第18話 父と子
日野の、マウンドを降りろ、という言葉に中村は反発した。
「航大がマウンドを降りたら、うちは終わり。航大に、ベンチに下がれと?」
「そうだ」
ここまで無失点で切り抜けられたのは、間違いなく航大の全力投球のおかげだ。
航大が外野もしくは一塁の守備につくのならまだしも、ベンチに下がるということはこの試合での再登板はないということになる。
そうなれば龍山学院の力は明らかに落ちるだろう。
だが、そんなことはわかっていると言わんばかりの表情で日野は告げる。
「……俺の指示じゃない。監督命令だ」
「な、何だと……」
水原監督は勝負を諦めたというのか。先輩ではあるが、航大よりも実力で劣る日野。もし打たれたら、夏は終わる。
負ければ終わりの世界では、1試合、ほんの一瞬でも気を抜くことはできない。そのことは監督もわかっているはずだ。では、何故……?
考えても、思い浮かばない。この試合、日野親子が敵味方に分かれて戦っていることしか……。
まさか、と思い中村は尋ねる。
「……父とケリをつけたい。まさかそれを監督に耳打ちでもしたんですか? あんたという人は……!」
個人的な感情だけで、手段を選ばずマウンドに登ろうとしているように感じた中村は、日野を非難した。熱くなる中村を航大が止める。
「止めるな、航大! お前、マウンドから降ろされるんだぞ。何で冷静でいられるんだよ!」
中村とは対照的に、航大は不思議と冷静だった。今までの監督、ベンチの動き。そのやりとりはこちらから聞こえてはこなかったが、航大は何かに気づいていたのだろうか。
揉め事が大きくなりそうな雰囲気だったが、日野が口を開く。
「確かに親父を倒したい、勝負したいという気持ちはある。だがな……」
日野は続ける。その言葉は意外なものだった。
「次の決勝、万が一勝てるとしたら航大、お前なんだ」
日野はとっくに航大の実力を認めていた。彼や1年の力がなければ春の二の舞いになっていたことも。
ため息をついて、日野は続ける。
「恥ずかしいよな。1年が当たり前にできる守備がこなせない。全力投球は簡単に打ち返される。……お前らはすげぇよ。俺たち2年生の背番号が2桁なのも納得がいく」
ベンチに座る2年生は、日下部や東以外は強豪チーム出身ではない。努力を重ね、競争を勝ち抜いてきた経験があるほとんどの1年生とは努力の量と質が違う。
日野は航大の右肩をポン、と軽く叩いて言った。
「このチームのエースは大村航大、お前なんだ。こんなところで力を使い果たして、倒れてもらっては困る。次の試合をお前に託すために、ここで降りてくれ。きっと監督も同じことを考えてるはずさ」
日野は監督を見る。目の合った水原監督は小さくうなずく。
話を聞いた航大はふぅ、と息を吐いて言った。
「わかりました。残り4イニング、任せましたよ」
投球練習を終え、中村は日野に駆け寄る。
サインの確認を終え、龍山学院のベンチを見ると、航大の姿が目に映った。
「あっさりマウンドを譲った……か。昔のアイツらしくないな」
中学1年の途中からエースになった航大。物怖じしない堂々とした投球、最後まで投げ抜く強さは多くの野球ファンの目を釘付けにした。エースとして最後まで投げることは航大のモットーでもあったわけだ。本来なら、マウンドを譲ることは、昔を考えればないと言っていい。
「違うのか?」
「昔は、マウンドが自分の居場所なんだって言ってましたから。……人って変わっていくものなんですね」
