王女エアリスの目覚めー①
時を同じくして、エーデルニア王国の首都ワイトマリシアは上を下への大騒ぎだった。
その日、王女エアリスが目覚めたという知らせは王宮を地鳴りのように震わせた。
光の魔導士の裏切りから一ヵ月が過ぎたエーデルニアでは、昨夜の大雪が王都を一面の銀世界へと変えた。ゆっくりと伸びをしたエアリスが、「まぁ、雪が」と窓に身を乗り出したのを使用人は慌てて止め、椅子から転げ落ちた医者は足を何度も空回りさせた。
騒ぎを聞きつけやってきた王子ライナスに向かって、エアリスは戸惑いながらも「お兄様、久しゅうございます」と胸に手を当てる。王妃のワイトマリーに肩を抱かれたエアリスは、「まぁまぁ、皆さまお揃いで」と、自身が寝間着であることを恥ずかしく思い顔を赤くした。
「今日はバーティッズ神父が来ますから、早くシルーシェを迎えに行かなければ」
しんと静まる空気の中、状況の飲み込めないエアリスは不安げに母を見上げる。長い沈黙を破ったのは「二ヵ月ほど前の話でございますね」という、アナスタシアの一言である。
言葉を失うライナスと、ベッドに崩れ落ちて涙を流すワイトマリーと、雷に打たれたように固まる使用人たちの前でエアリスは、なおも困惑の表情で辺りを見回すのだった。
エアリスの目覚めは寒風と共に王都を吹き抜け、教会も、靴屋も、鍛冶場もその日は仕事を休んで、店の前でも橋の上でも、ひたすらにその話題を繰り返した。
「王女は光の魔法で生き返ったらしい」
「光の魔法使いが、王女を襲ったんじゃないの?」
「きっと、王室にも光の魔法を使えるお方がいるのだよ!」
誰もが諦めかけていた中での吉報に、街は活気を取り戻し、鬱屈とした冬空にも負けない熱を帯びはじめた。
その一報はアングレアにも届いた。
出発の支度を進めるライブリーは、「俺も行きます」と詰め寄るフレイゾンを鬱陶しげに払いのける。「騎士長には伝えないんですか」と距離を詰められれば、肩をすくめてとぼけた。
「騎士長とは、俺だが?」
「……ラプトルには」
「今は伝えんでいいだろう。休ませておけ」
病棟を見たライブリーは、従者の連れて来た馬にまたがって駆け出した。
北西を目指し全速力で馬を走らせ、村を過ぎ森を抜け、一ヶ月ぶりのワイトマリシアに辿り着いたのは出発から二日後の昼時だった。街は異様な活気に包まれ、浮足立った人々は誰もライブリーの馬を気に留めない。王宮に続く道はいつにも増して厳しい警備が敷かれていたが、兵士はライブリーの顔を見るや敬礼と共に馬を通した。
ライブリーの訪問を聞きつけやってきたのは、王子ライナスの騎士長セーライズである。
「おお、セーライズ。第一王子の懐刀が直々に出迎えか」
「そちらこそ、アングレアの軍師が使い走りか」
軽く肩を抱き合った二人は、再会の喜びもそぞろに歩き出す。
「それで、ご容態は」
「いたって良い。記憶を失われたこと以外、何ひとつ問題はない」
「記憶が?」
「二ヵ月ほど巻き戻っているようだ」
ライブリーは小さく唸り、「光の魔法で記憶を操られた可能性があるのか?」と聞く。セーライズは、答えようのない質問にただ肩をすくめるしかなかった。
広間に足を踏み入れると、そこには王妃のワイトマリーとライナスが揃っている。ワイトマリーは開口一番、「おや、ラプトルとフレイゾンが来るものと思っていましたが」と、膝をついた来訪者を見下ろした。
「ラプトルの様子は?」
「変わりありません」
「魔力はどう?」
「まだ戻りませんが、半年もたてば篝火くらいは焚けましょう」
ワイトマリーは、そういうものなのねと肩をすくめる。
「それでも……エアリスがああなってしまった以上、騎士長に何のお咎めもなしとは、他の者にも示しがつきませんから。それに彼には、光の魔導士と結託し謀反を企てた疑いが残っています。引き続き監視を怠らぬよう」
