1 クレスヴィルの朝 ダンジョンについて
ナギサは、ぬるめのお湯で顔を洗った。
宿の女将さんが、洗面器に入れて、ベッドわきまで持ってきてくれたのだ。たしかに、サービスは良い。
「ありがとうございます。ミシェルさん」
差し出されたタオルで顔をふき、ナギサは、女将さんに礼を言った。
ミシェルはその大きな顔に、満面の笑みを浮かべて答えた。
「いーえ。うちも今、ヒマなもんでね。来てくれるお客さんは大歓迎ですよ。それでね、バーチのところったらねぇ―――」
恰幅の良い女将の言うとおりだった。
宿屋の朝、それなのに、誰かが旅立っていく気配も聞こえなければ、食堂のにぎやかな声もない。
クレスヴィルの街の、冷たい空気が宿の中に漂っている。
ナギサは、ぼんやりと窓の方に目を向けた。
一晩中、かがり火を焚いていたらしい。まだうっすらと、遠くの方に火の明かりが見えた。
ナギサの視線に気づいてか、女将さんが、ああ、と声を上げた。
「そうなんですよ。みんな壁の方に行っちゃってましてね。うちは、もともとハンター相手の商売が多かったから。ああ、それでガイさんがね―――」
そう言って笑うこの女将、ミシェルは、とにかくおしゃべりが好きらしい。さっきから聞いてもいないのに、とにかく、いろいろなことをしゃべっている。日ごろ、そのおしゃべりに付き合っているハンターたちがいないせいか、いろいろと溜まっていたらしい。ナギサが、クレスヴィルが初めてなんだと言ったことで、それに拍車を掛けていた。おかげで、隣の家のクリバ君の、おねしょのことまで、ばっちり分かった。
ナギサは、ベッドで上半身を起こしたまま、ミシェルの話に頷いていた。
「―――やっぱりそうなんですか。いろいろと、物騒なんですね」
「そうなんですよ。最近じゃ、傭兵連中が仕事ないもんで、荒っぽくなってましてね…」
今、ナギサはクレスヴィルの街について聞いていた。
街は、階段の向こう側とこっち側で、西と東で区別されているらしい。
最近、西側で傭兵同士のケンカがあり、死人が出たそうだ。
―――まったく、連中ときたら、戦うことしか能がないんですからねぇ
そう、呆れたように首を振る。食事は食堂でとってくださいと言い置くと、ミシェルは嵐のように部屋から出て言った。
ナギサはそれを見届け、ドアが閉まるのを見終えると、小さく息をついた。
さすがに朝からアレに付き合うのは、堪える。
ナギサが枕に頭を預け、しばらくぼーっとしていると、もう一度ドアが開いた。
「まだ寝ていたのか?」
ハスキーな、よく通る声。ものぐさに頭だけを上げてみると、オリガが、ドアノブに手をかけて立っていた。ナギサは苦笑を浮かべた。
「いや、さっきまでミシェルさんのおしゃべりに付き合ってましてね…」
ここでは、それだけで伝わるらしい。
オリガが、少しだけ同情のまなざしを向けてきた。
「悪い人ではないんだがな…」
「ええ、そうでしょうね。たぶん、お暇だったんでしょう」
そう言って、やはり、しんと静まり返っている廊下を彼女の肩越しに見た。いま、この宿に泊っているのは自分たちだけらしい。ときどき鐘が鳴ること以外は、実によく眠れた。
オリガが部屋に入って、ドアを閉めた。
「―――それで、今日はどうするつもりだ?」
「あ、座ってください。そうですね…、街のことについて、最初はお聞きしようと思ってたんですが…」
「もうすでに聞いてしまった、か?」
椅子を引き出し、腰掛けるオリガに、ナギサは苦笑のまま、うなずいた。
今日のオリガは、昨日と違って、鎧を着けていない。ベストにシャツ、パンツと、実に動きやすそうな服装だった。たぶん、街の案内でもしてくれるつもりだったのだろう。
しかし、なんだか、もう、自分は街の名産、有名人物、有名な店まで、何から何まで聞き知ってしまっていた。
拍子抜けしたように息をつくと、オリガは腕を組んで、椅子に寄りかかった。
「だとすると、あとは、残りの部分、魔法や、旅の一般常識についてだが…」
オリガが、渋るような表情でナギサを見た。納得がいかないように、その形のいい眉が、片方だけあげられる。
「お前、本当にやる気なのか?」
オリガの質問に、ナギサは苦笑のままうなずいた。
「ええ、やらなければいけないもので」
オリガは小さく息をついた。
どうやら答えがお気に召さなかったらしい。相変わらず難し表情でナギサを見ていた。まあ、この辺りは、世話焼きには納得しがたい部分があるかもしれない。
ナギサは、ベッドから体を起こした。
「―――ま、そこは、私の自分勝手ということで、ご理解くださいな」
