誰がために
ふと外を見ると、昨晩遅くまで降っていた雨は止んでいたが、その痕跡を庭に色濃く残していた。草木に雫が反射して、庭が幻想的である。
対して、ジルは寝起きから憂鬱な気分。過去の事を夢に見て最悪といったところだ。
ジルは昔から仏頂面をしていたわけではない。むしろ、幸助が気持悪いと感じた外の顔こそが本来の顔。中等部までは本家に住み、その時は使用人たちに笑顔が人気でもあった。
彼女の顔から良い表情が消えたのは、神取の一件からだった。本人は振り切ったつもりでも、鏡を見るたびにまだ駄目なのだと気づかされる。
そこで、代役を立てる事にした。
言い方は悪いが、穴を埋める形で神取の事を忘れようとしたのだ。それが失敗だった。
新しい従者が来るたびに、それと彼を比べ、合わなければ辞めさせる。そんな事をしている間に一年が経った。ジルの要求は二つ。だが、どちらかを取れない。若しくはどちらも取れない者であふれかえっているのが現実だ。
ジルは先ほどまで見ていた夢の内容を思いかえす。
まだジルが中等部にいた時の事。庭で彼の淹れた紅茶を飲みながら、提案をした。
「私が死ぬまで、例え誰かと婚約しても、神取は傍にいてくれる?」
少々気恥ずかしかったが、一度だけそう聞いた事がある。神取は即答だった。
「不可能です」
全く考える素振りを見せなかったため、ジルは頬を膨らませてどうしてか訊く。
「一つは、もし上の方から命令が降りれば、私はお嬢様の元にはいられません。二つに、もしお嬢様の身に危険が迫った時、私は命を投げ出してお守りしますから」
そう言って、文句ありげなジルに苦笑していた神取だった。
ジルはそれでも認めきれずに、別の提案を押し付ける
「一つ目は仕方ないわ。でも二つ目は考えないようにして。離れ離れになっても、絶対にお互い生きる事! 私より先に死んだら許さないわ。約束よ?」
神取は目を丸くしていた。ジルは昔からお願いはしない性質だった。その彼女が、初めて自分にそうお願いをしてきた。従者として信頼されているのだと感じとる。
この手の事には明確に答えないことの多い神取だったが、ここばかりはと声を張った。
「わかりました」
この答えもまた、ジルの目を丸くさせた。そして、ジルの口はゆっくりとほころんだ。
だが、結局約束は果たされなかった。
主との約束よりも、幼少期より家で叩き込まれた「命に代えても主を守る」と言う従者精神が神取の体を動かす。
ずっと傍にいた彼が、いとも簡単に命を落とした。約束は破られ、裏切られたような感覚に陥る。だが、感謝もしている。様々な感情が沸き出る中、一週間も経てば自分が彼の死に対してどう考えればいいのかがわからなくなっていた。
そうして、全てに蓋をした。
人を信頼するハードルを上げることで、自分の身を守ったのだ。
ジルは今でも神取の事を考えないようにした。彼を忘れさせてくれるような人物を待ちながら。
「金曜日……」
カレンダーを見て、ジルは呟く。ちらりと机の上の書類を見た。数十枚に及ぶ写真つきの履歴書。次の従者候補のものだ。
まだ見ないでいいだろう。
そう思って、ジルははっとした。
心のどこかで、まだ幸助が気付いてくれると期待している自分がいた。初日に彼が手まで出したのを、やはり自分で思っていたよりも高く評価していたらしい。
だが、いくら期待しても、今日中に従者の最も大切なところに気が付けなければ終わりだ。タイムリミットは容赦なく迫っている。そう思って期待を押し殺そうとしても、不思議とそれはジルの心の中に居座り続けた。
どうにかそれを追い出そうとしていると、扉がノックされる音がする。時計を見ると佐奈か幸助が起こしに来る時間になっていた。
ジルはどうにか気持ちを切り替えて、咳払いをして声を張る。
「起きているわ。入りなさい」
幸助は教室で机に突っ伏していた。
窓の外の雨が思考をかき乱すようで、非常に鬱陶しく感じられる。
ここにきて、ジルの考えていることがますますわからなくなったのだ。と言うのも、彼女が朝の車内で不機嫌ではなくなっていたように思えたからである。だが、機嫌が良くなったわけでもない。本日のジルの機嫌はプラマイ無し。幸助はそう位置づけてみるが、だったら何故そうなったのかが分からない。
