置く。手のひらが湿っている。
窓の外を見下ろす。路上の監視車両がまだいる。
「彼らはこちらの動きを読んでいる。ペースを乱せ」
書類の山から一枚を取り出す。在留邦人リストの表紙だ。
「佐藤、このリストのバックアップは安全か?」
「暗号化済みです。が、解読される可能性は……」
「時間の問題だな。ならば偽のリストを流せ」
「偽物を?」
「工作員の時間を割け。本物の安全を確保するためだ」
キーボードを叩く。偽データの作成を指示する。
指が震える。キーを打ち間違える。
「焦るな。一つずつだ」
深呼吸する。肺が痛い。
モニターに映る業務画面。全てが虚構だと知っている。
「表向きの報告は終わった。裏の戦いはこれからだ」
立ち上がる。膝の関節が軋む。
「次の移動まで三十分。平静を装い続けろ」
コーヒーカップに手を伸ばす。中身は冷え切っている。
飲み干す。苦味だけが現実だ。 内線のランプが点滅する。受話器が冷たい。
「第一報、本土より応答なし。短波交信は確立せず」
息を深く吸う。肺が痺れる。
「衛星電話の代替を急げ。暗号化短波ラジオの準備は?」
「機材は用意済みです。ただし周波数が連日変調されています」
窓の外を見る。雲が低く垂れこめる。
「事前に合意した緊急コードを使用しろ。今日の識別信号は『東雲』だ」
キーボードを叩く。指先だけが動く。
「佐藤、セカンダリ・プランへの調整事項を列挙せよ」
モニターにリストが流れる。項目が赤く光る。
「第一、避難経路Bの検問突破方法。第二、中継拠点C3の危険度上昇。第三……」
背中の汗が冷える。首筋が張る。
「第三は邦人リストの分散保持だ。紙媒体で三分割しろ」
「ですが管理が──」
「管理より生存が優先だ。分散して持ち出せ」
立ち上がる。机の端に手を置く。木の感触が硬い。
「表向きの通常業務を続行せよ。メールの返信は定型文で」
デスクの電話が鳴る。広報部からの問い合わせだ。
「本日の営業は平常通りです。ただ、一部通信に遅延が生じております」
声は平穏だ。手は微かに震える。
受話器を置く。掌の汗がにじむ。
「伊達との緊急連絡網を再構築しろ。物理的な使者を介せ」
「使者の選定は?」
「林が手配する。連絡は今日中に」
胃が重い。口の中が乾く。
「全工程を前倒しせよ。七十二時間では足りない」
時計の針を見つめる。秒針が跳ねる。
「次の移動まで、あと三十分。その間に決断しろ」
鞄を開ける。中から地図を取り出す。
赤い線を引く。新たな迂回路だ。
「こことここを結ぶ。監視の目を欺け」
紙を握りしめる。皺が深くなる。
「表では商社マン。裏では指揮官」
深く息を吐く。仮面が固まる。
「さあ、始めよう。時間は敵だ」
玄関のドアが閉まる音が、背筋を凍らせる。鍵穴の傷。昨日とは違う角度だ。
「佐藤、林。直ちに非公開チャネルで応答せよ」
廊下の照明がちらつく。影が揺れる。
「現行計画は凍結する。セカンダリ・プランに移行する」
胸の鼓動が耳をつんざく。喉が乾き切る。
「緊急連絡手段を確立しろ。コードネーム『稲妻』を使用せよ」
鞄を床に置く。足音一つ響かせない。
「一時間以内に三点同時接続を要求する。応答がない場合は、完全沈黙と判断せよ」
窓の外を見る。街灯の下に人影はない。
「自宅への帰宅経路はすべて放棄する。複数の迂回点を設定しろ」
肩がこわばる。鉛の重さが骨にしみる。
「佐藤は通信網の再構築を。林は移動経路の安全確認を」
冷たい感触が額を伝う。汗だ。
「監視を確認しながら、三十分以内に次の地点へ移動する」
壁にもたれる。深呼吸が浅い。
「計画が筒抜けだ。動けば罠。動かなければ詰み」
拳を握る。爪が掌に食い込む。
「ならば、こちらの手番で盤面をひっくり返す」 書類の山を前に、林からの報告書を広げた。灯台通信の遅延データが赤い波を描く。
「通信途絶は意図的だ。妨害電波のパターンが軍用機材と一致する」
伊達の会合記録をめくる。非公開チャネルでの発言が一行だけ。
「使者は接触に成功。本土側は情報の重みを認識せず」
喉の奥が焼ける。心臓が肋骨を打つ。
「林の情報によれば、基隆港の監視網が三倍に増強された。沿岸灯台の通信異常は全て東側で発生」
手帳に走り書きする。文字が震える。
「敵は海上ルートを封鎖しようとしている。灯台通信の問題は迂回計画の前提を崩す」
地図を引き寄せる。青い矢印を灯台の位置に置く。
「伊達の伝言は二時間遅れで届いた。使者経由でもこれでは間に合わない」