そう言って立ちあがると、ナギサは大きく伸びをした。
そのままオリガに向き直る。
「では、契約通り、今日からいろいろお世話になりますね、オリガさん?」
「―――ああ」
相変わらず納得していない。そんな不機嫌な答えに、ナギサは頬を掻いた。
とりあえず、まずは、あれから教えてもらわないといけない。
「何してんの、アンタら?」
部屋に入ってきて、イリサの開口一番のせりふだった。
ナギサは上半身裸のまま、答えた。オリガがそのわきに立っていて、ナギサと二人、少し顔が赤くなっていた。
「いえ、この、さらしの使い方が分からなかったもので、教えてもらっていたんですよ」
そう言って、さっさとシャツを着る。いや、これで少しはマシになった。
そのまま上着を羽織り、身支度を整える。
イリサの目が、若干鋭くなった。
「ちょっと、その髪どうしたの?」
「え?」
言われて、イリサの視線をたどっていくと、自分の長い黒髪、その先の方が、少し、はねていた。
昨日は、まるきり乾かさずに寝てしまったので、ある意味、よくこれだけで済んだものだと感心する。しかし、それだけでは、イリサは、お気に召さないようだ。
眉間にしわを寄せている。
「―――昨日、何の手入れもせずに寝たの?」
「あー、そうでしたね…」
「もー、いくら疲れてるからって、それくらいなんとかしなさいよね」
―――ちょっと待ってて。
そう言い置いて、もう一度部屋を出ていく。
そして、戻ってきたとき、その手には、ブラシのようになっている櫛を持っていた。
するすると近づいてきたかと思うと、窓際の椅子に座らせ、ナギサの髪に櫛を通す。
されるがままになりながら、ナギサはイリサに聞いた。
「―――イリサさん、彼女、アメリ君に手紙は届けられましたか?」
「たぶんねぇ…」
ナギサの髪をいじくりまわしながら、イリサが答えた。後ろにいるので表情が分からないが、たぶん楽しそうな表情を浮かべている。
その適当な答えに、ナギサは、まったくという風に息をついた。
「入れなかったんですか?」
弓を使うイリサならと、若干期待していたのだ。そんなナギサに、イリサはクスリと笑った。
「一応、公式に休ませてもらっちゃってるからね。今はあなたの護衛ですので」
茶化すような答え。
ナギサは眉間にしわを寄せた。
「ちゃんと届いてくれないと、困るんですけどね?」
「大丈夫だと思うわよ? さすがに衛兵だって、そこまで頭固くないでしょう?」
―――ふむ。
ナギサはうなった。
イリサやミシェルの話を総合すると、窓の外、そこに見える壁は、一応、『軍事施設』という扱いになるらしい。特にミシェルさんの長話につきあったのは、疲れるには疲れたが、かなり良い勉強になった。
ここは、『シュラウゼウス王国』。その北端に当たるところだ。そこにある、”トルメンティアの森”対策都市。ここはいざというときには、砦としても機能するらしい。それが、ここ、”クレスヴィル”だ。直接会うのはともかく、まさか手紙を書くのまで検閲があるとは思わなかった。
もし、ここになにかあると、”森”が勝手に魔物を放ってしまい、平原じゅうを魔物が駆けまわることになってしまうらしい。
「オリガさん、さっそく、聞いても良いですか?」
目だけを向けて、オリガに問いかける。
さっき、ミシェルさんが運んできた(なんでも魔石が安売りしているそうだ、パンも安いらしいと、いろいろな情報とともに)お茶っぽいモノを飲んでいたオリガが、小さく唸った。
「なんだ?」
「昨日、言っていた、『ダンジョンの活性化』って、どういう意味ですか?」
昨日、オリガとイリサの二人が報告した内容。半分も理解できなかったが、唯一意味が分かる単語が出てきた部分だ。あとは、何かの目撃情報っぽいものだったし。
「―――ああ、あれか?」
少し考えるように眉をひそめてから、思い至ったようにオリガが答えた。
「ダンジョンが魔物を吐き出す。それが活発になっていることを、”活性化”というんだ。特に、今回のは、ここ最近見なかったぐらいには活発だ」
「ダンジョンって、あそこの森のことですか?」
ナギサは、壁に隠れた”森”の方を見て言った。まだイリサが髪をいじっているせいで、首が動かせない。
ナギサの言葉に、オリガが首を振った。
「いや、あそこも、たしかにダンジョンといわれるが、正確には、あの森の中心部だ。そこに”遺跡”がある」
「”遺跡”って、昔の都市の残骸とか、墓みたいなやつですか?」
「まあ、それに近いものだな。よく分かってはいない」
ナギサはマヤ文明のようなものを想像していた。森の中のピラミッドが、次から次へと魔物を吐き出す?