予測としてあげられるのは、他に考えることが出来たため、先日までの不機嫌の原因に頭を回している暇がなくなったという事だ。そして、その新しい考え事が次の従者の採用に関してだったら、と悪い方に考えてしまう。
こうして、幸助は朝から昼まで唸りっぱなしであり、その様子を横で見ている東花は非常に居心地が悪かった。無論幸助は周りに配慮する余裕すらなかった。今日答えが出せなければ首になってしまうのだから当然だろう。
昨日聞いた神取の件は衝撃的ではあった。それがどうジルの拘りに結びついているのかは何となく分かる。だが、それを踏まえて、自分のどこに悪いか所があったのか、さっぱり見当がつかないのだ。
そうこうしているうちに昼になる。クラスから人が出ていく中、机に突っ伏してぶつぶつ言っている幸助がなんだか不憫になり、東花は声をかけた。
「朝から何を考えてるの? 相談だったら乗るけど……」
幸助はのそりと体を起こすと、まるで天使にすがるかの様に東花の両手をがっしり掴んだ。いきなりの事に、東花は少し驚いたがそれだけ真剣なのだろうという事でそのまま聞くことにする。
「昨日の続きでさ。俺が何か失態をしでかしていたらしいんだけど、何が悪かったのかがさっぱりわからないんだよなぁ。何か従者に拘りを持っていて、それをクリアできていないみたいなんだけど……」
「拘り……ねぇ。昨日聞いた神取さんが何か関係しているのは間違いないんじゃないの? 普通に考えたら香取さんに無かったものを求めているんだと思うけど」
「それは分かった気がするんだ。多分お嬢様が求めているものの一つは『命を大切にする』ってことだと思う」
そうだとすれば、彼女が初日に殺してくれるかと聞いてきて、それに対して頬をひっぱたいた幸助に関して好感触という感想を言った事にも納得がいく。
じゃあ、他に神取に何が足りなかったのだろうか。
幸助にはそれがさっぱり見当がつかなかったのだ。だが、それは当然のことである。
もう一つは神取に無かったものではなく、神取にあって幸助に足りないものなのだから。
「あの後、住井君からもう少し詳しく聞いたんだけど、神取って人はかなりできる人だったらしいよ。やり手の従者だったって」
「だったら余計にわからないな……」
「ひとまず、その電話があった日の事を詳しく教えてよ。もしかしたら私に何か分かるかもしれないし……。あ、そう言えば電話って誰からだったんだい?」
「宗次さんからだよ。ほら、九条グループのトップの」
その言葉を聞き、東花は参ったなと頭を掻く。
「大企業のトップを下の名前を呼べるってのもなかなかすごい気がするね」
「言われてみればそうかもな。でも、小さい時からそう呼んでるし。それで、内容は経過とか感想を聞きたいから一緒に食事でもしないかって」
うわぁ、と東花は自分でも気が付かぬうちに口から驚きの声をこぼしていた。
「それで承諾して、お嬢様の所に戻った時には既に機嫌悪かったな」
幸助が言い終わると、東花は顎に手を添えて眉を潜めた。そして、じっくり考えていたようだったが、突然頭にクエスチョンマークが浮かび上がる。
「……え? その話、その場で受けたの?」
すっとんきょうな声に、幸助は少しむっとする。そもそも東花が何を不思議がっているのかがさっぱり理解できないでいた。
「あ、あぁ。その場で受けたけど?」
幸助の立ち位置と、経験の浅さを考えて東花は納得した。もし、自分が同じ状態だったならば、わからなかったかもしれないとすら思える。
「それだよ。それがまずい」
「だって雇い主からの誘いだぞ? 予定が空いているのに断るほうがまずいんじゃないのか? そりゃ俺も予定があったらそっちを優先するけど……」
幸助が視線を下げてまた思考に沈もうとした時だった。
「九条幸助!」
突然フルネームを呼ばれ、肩が少しだけ跳ねる。幸助が顔を上げると、東花は真剣な目をして幸助の目を見ていた。
思わず息をのむ。
「君は誰の従者だ?」