「俺たちと同じさ、勝ちたいって気持ち。ここまで来れたのは確かにあいつのおかげだろう」
「日野さん……」
かつてレギュラーをかけて争った1年生と2年生。レギュラーが決定してもいがみ合い、衝突することは少なくはなかった。だが、試合を重ねていくうちにズレは修正され、全員が同じ目標に向かって進む普通のチームになっていた。
……3年生が全く居ないという違和感を除いては。
「あと少しだ。ここを抑えて、勝ちに行くぞ!」
「ええ。勝ちましょう、この試合」
二人は拳を合わせた。
航大から日野への投手交代がアナウンスされ、ベンチに戻った航大はひと息つく。
「お疲れさん。ま、本当はもっと投げたかっただろうけど」
宮崎が航大の奮闘を労い、話しかける。航大はベンチに置いていたタオルで汗を拭く。
「ああ……」
航大は軽く返事をするだけで精一杯だった。日野との会話では無理して平静を保っていたが、限界がきた。
想像以上に自分の体力が消耗していたことに航大は気付かされた。
「よく頑張ってくれたわ、大村くん。ありがとう」
水原監督が航大を称え、声をかける。
「監督は……すごいですね」
「えっ?」
マウンドを降りるのは久々なのかもしれない。その時は、誰も声をかけてはくれなかった。
勝利にしか興味のないシニア時代の監督も同様に見向きすらしてくれなかった。
だが、今ここにいる水原監督は違った。
「もちろん、次の試合に勝つための可能性も考えて、という理由もある。けどね、選手の夢を守るのも監督の務めなのよ」
勝つことだけではなく、選手一人一人と向き合い、大切にする監督。この人に早く出会えていたら、航大は野球を一度辞めることはなかったのだろう……。
マウンドに目をやる監督。不安は確かにあるが、今日の試合は、彼に託された。
「あとは頼んだわよ、日野くん」
力で押す投球で打者を打ち取っていく日野。アウトカウントを二つ数えるところまで漕ぎ着ける。
打席に迎えるのは、長原。ここまで無失点と好投する相手のエース投手だが、日野には引っかかることがあった。
「昔の俺に……そっくりじゃねぇか」
言う通りにすれば勝てる。そう父親に言われ続け、物心つく頃から日野はずっと野球をやってきた。
周りからは野球ロボットと呼ばれ、いじめられることもあった。野球が好きというより、やらされていた気持ちの方が大きい。
だが、今は違う。龍山学院のエースではなくなっても、チームの全員で勝利を目指すこと、仲間と分かち合う喜び。野球の楽しさについて、なんとなくわかってきた気がする。
日野の目に長原という選手は、野球ロボットであった頃のかつての自分と重なった。
(初球、まっすぐでいきましょう)
中村の指示に首を縦に振る日野。
直球が長原に向かってくる。インコースに来たその球が想定外だったのか、逃げるようにのけぞった。
「くっ、投手に対して……やってくれるじゃん」
長原は、日野はコントロールに課題のある選手だと監督から聞かされていた。一歩間違えば相手に当ててしまっていたかもしれない。
だが、ここが勝負所と踏んだ中村。偶然か否か、ギリギリでストライクゾーンを通過した。
(2球目は外に逃げるスライダーでいきましょう。ボール球でいいです)
指示は意外だった。決め球として使う場合がほとんどだったスライダー。中村にとって策があるに違いない。
日野は中村を信じる。指示通りにスライダーを投じる。
(な、ここでスライダーだと?!)
