EXTRA-2 A.D.2013
水が、深い霧が、あらゆるものを飲み込んでいく。
それがおしまいならば、はじまりもない。
たったひとりの意志が、ひとつの世界を終わらせる。
朝。零二が目を覚ますと、瞳は雲を視界に捉えていた。
それは窓から見える景色ではなく、下から上を覗いて見えるものだと言うことに気づき、ここで零二の眠気は完全に消え去った。
あるはずの屋根はない。何処へ飛ばされたのだろうか。
小刻みにゆらゆらと揺れている家。
地震とは違う不規則な揺れに零ニは不快感を覚える。
これが何なのかは不明だが、外はどうなっているのかは気になる。
零二は状況を確認すべく、窓を開けた。
そこには理解しがたい世界が広がっていた。
茶色に濁った水が辺り一面に広がり、土砂とともに流木や車、他の家などが流されている。
いや、地形の配置からしてここは川……なのだろうか。にしてはあまりにも幅が広い。
まるでこれは津波、高潮の類だ。
……そもそも記憶が正しければ、近所に川などなかったはずだが。
ここで零二は今置かれた状況から考えうることことがひとつ、ふたつあった。
まず、今零ニの家は流されている。
さらに自分は命の危険にさらされている。
……大雨の予兆など何もなかった。
だがここまでの増水は近くの川が決壊した以外で起こり得ないものだ。
部屋の床は湿っており、雨が降っていたことを示している。そんな中で平然と眠っていた自身の鈍さに呆れたいところだった彼だが、そんな暇はない。
幸い、今のところ雨は止んでいるらしく、まだ最悪は避けられている。だがあたり一面が海のようなこの状況。
どうすればいいものか。零二は考える。
両親を呼んでみる。
「お父さん、お母さん!」
返事はない。気配もない。
下に行こうにも、いつ浸水するかがわからない状況で降りるのは危険だろう。
すでに流されてしまったか、もしくはすでに。
そういった考えに支配され、怖くなる。
家から飛び移れる場所はないだろうか。
相変わらず霧に包まれた街だったものは、陸地を視界に映してはくれず、流れてくる漂流物が目の前を通り過ぎていくのみである。
もう何も思いつかない。
視界には陸地が全く映らず、おまけに霧がかかっていて、はるか向こうがどうなっているかわからない。
そんなときだった。
何かにぶつかる音。衝撃と同時にゆらゆら揺れる感覚がぴたりと止む。
「大丈夫か、零ニ!」
「お前は……雄大か?」
すかさずロープのようなものが投げられる。陸は見当たらないはずなのだが。
「それに掴まれ! まだ辛うじて橋は活きている。そこから避難所に急ぐぞ!」
ガッシリとした一本のロープは綱引きに使われるような綱のようにがっしりとしていて、手に取るとこの状況を切り抜けられそうな頼もしさを感じる。
零ニはたぐり寄せる。
生き残る、という可能性を掴むように、丁寧に。
「本当に川なのか」
「さあな。俺の家も流された。ここは隣町……らしい。あまり聞いたことない地名だがな」
零ニと雄大は氾濫寸前の橋を渡り、比較的安全だとされる高台を登っていた。
避難所があると言っていたが、道は荒れ、車が通れるような平たんな道のりとはいえない。
本当にこんなところにあるだろうか。
「心配するな。そこに水原さんもいる。が……無事が確認できたのもあの人だけだ。他は残念ながら、な」
「残念ながら……どうした」
「電話が一切繋がらない。見知った連絡先はひと通り試したが、な」
「安久市公民館……か」
安久市。それは昔のこの街の名だったものである。
その名は雄大や零ニが生まれた年に失われた。
他国とのいざこざが増え、有事に迎撃、打倒すべく要塞化した都市が必要とのことから、街は周囲の市町村と合併した後に帝都と改称され多くの建設が進行した。
街は環境が整うにつれて徐々に潤った。
その街の様を見たある人はこの街を要塞都市・帝都と呼んだ。
まだその途上、この街は原因がはっきりしない洪水、河川の氾濫で街の形は失われた。
公民館の木の看板は脆く、手入れがなされていない。あたりに散らばるほこりと木屑がそれを物語り、人の気配は乏しい。
「おい、本当にいるのか、水原さん」
「ああ、いるよ。先輩はずっと毛布にくるまって怯えている」
玄関を通り抜け、暗い廊下を抜けると一部屋に電気がついていた。
「み、皆……いなくなる。いなくなって……」
「おーい、いつまでびびってるんですか」
毛布を剥ぎ取ると見知った顔と対面した。
たがその形相は一言で形容し難いものだった。
「きゃあああ!」
甲高い声を上げる彼女、あの頼もしい水原ではなくなっていた。
恐怖のあまり整った顔立ちは崩れ、状況に恐怖するありふれた一市民へと彼女は転がり落ちた。
「あのですね。頼んどいたことくらいはやってもらわないと……」
「だって、だって……」
雄大はやれやれ、と息を吐き、零ニを見る。