問いかけは怒気を含むような声で、優しく投げかけられる。
九条幸助は九条ジルの従者として今ここに存在していた。それは周囲の誰もが知っていて、勿論藤宮東花もそれを知っている。
それが一番わかっていないのは、九条幸助自身である。
「誰って……そりゃあ――」
言いかけて、幸助は何故ジルが不機嫌だったのか、芯の部分触れた気がした。
時計の針は一八時を回っていた。丁度を示す学園の鐘は、あたりの静寂に合わせるかのように静かに周囲に溶けていく。もうほとんどの学生は帰宅している。残っているのは学園内に用事のある数名の生徒と、雇い主の九条宗次を待つ幸助くらいだった。
東花は頑張れとだけ言い残して、主を迎えに行った。学園内にはもういないだろう。
幸助は正門前でかれこれ三十分ほど宗次にどう言い訳して、今回の誘いを断るか考えていた。忙しいはずの宗次が態々時間をとって会いに来ている。それを断るのだ。しかも一度承諾しておいて。本心からすれば断らず楽になりたかった。
だが、それは結果的にやはり間違っている。
問題はどうやって断るかだ。それこそ下手に断れば首になりかねない。ただ、見え透いた嘘を言うわけにもいかない。そもそも雇い主に嘘をついていいものなのか。幸助の頭は解決策をいくつも提示したが、結局どれも役に立ってくれそうにはない。
しかし、時間は待ってくれない。そうこうしているうちに黒い高級車が目の前に止まった。運転席には村田。そして、後部座席には。
「やぁ幸助君。実際に会うのは一カ月と少しぶりかな?」
着物に身を包んだ九条宗次だった。
傍にボディーガードはついていない。と言うのも、村田がその役目を兼ねているからだろう。彼に対する九条家の信頼はとても厚いのだ。ただ、少し離れた位置にはやはりここ一カ月で見慣れた車がいくつか止まっていた。
「ど、どうも」
「はっはっは! まぁそう固くなるな。叔父と話すようなものだと思えばいい」
後部座席のドアが開く。入ってしまえば宗次のペースに飲まれてしまうだろう。それに、嘘を吐くのは幸助らしくなかった。
もっと、自分らしくでいいじゃないか。
幸助は車に乗り込むと、宗次が話しかける前に村田に伝えた。
「村田さん、先に俺を家に、その後宗次さんを送ってあげてください。頼めますか?」
それを聞いて宗次はぴくりと眉を動かしたが、何も言わずに幸助が座るのを待った。
村田はこくりと頷くと、一度止めたエンジンをまた温める。彼が宗次ではなく、幸助の言った事に従ったのはただ、宗次が止めなかったから、というのみに尽きる。
村田の返事に会釈で返し、幸助は車に乗り込んだ。宗次がリムジンを好まないのは昔から知っていたため、特に驚くことはなかった。好まない理由はジルと同じらしい。
「……それで、どういう事かね?」
重々しくその口を開いた宗次。表情からは感じられないが、その憤りは確かに存在し、幸助を威圧する。約束を受けておいて、それを目の前でなかったことにしたのだから当然の事だ。だが、幸助にはこれしかなかった。
膝に手を添えて、勢いよく、深く頭を下げる。
「申し訳ありません!」
正直に話す事。下手な嘘さえ思いつかない幸助はそうすることにした。言うなれば、自分の誠意と、宗次の人柄に賭けたのである。
「謝罪はそのくらいでいい。それより理由をお聞かせ願えるかな?」
「はい。それは、俺がお嬢様にまだ承諾を得ていないからです」
主という存在の理解。
宗次に恩を感じているため。そして、素人であるために、それは幸助に欠けているものだった。
九条幸助の主は、九条宗次ではない。九条ジルである。
従者にとって最も優先すべきは主の言葉。主よりも高い権力を持つものがいようが、命の恩人がいようが、従者である以上は主がこの世の最上位に存在する者なのだ。
それを幸助は勘違いしていた。
主であるジルではなく、雇い主であり恩人である宗次が上であると考えていたのだ。だから、宗次から電話がかかってきた時に、一切の了承を得ずに提案を受けた。
言うなれば、従者は主の奴隷だ。裏で動かない限り権限は全て主によって決められる。それが従者という存在。大げさに言えば、主を唯一神として敬う存在と言ってもいい。
