第十七話 四億年のオープンソース
デボン紀の朝は、現代のそれよりずっと「重い」。濃密な酸素が肺を満たし、生命の熱気が森から立ち上る。 幸田博は、アルゴンの家のベランダで、自身の黄金の鱗を整えながら深く息を吐いた。
「アルゴンさん。この時代の技術体系……特にエネルギーの循環思想について学びたいんだ。どこか、記録がまとまっている場所はあるかな?」
朝食のエーテル合成トーストを頬張っていたアルゴンは、穏やかに目を細めた。 「それなら、北の浮遊林にある『記憶の杜』に行くといい。あそこはこの星の全知識が、誰にでも開かれている場所だ」
「……誰にでも? 閲覧制限やライセンス料は?」
「ライセンス? なんだいそれは。知識はエーテルと同じ、共有財産だよ。幸田さん、君のいた場所は、知ることにさえ対価が必要だったのかい?」
アルゴンの不思議そうな顔に、幸田は苦笑した。現代社会という名の「有料の檻」が、いかに不自然なものだったかを再認識させられる。
「……キモいおじさん、また難しい顔してる。どうせ、図書館でエロい古文書でも探すんでしょ」 二階から降りてきた長女のリュミエが、鼻から冷たい煙を吐きながら通り過ぎる。
「リュミエ、おじさんは世界を救う勉強に行くんだよ」 「はいはい、頑張ってねー。あ、帰りにエーテル・パフェ買ってきて。あそこの購買部、タダだけど並ぶから」
幸田は、思春期の洗礼を軽く受け流しながら、教えられた座標へと飛んだ。 到着した「記憶の杜」は、巨大な結晶体が樹木に守られるように並ぶ、静謐な空間だった。入り口で待っていたのは、透き通るような青い鱗を持つ老竜の司書、ゼノだった。
「……異邦の風を感じるな。黄金の同胞よ、何をお求めかな?」
「ここの文献を閲覧したい。私は、理を知りたいんだ」
ゼノは幸田をじっと見つめ、その瞳の奥にある真摯な知性を読み取った。 「よかろう。このデバイスを受け取りなさい。それがここの『鍵』であり、言語の翻訳機だ。ここにあるのは、我が種族が数万年をかけてデバッグし、磨き上げた真理のソースコードだ」
図書館の内部は、物理的な本ではなく、エーテルに刻まれた「記憶の残像」が漂う空間だった。幸田は窓際の、巨大なシダの葉が木漏れ日を作る一角を自分の席と決めた。
幸田の【完全記憶】が、フルスロットルで回転を始める。 彼は、バタフライ効果を極限まで警戒していた。 (この時代の物理的なモノは一切持ち帰らない。俺の脳という『非揮発性メモリ』に、全てのロジックを焼き付ける。それが、歴史への最小干渉だ)
だが、高度な「超弦エーテル力学」の記述に差し掛かったとき、幸田の思考が止まった。 「……この数式、次元の展開図が三次元(3D)じゃない。高次元の畳み込み(畳み込みニューラルネットワーク)に似ているが……月でもらった知識は体系的にまとめられたものだったが、これはそのもとになった基礎理論か」
「それは、時間を『点』ではなく『膜』として捉えているからだよ、若者」
隣の席で、山のようなデータ結晶に囲まれていた老教授、バルカスが話しかけてきた。
「教えてください、教授。なぜこの回路は、エネルギーを消費せずに増幅できるんですか?」
バルカスは笑った。 「消費ではない、『循環』だよ。君の計算式には『損失』という概念があるが、我が種族の理に損失は存在しない。全てのエーテルは位相を変えて戻ってくるだけだ。……ほら、ここの項に『共感係数』を代入してごらん」
「共感係数……? 物理定数に、精神的なパラメーターを組み込むのか!?」
幸田の脳内で、バラバラだったパズルが音を立てて繋がっていく。 技術とは、自然を支配する道具ではなく、自然の一部になるための「同調プログラム」だったのだ。
それからの幸田は、食事と睡眠を最小限に抑え、狂ったように情報を吸い込み続けた。 朝、リュミエに「まだやってんの? 真面目すぎてウケるんだけど」と煽られ、夜、ガロンに「おじちゃん、お目々が光ってるよ!」と無邪気に心配される日々。
図書館での飲食はすべて無料。幸田はカウンターに置かれたエーテル・ドリンク(頭脳の演算速度を1.5倍にするブースト効果がある)を煽り、バルカス教授と喧々諤々の議論を戦わせた。
「教授、この社会制度……お金がないのに、なぜみんな働くんですか?」
バルカスは不思議そうに幸田を見た。 「幸田君。君は、呼吸をするのに報酬を求めるのかい? 社会を維持することは、生命を維持することと同じだ。誰かが何かを創造し、誰かがそれを享受する。そこに『蓄財』というバグを挟む必要がどこにある?」
幸田は打ちのめされた。 高度な技術力とは、高度な精神性(OS)の上にのみ安定して動作するアプリケーションに過ぎないのだ。
一ヶ月後。 幸田の脳内データベースには、デボン紀の全科学、全歴史、そして社会システムの設計図が、ビット単位で格納されていた。
「ゼノ司書、お世話になった。……俺は、自分の場所へ帰るよ」
「黄金の同胞よ。君の瞳には、重い責任が宿っている。持ち帰った『火』で、自分の世界を焼き尽くさぬよう、慎重にデバッグしたまえよ」
幸田は深く頷き、アルゴンの家に戻った。 最後の日、幸田はリュミエに、約束のエーテル・パフェ(特大サイズ)を手渡した。
「……あ、本当に買ってきたんだ。サンキュ。……おじさん、明日帰るんでしょ? せっかく鱗の艶が良くなってきたのに、またキモい世界に帰るなんて、物好きだね」
不器用な彼女なりの別れの言葉に、幸田は微笑んだ。 「リュミエちゃん。いつか、俺のいた世界も、この世界みたいに『だるくて平和な場所』にしてみせるよ」
「……ふん。期待しないで待ってるわよ」
夜。富士の樹海へ繋がる「時間軸の栞」を幸田は脳内で展開した。 何も持たない。記録はすべて脳の中。 だが、その価値は、全盛期の幸田が持っていた力よりも遥かに重い。
『ユニークスキル:【空間把握(EX)】……クロノス・同期開始。』 『全技術文献・暗号化完了。脳内領域、プロテクト・オン。』
幸田はアルゴン一家に見守られながら、光の奔流へと足を踏み入れた。
「アルゴンさん、教授! ありがとう! この『オープンソース』、必ず未来のデバッグに役立てる!」
次元の軋みが幸田を包み込む。 四億年前の純粋な理が、現代の淀んだ世界に、一石を投じるための「最強のパッチ」として、今、時を超えて運ばれていく。
幸田博(34歳、兼・全宇宙の英知のバックアップ)。 彼は、現代への帰還の途中で、脳内のデータを反芻しながら確信していた。 もう、石油を奪い合う必要はない。もう、格差に苦しむ必要もない。 デボン紀の図書館で学んだのは、技術ではなく、生命としての「正しいあり方」だったのだ。
「待ってろよ、現代。……最高のアップデートを届けてやる」
黄金の光が消えた後、デボン紀の森には、ただ穏やかな風が吹いていた。