ライブリーが「処刑の撤回……陛下の御慈悲に深く感謝を申し上げます」と返せば、微笑みと共に頷いた。
「それにしても、エアリスが目覚めて本当に良かった。ビンセント公に何と説明したらよいか、気を揉む毎日でしたよ」
ワイトマリーは床から天井まである巨大な窓から、雪景色の先、エアリスの嫁ぎ先であるビンセント公国を臨む。今は亡き側室の子とあれど、王も王妃も美しいエアリスを溺愛し甘やかした。エアリスがならぬと言えばならなかった。魔術評会に先立ち、ようやっと婚約を決めたエアリスのために、婚礼の儀の用意は大急ぎで進められている。
「ライナス、あとは宜しく」
傍らに立つ王子ライナスは短く返事をし、ライブリーをまた別の部屋に案内する。暖炉でよく暖められたその一室で、ライナスは「まず、守ってもらいたい秘密があるんだ」と切り出し、王妃ワイトマリーが記憶喪失のエアリスのために用意したシナリオを語った。
エアリスは日頃の疲労がたたり、シルーシェの出迎えの準備中にぱったりと倒れ、一ヶ月ほど眠っていた。その間に、シルーシェはさらなる光魔法の研究のため遠い国へ行き、家族もそれについて行く形でエーデルニアを去った。
「というわけで、エアリスにはこれ以上心労をかけたくない。どうか話を合わせてくれ」
「もちろんです。王室の意向とあらば」
ライブリーの視線を感じたセーライズは、「今はご療養に専念されるべきだ」と呟き、暖炉の火を鳥や犬の形に変えて遊ぶ。
「それで、そちらの話は? まさかエアリスの顔を見に来ただけではないだろう」
改まって尋ねたライナスに、ライブリーは、主から預かった伝言を口にした。
エアリスの元騎士、ラプトルとフレイゾンについて。
評会の騒動が落ち着いた段階で、ローゼスは領地のアングレアに帰り、処刑を逃れたラプトル、ついでにフレイゾンもそれに伴いワイトマリシアを去った。
もはや、エアリス騎士隊の再建は不可能。
ライブリーは、しばらくは王国軍が警護をすればよいと述べる。
「殿下がビンセント公と結婚なさるのは確実でしょう。どの道、騎士隊は解散する運命です」
「ふむ……それについては国王にも話をしておくから、ワイトマリシアから伝令があるまで、引き続きそちらでラプトルたちの面倒を見てくれ。と、ローゼスに伝えてくれ」
「え、ええ。分かりました」
間髪を入れず返ってきた答えに、ライブリーは少々面食らう。
エアリスの目覚めで様々な予定が狂い、日々その対応に追われる第一王子は、さして重要でないことは後回しだと言わんばかりにその話題を終わらせた。
「まだ何かあるか?」
「いえ……エアリス殿下のことですから、てっきり、二人をワイトマリシアに戻せと仰るかとばかり」
エアリスが目覚めないのをよいことに、我田引水で彼女の騎士を取り込んだのだ。衝突が起きれば、隣国の公爵と婚約した王国を象徴する姫君相手に、しょせんワイトマリシアの属領でかりそめの主を務めるローゼスでは、分が悪い。意を決して王宮に乗り込んだライブリーの不安は杞憂に終わった。
目覚めたエアリスは、その事実を意外にも素直に受け入れたという。一ヶ月も意識がなかったのだから当然だと、病床で気丈に振る舞った。
「知っての通り我の強い子だから、思ったことは素直に言うさ。本当に気に喰わないと思ったなら、今ごろ一人でアングレアに乗り込んでいるよ」
それはご免こうむりたい。ライブリーは苦笑いをする。
さて、と立ち上がった王子は、長い付き合いである騎士の大ベテランのために、とあるワインのコルクを抜いた。「先月ビンセント公国に入港したばかりだぞ」と勧められたそれを、王子の好みをよく知るライブリーは覚悟を決めて口に含む。
「……強烈ですな」
「コンドライト産の"シャンミー・ラスティ"だ」