「なんの予定もなかったのではないのか? それともジルに緊急の用事か?」
「なんの予定もありません。お嬢様に呼び出されたわけでもありません」
「だったら何故断る。なに、ジルには後で私から言っておく」
なんだそんなことか、と宗次はにっかり笑う。だが、幸助は構わず続けた。
「俺が確認することに意味があるんだと思います。例え宗次さんからこうして誘われても、お嬢様に直接承諾をもらって、その判断に従うべきなんだって先ほど気づかされました」
「なるほど、雇い主よりも主が優先であるという判断か。正直なところを言えば、従者の世界なぞ我らなんぞには分からん話だな。だが、なるほど、良い判断だ」
納得したのか、威圧感はいくらか減り、幸助の身体には緊張感だけが残る。
外の景色は気が付けばビル群から、自然豊かな土地へと変わっていた。
「俺は、九条ジル様に仕える従者です。決して、俺の主は宗次さんではない。だから、今回の事は断らせていただきたく思います」
「あー、頭を上げなさい、頭を。なるほど、ジルが一週間で従者をクビにしていたのはそういう事か。上手い事利用されてしまったな」
「……?」
尻すぼみになったため、幸助は聞きとれずに目で問いかける。
「あいや、なんでもない。こちらの話だ」
従者になって一週間後にほぼ恒例行事のような状態で、宗次はその時の従者とこうして時間が経っている。それは、単なる評価から、また審査でもあった。孤児の頃助けたとはいえ、娘の従者となる以上はもう一度じっくり見ておく必要があったのだ。そうして宗次が娘のためにしていた事を、娘は理解しつつも利用していたらしい。
車はまだ屋敷に着かない。その場を支配しつつあった嫌な沈黙を破ったのは宗次だった。「それで、幸助君はジルの事をどう思うかね? 従者としてではなく、一人の人間として」
宗次としては、一番聞きたいことは訊いておきたかった。主が従者を品定めするように、従者も主を無意識に品定めするものである。
「そうですね……。失礼な話ですが、初日見た時は近寄りがたいかなと」
「君もそう言うか!」
はっはっは! と車内に宗次の笑い声が響く。
「けど、実際はかなり気を張っていますね」
教室で垣間見た外のジル。自分でもあんなことをしていれば、家でも笑顔でいられる自信はなかった。そんな中で従者の品定めまでしている。なおさらだろう。
幸助がジルの事を思ったよりわかっているという事で、宗次も素顔を見せる。深くため息を吐いて、ジルの事について話した。
「そうか、外のジルを見たか。あの子は去年からああでな、理由はわかっているのだが私もずっとあの子の傍にはいられん。父親としては間違っているのだろうが……」
仕事で手が回らない。そうは言えなかった。事実、こうしてジルではなく幸助と会談している事がそれを物語っている。長く傍にいられないのは事実だが、少し時間をとって会う事は造作もないことだった。だが、そうして会っていくうちに、少しずつジルが自分の知らない娘に変わっていっていることに宗次は気が付いていた。そうして、ついには半年ほど会っていない。
娘に顔を合わせるのが怖い。ジルの事だけなら、宗次より佐奈の方がよっぽどわかっているだろう。下手に逆鱗に触れ、娘に嫌われるのを宗次は誰よりも最も恐れていた。
「従者が希望に添えれば、お嬢様もきっと今よりも落ち着くと思います」
荷を一つ下ろしてやることが出来れば、まだ多少は余裕ができるだろう。幸助がジルと過ごしたのはたかが数日だが、彼女の足場の不安定さはすぐに理解できた。そうして、現状を見た後は恩返しなんて考えずに、ジルの為に働くという考えにシフトできている。
ジルの教室での一件がなければ、東花にも最後まで言わせていたかもしれない。
「……そうか。では、改めて頼みたい。ジルをよろしく頼む」
宗次は深く頭を下げた。自分の腑がない差を頭に乗せたように、深く。
「はい」
今日中に辞める事になるかもしれないのに、幸助は無責任ながら、きっちり返事をする。