「ずっとこの調子だ。まあ、あんなものを見せられちゃあな……」
「あんなもの?」
零ニは聞くべきではなかった。
起こったある事実はいずれ知るにしてもーー。
「何人もの野球部員が流された。先輩の目の前で。おそらく、助からない。確実に生きているといえるのは俺たちだけだ」
日は落ちた。
めぼしい食べ物はなく、錆びた鉄の匂いが漂う水道はとても飲めるものではない。
テレビは映らない。どのチャンネルに切り替えても映像は真っ暗な画面を映すのみである。
辛うじて電気が通っていたのは救いだった。
扇風機で暑さは少々和らいだ。
だがそれ以上はどうすることもできず、三人は一部屋に身を寄せていた。
「にしても、このテレビってそこそこ古いな。ワールド亀モデルってかなり初期じゃないか」
雄大は口を開く。
2004年製という、デジタル放送開始初期に発売されたデジタル対応テレビ。それまでブラウン管が主流だった業界に颯爽と現れた薄型テレビは革新的だった。
「なあ、もう一台試してみないか?」
それは倉庫から引っ張り出してきたブラウン管テレビだった。1997年製のシールが貼られた古いテレビだが目立った外傷はほぼ見られず、使えそうだ。だが……。
「こいつはアナログしか映らない。今の世の中では対応チューナーをつけない限り無意味だと思うのだが」
「とにかく、やれることはやってみよう。何かできるかもしれない」
コンセントを指し、アンテナ線のコネクタとテレビをケーブルで接続する。
電源を入れる。
すると聞こえてくるのは人の声。ザザーっというような不快な音ではなく、ちゃんと聞こえる。
砂嵐があるはずの映像はくっきりと映っていた。一年ほど前に終わったはずのアナログ放送。
『歴史的豪雨により帝都郊外のダムが決壊して丸一日が過ぎました。あっという間に土砂が街に大量に押し寄せ、多数の死者が出ている模様です。都民の生存者は絶望的という状況です』
アナウンサーは帝都郊外から中継をしているようだ。
三人は言葉を失った。
もはや、こんな状態では地方大会の開催などしている場合ではない。
驚くべきは他にもある。
河川の大規模氾濫を他の市にまで拡大させてはならない、と急造でバリケードがつくられていた。
遠目で見れば、それはまるで巨大なダムのような形になっている。
つまり、この街はもう救えない、廃棄するというのが行政の下した決断ということになる。
「こんなことが……」
「何も驚くことじゃない。一を捨て、全を救う。国を守るということなら一理はあるさ」
「私たちは……見捨てられた、の……」
そう言って魂が抜けたように映像を淡々と見続ける水原。
置かれている状況は絶望的だった。
救援物資は一切ない状況で、生命の期限は迫っていた。
そんなときだった。
「ほう、まだ生きているヒトがいたとはな」
「誰だ?!」
反応するまでもなくガスマスク姿の男に口を塞がれる零ニ。瞬時に彼は意識を失う。
「……丁度いい素体だ。少し、我々の役に立ってもらうとしよう」
「零ニに何を!」
「君にとってはただの控え選手の命など安いものだろう、ユウダイ」
名前を呼ばれ、速くなる心臓の鼓動。
「なぜ、俺の名前を……?」
「私は彼で、彼は私。同一であれど、違う道を辿った者さ」
男はある取引を二人に持ちかけた。
「私に協力したまえ。衣食住の保証付きという高待遇だ。断る理由はなかろう?」
「拒否すれば……どうなる?」
「始末するだけだ。まあもとよりこの街一体沈める予定だったのだから、どのみちそのままでは君たちはあの世行きだけれども」
そう淡々と語る男に対し、唇を噛む雄大。
「今ここでお前を殴ってもいいんだぞ」
「無駄だ。五次元以上の存在である私に対し君たちは決して敵わない。それだけは覚えておくといい」
「何を!」
全てを見下ろすような態度が気に食わなかったのか、雄大は飛びかかる。しかし、その男に触れることすら叶わない。
「言ったはずだ。君はそんな馬鹿ではなかった気がするんだが、私の思い違いだったかね? まあ、まず息を整えるといい」
雄大は息を吐く。そうすることで彼はだいぶ大人しくなった。
「先輩は……」
彼女はあまりの超常の連続に刺激が強すぎたのか、気を失っていた。これでは意思の確認のしようがない。
「決まりだな」
なすすべなく、かといって他に方法などなく従うしかなかった。
「ああ、言ってなかったがこの世界から君たちはまもなく弾き出される。元からいなかったことになる」
衝撃的なことをさらっと言う男に雄大は驚く。
「な、なんだと?」
「だとしても君らが消えるわけじゃない。そうでもしないと生き残れないから。これからやることに対して、ね」
その不穏な言葉に雄大は顔を歪める。
「何をする気だ?!」
その言葉に笑みを浮かべ、男は言った。
「……ひとつの世界の終焉に、興味はおありかな?」
EX最終話 近日公開予定