舌と鼻を通り過ぎて目まで痺れそうな苦味に、むせかえるのを我慢した。ライナスはその様子を面白そうに眺め、セーライズは「無礼者で構いませんから、ワタシは遠慮します」と縮こまる。ワインもチーズもピクルスも、とにかく苦ければ苦いほどよいという妙な味覚のライナスは、秘蔵の一品でライブリーの反応を楽しんだ。
「年に一度、公国にコンドライトの船が来るんだ。毎年この時期が楽しみだよ」
「公国はそのような国とも取引があるのですか」
「さすが、大陸の市場だな。エアリスがビンセント公に嫁いだら、ワインを融通してもらう約束だ」
まったく嫌な兄だろう? 王子はおどけながら、グラスの深い赤を見つめる。一切の渋みも逃がすまいと、その手を振ってかき回すような真似はしない。
「我々は引き続き光の魔導士を追うが、もう一ヶ月がたつのだから、捜索もどこかで区切りをつけねばならないな。兄ではなく王子として言うが、今はそれよりも重要な問題がある」
すかさず「バレイへの侵攻ですか」とライブリーが言ったのを、「侵略ではなく交渉だ」と訂正する。
「かつてない大規模な作戦になるだろう。アングレアには、風魔法に通じた魔導士はいるか?」
「駒でよければ山ほどおりますが」
「多少は論理的な奴がいい」
ライブリーは二つ返事で了解し、「賢いのを連れてきますよ」と最後の一口を飲み干した。錆びた鉄片を舐めまわしているような芳香に、これはこれで悪く無いかと思いながらも、次の一杯が注がれる前に立ち上がる。
「生誕祭にはまたこちらへ来るのだろう? 無理を言うが、それまでに」
「殿下のお目に掛かれるとあらば、誰しも喜んで参りましょう」
王宮の階段を下り、赤い絨毯が一直線に伸びる廊下を過ぎれば、ライナスの見送りはここまでだった。
王子は「君たち二人、積もる話もあるだろう」と、仕事が山積みの執務室へと重い足を引きずっていった。
「光の魔導士の捜索を止めるとは」
王子の姿が見えなくなるやいなや、ライブリーは口を開く。リントブルム家の長男を追ってレガノア村へ行ったウィンチェスも、手痛い仕打ちにあったと聞いた。やはり、一筋縄ではいかないか。
「何も土産が無くてすまないね」
「構わんさ。ムカデドリでも買って帰る」
ライブリーは、左右合わせて三十五本の足を持つ奇怪な鳥の名を挙げる。その足を煮込んで食べれば肌の健康に良いとされ、アングレアに来る前のローゼスがこれを好んで食べていたのをよく覚えていた。出発前、ゴルーサには悠々草の香を、フレイゾンにはヘドリー醸造所のウイスキーをねだられたが、そのどちらの頼みもハナから聞く気はない。
「グレンは元気にやってるかい?」
「あいつは風邪を引いたぞ。魔力を抜いた途端これだよ」
「医者の不養生ってやつだ」
「今まで治癒魔法で誤魔化してきたツケだ。休んで反省するがいい」
「あの、下民の男は?」
「フレイゾンは、ちょっとばかし魔力を抜いて力仕事をさせているよ。冷めた紅茶を炎の魔法で温め直したのが、ローゼス殿下の逆鱗に触れた」
「はは。ボクもこの前、王子から頂いたワインに蜂蜜を入れて温めたら、三日間口を聞いてもらえなかった」
ライブリーは「それはお前が悪い」と一言、毛皮のマントルをしっかりと着こんだ。王都に面する最下層の城壁を抜ければ、王宮を常に覆う魔術はそこで途切れ、ひやりと冷たい風が二人の体温を容赦なく奪った。
門衛に預けていた馬を受け取り、ではまた、と短く言ったライブリーを、セーライズは意味深げな視線で引き止める。妙な間の後、彼の指先から現れた黒い霧が空中に文字を描いた。
『”精霊の糸”で会話は王子に筒抜けだ』
ライブリーは乾いた笑みを浮かべ、『光の魔導士に怯えた腰抜け、と口を滑らすとこだった』と同じく宙に文字を浮かべる。騎士隊随一の切れ者が何の失言もしなかったのが面白くなかったセーライズは、「ではまた、生誕祭の日に」と素っ気なく背を向けたのだった。




