19.転倒事故(佑樹)
──ザッシャーンッ!
派手に水しぶきを上げながらスリップしたゴリラがすっ転び、ライダーが投げ出されて僕の走行ルート上にゴロゴロと転がる。
相手が転ぶのが分かっていたから即座にギアを2速に下げてエンジンブレーキだけで急制動。最後に軽く前後輪ブレーキをかけて停車することができたが、それでも間一髪だった。
あ、危っぶね──っ!
下手にスピードを出していたら僕まで転倒に巻き込まれて人身事故の大惨事になる所だった。ほっと胸を撫で下ろした僕が顔を上げると、2、3㍍先で仰向けに転がったまま、そいつはぴくりとも動いていなかった。
すうっと背筋が寒くなる。
いや、ちょっと待てちょっと待て! ちょっと待ってくれ! ちょ、マジか。
慌てて路肩に[しるばー]を停めてそいつに駆け寄り、軽く肩を揺する。フルフェイスのヘルメットのせいで顔も分からないがグッタリしたまま動かない。
「おいっ大丈夫か!? 意識あるか?」
ちょっと強めに肩を揺すって声をかけても反応がない。
うわっ……どうしよう。どうしたらええんやっけ? 落ち着け俺。教習所で習ったこと思い出せ! えっと、こういう時は……
自動車学校の応急救護の授業で習った内容を頭の中で復習する。
……まずは、心肺が停止しとらんか確認して、もし停まっとったら人工呼吸と心臓マッサージで蘇生やったよな。
ライディンググローブを外し、手首で脈を取ろうとしたが、僕の手が震えてどうにもならない。
あーもう! こうなったら直接胸から脈を取った方が早い。僕はそいつの心臓の辺りに手のひらを押し付けた。
──むにっ
「え?」
まったく予想していなかった弾力に手のひらを押し返されて一瞬頭が真っ白になる。だぶだぶの合羽のせいで気付かなかったが、よく見れば双丘が胸の辺りの布を下から押し上げていて、ヘルメットの下からは明らかに男のそれとは違う細く長い髪が覗いていて……。
お、女の子?
「……う、う」
呻きながら意識を取り戻したらしい彼女とシールド越しに目が合ったのが分かった。
「………………」
「………………すぅ」
数秒間の気まずい沈黙の間に、今のこの状態が非常~にまずい状態であることに気付く。仰向けに倒れたままの彼女。彼女の左胸に触れたまま固まっている僕。自分の胸に触れている僕の手に視線を移す彼女。そろそろと手を引っ込める僕。大きく息を吸い込む彼女。
「いっやあああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
絶叫と共に思い切り頬をひっぱたかれた。衝撃で目の前にチカチカと火花が散る。
「なっ、なんだよあんた!? 私に何したっ!?」
両手で胸をガードして後ずさりながら叫ぶ彼女に、痛む頬を押さえながら言い返す。
「……痛ってぇ……。何もしとらん!」
「嘘つけっ! 私の胸を揉んでたじゃないかっ! この痴漢!!」
「あんたがバイクでこけて意識が無かったからっ! あくまで救命としてちゃんと心臓が動いとるかどうか確かめようとしただけやっ! 悪気があったわけっちゃうっ! そもそも触れるまで女やって気づかんかったし!!」
一文ずつ区切りながら叫び返す。
僕の声にハッとしたように彼女は周囲を見回した。倒れたままの愛車のゴリラ。道路脇に停車している僕の[しるばー]。自分と同じ合羽で身を包んだ僕。ところどころ破れた自分の合羽。
「…………あぁ、はい。そっか。そうだったね」
合点がいったようにうなずき、彼女はのろのろと立ち上がってフルフェイスのヘルメットを外した。
「!?」
露わになった素顔に思わず目を奪われる。そこにいたのは、色白でまるでビスクドールのように整った綺麗な顔立ちの、十人中十人が文句なしに認めるであろう美少女だった。彼女が素顔をさらしただけで辺りが明るくなったと錯覚してしまうほどだ。
ぶっちゃけ、僕は割と美少女は見慣れていると自負している。姉貴も咲良も香奈も相当な美少女だし。そんな僕がびっくりしてしまうぐらいのヤバめの美少女だった。
そんな彼女は汗と雨で頬に張り付いた髪をかき上げ、僕とまっすぐに向き合った。
「……助けようとしてくれてたのに、いきなり殴ってゴメン。お詫びと言っちゃあれだけど、かわりに私を殴ってくれ!」
そう言って、歯を食いしばって目を閉じ、僕の方に頬を突き出す彼女。
え? 目には目、歯には歯? この人この令和の時代に古代バビロニアの法で生きてんの?