鼻唄をうたっていたイリサが言った。
「―――魔物ってね、どうして生まれるのか、よく分からないモノなのよ。学者先生たちの話だと、大昔の人たちが、戦争用に作った兵器のなれの果てなんじゃないかって言われてるの」
「兵器?」
「そう。ほら、ローフォレとか、なんだかんだいって、どれも厄介さ加減が同じなのよね。だから、誰かが作ったんじゃないかって言われてるわけ」
―――グラスの受け売りなんだけどね。
そう言えば、モンスターは、『フリー』のときでもそうだった。レベルの違いで多少パラメータに違いがあったが、違いといえばそれだけだ。見た目は、レアモンスターのようなものでもなければ、変わらない。でもあれが現実だったとすれば、たしかに、そういう仮説になるだろう。オオカミの群れがイワシの群れのように一匹一匹、そっくりということはありえまい。そんなのがいたら、怖い。
ナギサが考え込むように唸ると、イリサはくすくすと笑った。
「まあ、何でそうなってるのか、今でも誰にも分からないらしいけどね」
答えるだけこたえると、ナギサの髪いじりを再開する。
ナギサは、もう一度オリガに目を向けた。
「今回のが、特に活発っていうのは?」
「文字どおりの意味だ」
オリガがはきはきと答えた。
「いつもは、一週間くらいで収まる。だが、ときどき、ひと月ほどまで、伸びることがあるんだ。今回のがそれだ」
「その警戒令って、いつから出てたんですか?」
「五日ほど前だ。少し減ったと思っていたんだが、また魔物が増えてきた。それで、私たちが調査に入って、お前を見つけたというわけだ」
「あー…」
ナギサは納得して、うなずいた。
ロッシじゃないが、間一髪だったのは確からしい。自分はそんな中を駆けまわってたのか。
ナギサは今更ながらの恐怖に震えていた。
オリガが首を傾げて言った。
「―――普通なら、今頃、骨になっていなければいけないのだがな。ロックフォールのコトといい、お前は一体何なんだ?」
「…それは、私が一番聞きたいですよ」
ナギサは遠くに見える壁を、恨めしそうに見ながら言った。すぐそこに、答えを知っている相手がいるのに、聞けない。あとちょっとで棚の上のものに手が届きそうで、届かない。あのイヤなモヤモヤが、胸の中でわだかまっていた。たぶん背が低くなってるから、これからますますそんなことを感じるかもしれない。
ナギサの、一人悶々とする様子をオリガは黙ってみていたが、そのままお茶っぽいものに口をつけた。
ナギサはそれを見て、聞いた。
「…それ、何ですか?」
「茶だが?」
「…なんですか、それ?」
マグカップに入ったそれ。
香りは、紅茶なのだが、色はコーヒーのそれだ。
ものすごく渋い味の紅茶だと、たぶん、こんな色だろう。しかし、さっきからオリガは、それを表情も変えずに飲んでいる。興味はあるが、ナギサの常識が拒否していた。
「はい。終ったわよ」
イリサの声が聞こえた。
見れば毛先の跳ねがなくなっていた。
「ああ、ありがとうございます」
「いーえ。で、どうする? この後」
髪を切ってしまおうか、その毛先を見て考えていたナギサは、ふむ、と、唸った。
「―――魔法について、教えていただけませんか? もしよければ、見せていただけたりすると、ありがたいんですが?」
オリガが目を見開いた。
「お前、魔法を使う気でいるのか?」
いぶかるような声に、ナギサは自信を持ってうなずいた。
そして答えた。
「はい。たぶん、大丈夫なはずです。というか、私の考え通りなら、きっと、私、すごいですよ?」
ナギサはそう言って、いたずらっぽい笑いを見せた。その目は自身でキラキラ輝いている。
昨日まで、森で死にかけていた娘の言葉に、オリガとイリサは顔を見合わせた。