それは首にはならないという自信の現れでもあった。
ほどなくして屋敷の前に車はつけられる。外は雨だったが、幸助は一礼してから車から出ると屋敷の方へ駆けていく。
屋敷の方に走っていく幸助と佐奈の背中を眺めながら、宗次は微笑した。
彼はいい従者になる。なんとなくそんな予感がして、気分が高揚してくる。
「村田、この後は空いているかな?」
声は出さずに、目を閉じて口の端を上げたまま、村田はこくりと頷く。
「食事に付きあえ、何、かしこまる必要はないぞ」
宗次の顔にはただ笑みだけが浮かんだ。
床が濡れるのを見て、後で掃除しなければと幸助は顔をしかめていた。
廊下を進んでいると、進路の先に佐奈が見えていた。向こうも幸助に気が付いたようで歩き出す。走れないのは両手に紅茶のセットを抱えているからである。
「お帰りなさいませ。良かった、帰ってきたのですね」
「はい。お嬢様は部屋に?」
「はい、部屋にいらっしゃいますよ。九条様が行けばきっと機嫌も戻されるでしょう」
その言葉を聞いて確信する。やはり、宗次の誘いに乗るか否かが分かれ目であったのだ。
ふと茶器の方をみると、全く触れられていないようだった。佐奈が気を利かせたものの、ジルはそういう気分ではなかったのだろう。
「それでは、あとは宜しくお願いいたしますね」
佐奈はいつもの笑顔で幸助の背を押した。幸助もいつもの言葉で返す。
「えー……あー……努力します」
上から下まで雨のせいで濡れていたが、そんな幸助を佐奈は止めることはなかった。幸助が急いでいるのは目を見れば分かる。その上、主も帰ってくるのを望んでいる。
止める理由も見当たらなかった。
佐奈と別れてまもなく、幸助は主の部屋の扉の前にいた。
湿気ているどころか、ところどころ水を吸っている制服を整える。息を大きく吐いて、扉をノックした。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
ゆっくりと扉を開ける。
薄暗い部屋で窓から外を眺めていたのは、まるでビスクドールのような少女だった。
一見美しいが少し曇っている碧眼、怯えているような真っ白な髪に白い肌。四肢は細いのにどこか存在感がある。不機嫌ではなさそうだった。
「貴方帰ってきたのね。正直に言えば少しだけ嬉しいわ」
「そう思ってもらえるなら光栄だな」
幸助は身構える。勿論、これで解雇取り消しになるとは思っていなかった。問題は此処からだろう。
その証拠にもう不機嫌ではなかったが、相変わらず少女の目は冷めきっていた。
本当にうれしく思っているのかもかなり怪しい。
窓に向けていた視線を落とし、そのまま目を瞑った。そして、同じ問いかけから始めた。
「いい天気ね。雨は好き?」
「ここ一週間で嫌いになった気がするな。鬱陶しいことこの上ない」
「そう」
少女はこちらへと歩み寄る。
何か大切なことを話す時は、近くで目を見て話すのが少女の癖だった。
「貴方、私が死んでと言ったら死んでくれる?」
幸助は眉を潜めて、上がりそうになった腕をぐっと意識で押さえつける。
「俺は死にたくない」
生意気かもしれない。従者としてこう思うのは駄目なことかもしれない。だが、幸助は素直にそう答えた。話を聞いて、なぜ彼女がこういう質問を繰り返しているのかはわかっていた。あらかじめ、命を簡単に投げ出さないような者を選ぼうとしているのだ。
目の前で両親が死ぬという、似たような幸助には目の前の少女の気持ちがよくわかった。
「本当に自分に素直なのね。今までのは大抵、従いますって答えていたわよ。貴方と同じような経歴を持っているはずなのにね」
「多くの人は孤児になった理由や場面を知らない、覚えていないけど、。俺は大切な人の死を目の前で見た。その違いだろ。だから、残された奴の気持ちはわかる」
踏み込んでいいものかためらう事はなかった。
「神取さんみたいな真似はしない」
神取の名前が出て、少女はぴくりと眉を動かす。
「……そう。それじゃあもう一つ。貴方の主の名前は?」
「九条ジルだ。俺は九条本家や九条宗次にじゃなく、九条ジル個人に仕える」