「いやいやいや、ちょ待て待て! 誤解が解けたんならもうええから! それより、体は大丈夫なんか? 頭とか打っとったら病院行かないかんで?」
僕がそう尋ねると、彼女はおずおずと目を開いた。
「……頭は、打ってないかな。転がった時にちょっとばかりシェイクしたから意識飛んじゃったけど、たぶん大丈夫。とにかく、ゴメン! ほんとに悪かった」
「ええって。まぁお互い雨の日は気をつけような。なんにせよ、大したことなくてよかったわ」
「そうだね。私もこの先は慎重に運転するよ」
ヘルメットをかぶりなおし、横倒しのゴリラを起こす彼女。
「……にしても渋い趣味やな。女子でゴリラに乗っとるなんて。しかもその特徴的なパールホワイトは88年式のホワイトスペシャルやな?」
「うん。うちの親父さんが若い頃に使ってたのを貰ったのさ。良いバイクだよ。それまではスクーターに乗ってたけど、今はこれにぞっこんさ」
そう言いながら彼女はキックペダルを踏み込む。
──スコンスコン……スコンスコン……
「あれぇ? おかしいな」
──スコンスコン……スコンスコン……
「えー。なんでぇ?」
──スコンスコン……スコンスコン……
何度キックしてもエンジンがかかる素振りが無い。
「うーん、困ったな。壊れちゃったかも……」
ヘルメットを脱ぎ、泣きそうな顔で、でも口調だけは軽い調子でそんなことを言う。きっと彼女なりの精一杯の強がりなんだろう。
この町境の峠には当然民家なんかないし、学校まではまだけっこう距離があるし、平気を装ってはいるがバイクでこけた以上、打撲や擦り傷は少なからず負っているだろうし、雨が弱まる気配もないとなれば、彼女にとってはもう踏んだり蹴ったりだ。
それでも彼女は、クラッチペダルを踏んでニュートラルに切り替え、泣き言を言わずにゴリラを押して坂道を上り始めた。
「私はぼちぼち行くからさ、君はかまわないで先に行って。遅刻するよ」
彼女は気丈にも一人でなんとかするつもりらしい。
「ほんとうに大丈夫?」
「ノープロブレムさー。さ、行った行った」
しっしっと追い払うような仕草で手を振る。こっちを見ようともしないのはきっと今必死に涙を堪えているからで……。
【作者コメント】
ハイドロプレーニング現象によってタイヤが滑り始めた時、慌ててブレーキをかけると車輪がロックされてますます滑り、制御不能になってほぼ確実に事故ります。唯一の解決策はギアを即座に低速に落とし、エンジンブレーキで制動をかけることです。これはバイクだけではなく車にも共通するスリップ対策で、車がスリップしそうになった時はブレーキを踏まずにMT車ならシフトダウン、AT車の場合シフトレバーをLowに入れてエンジンブレーキで制動をかければ安全に止まれます。
……といっても不意打ちでは絶対にとっさにブレーキを踏んでしまうと思うので、大雨や雪で路面の状態が悪い時は『スリップするかも』と心の準備をして運転するのが大事ですね。一応、作者はそれで何度か命拾いはしてます。
1988年式ゴリラ ホワイトスペシャル