これが日野のもう一つの持ち味。だが、本来なら決め球として使うことが圧倒的に多い。
予期しないときにこの球が来たことで動揺した長原。思わず手が出てしまう。
バットに届かない、明らかなボール球。バットにかすることなく空振りする。
(次はどっちだ? スライダーか、真っ直ぐか……)
長原の迷いは顔に現れていた。その様子を見た中村は、日野にサインを出す。
(これで、仕留めましょう)
(……まさか。そうするのか、それはそれで面白い)
日野は笑みを浮かべ、第三球を投じた。
「しまっーー」
日野が投じたのはインハイ……インコース高めの直球だった。見逃してもストライクを取られる。長原の選択肢はスイングしかない。
かろうじてバットに当てるが、打ち上げる。勢いはなく、ふらふらと上がった打球は日野のグローブに収まる。
ピンチを凌いだ日野に対し、この試合で初めての屈辱を味わった長原。航大を倒すことを目標にしてきた選手が、それ以下と思っていた選手との勝負に負けたのだ。
悔しがる長原に日野は言った。
「俺は負ける気がしない。真似事が好きな野球ロボットくんにはな」
「何……?」
これだけは言っておく、と言って日野は続けた。
「いくらプロの選手を真似しても、その選手そのものにはなれない」
「魔法」は解けた。
これまでの接戦が嘘のように、長原は崩れた。
「今まで取り組んでいたことは……俺は……」
長らく球場に聞こえなかった快音が面白いように次々と響く。
長原は失点を重ね、最終回になる頃には6点もの差になっていた。
一流選手になれる特殊なプログラム。それは、ある一種の洗脳に近い。
自分を一流の選手と思い込ませる暗示をかけ、あらゆるデータを参考にしてその選手が行う練習法から動作まで完全に真似る。
そうすれば面白いように勝ちを重ねられた。ずっと初戦敗退だったチームをここまで連れていくことができた。
だが、勝つことにこだわり過ぎた結果、本当の野球の楽しさは薄れていった……。
ストライク、バッターアウト! という審判の声が聞こえる。
長原が最後の打者としてバッターボックスに向かう。
日野は疲れ知らずの投球でここまで来た。力で押し、ときには変化球でタイミングを逸らす。付け入る隙はほとんどない。だが……。
「勝負だ! 日野!」
これまで歩んできた道に嘘偽りはない。ただ、勝ちたい。それだけを願って取り組んだことを後悔なんてしたくない。
(まだ目は死んでいない、か。ま、そうじゃなきゃ倒し甲斐がない)
長原に対しての初球はストレート。真っ向勝負であることは目に見えていた。
強振するも空振り。当たる気配はない。
2球目もまっすぐ。外角低めギリギリに決まり2ストライク。もう後がない。
3球目。来る球はわかっていた。だが、バットから快音は聞かれなかった。
長原が真似た木目田投手の弱点。それは直球に滅法弱いということ。そのものになろうとした長原は、弱点も真似てしまっていたのだ。
「昔ならこんな球、少なくともヒットにできたのにな……」
自分だけの長所すら消してしまった長原。自分だけの武器を失った選手に怖さなどなかった。
ミットが鳴る。長原の夏は終わりを告げた。
「……」
整列後、長原は黙って日野に手を差し出す。
「ナイスピッチング」
「え?」
予想外の日野の言葉に困惑する長原。
「今度は、自分だけの武器でぶつかって来てください。またやりましょう」
「ああ……そうだな、ありがとう」
二人は握手を交わす。いつか訪れるであろう再戦を願って。
試合終了後、日野はユニフォーム姿の父に球場の外で会った。
「父さん!」
「征治……」
親子での会話は久しぶりだった。龍山学院の監督を辞めさせられてから、父は家を出て行った。
複雑な気持ちをときに爆発させて、チームメイトに当たることもあった。それでも同級生、特に日下部とはよく話をした。
仲間がいること。何よりも忘れなかった日野は、父を越えたのだ。
「見事だった。俺の理想を打ち砕いた。それでこそ、俺の息子だ」
「それは俺だけじゃなくてーー」
「野球は結果が全てだ。その考えは変わらん。お前は俺に勝った。それ以上でもそれ以下でもない」
そう言った後、日野監督は最後に言った。
「あと1つだ。必ず、全国に行け。俺が決して踏むことができなかったマウンドで、投げる姿を楽しみにしている」
父と子。紅白戦の日からズレてしまった二人。
少しずつ、でいいんだ。二人三脚で取り組んだあの日々に戻れなくてもいい。
ただもう一度、親父とキャッチボールがしたい。日野 征治は思った。