その言葉にジルは胸をなでおろす。
幸助の顔の両端をがっちりホールドし、初めて幸助の前で微笑んだ。本物の心からの笑顔。顔が近くてジルの吐息が掛かり、幸助は耳まで赤くなる。
破壊力は抜群だった。そこに追撃が入る。
「よくできました」
そう優しく告げて、ジルは幸助から離れた。
幸助のたじろぐ様子を見て、今度はニヤリと笑った。どうやら、幸助の反応を面白がっているらしい。幸助は解放されると同時に詰まっていた息を吐き出す。
一方ジルは傍に会った椅子に腰かけて、幸助が落ち着くのを待っていた。
「……心臓に悪い」
「あらそう? まぁ、そうね、一種のご褒美よ。ここまで来たのは貴方が初めてだし、サービスしても問題ないかと思ったのだけど……。そうね、同性愛者の貴方には興味なかったかしら」
「だからそれは誤解だって……はぁ」
「浮かないか顔ね。折角採用されたっていうのに、不満でもあるのかしら?」
「今日はどっと疲れた」
「そう言う事は主の前では言わないものよ。それに、今日はまだ終わっていないわ」
時計を見ると既に午後七時前。本来ならば夕食準備をしている時間だった。今日の夕食は佐奈が作る番だったが、幸助はそわそわし始める。
見かねたジルが行きなさいというと、急いでキッチンへ走って行った。もっとも、その後すぐに自室に引き返して着替えたりをしたわけなのだが。
部屋に一人になったジルは、机の上の書類を全て捨てた。ここまでくればもう必要ない。試すのもここまで、あとは昔の感覚に戻るまでそうかからないだろう。そう思えるのは幸助の性格のせいだった。無駄に根性があるというか、納得いくまでやるタイプである。
神取の事を知っている以上はジルを元に戻そうと奮闘するはずだ。
机からベッドに足を延ばすと、そのまま倒れ込んだ。そうして毛布をぎゅっと抱きしめると、すぐに起き上がって、呼ばれる前に夕食へと向かう。
夕食は黙々と進む。幸助は腹をすかしているようだったが、ジルが許しても席をともにはしようとしなかった。いかなる場合でもしてはいけないと、教え込まれたからだ。
「別に、少しくらい構わなかったと思うのだけど?」
食事を済ませてから、ジルは不満げに言う。嬉しい事があると、食卓を複数人で囲みたくなることを佐奈はよく知っていた。だからこそ、聞かずとも事の運びは理解した。
「駄目なものは駄目です。それに剰水さんも食べてないし」
「あら、そうだったの」
「はい、この後九条様と、お話を聞きながら、食事をしようかと思っています」
お話の部分をやけに強調されて、幸助は若干怖くなる。どこまで根掘り葉掘り尋ねられることかわからない。その場合は何も隠さず言うべきだろう。
雅、許せ。身の安全は保障できないぞこれ。
少しだけ雅の事を心配したが、噂の件もあって躊躇はなかった。
兎にも角にも、これで審査は終わったのだと幸助は安堵する。勿論これで終わりではない。むしろ、これからが始まりである。けれど、ひとまずは第一関門突破という事にしていいだろうと考えていた。
このままどちらかが死ぬまでジルの御付きをすることになるかもしれない。だが、それでもかまわなかった。そう思わせてくれるのは、先ほどのジルの笑顔に他ならない。
本当にご褒美の様なものだったのだろう。従者にとって、主が真に笑っていることは何よりも良い結果だ。
これからも精進していこうと、幸助が心に決めていると声がかかった。
「幸助、紅茶が飲みたいわ」
この家に来て初めてジルが幸助の名前を呼んだ瞬間だった。認められたという事なんだろうと幸助は解釈し、返事をして佐奈に伝えに行こうとする。
すると、ジルは幸助の袖の裾を掴んで止めた。そして、静かな声で言った。
「貴方が淹れなさい。貴方の紅茶が飲んでみたいわ。美味しく淹れるのよ?」
幸助は顔を綻ばせつつも、いつも通り返事をする。
「努力します」
遅くなってすみません(二度目)
序章が終わった、くらいの間隔が強いとは思いますが、ひとまずこれでしめさせていただきます。
読んでいただき、本当にありがとうございました。
もし感想、思ったところなどありましたらお知らせください。