怪しげな男3
薄い唇の端がちょっとだけ、ピクリと上がったようだ。
私は、まだほぼなにも会話をしていないけれど、この人は悪い人ではなさそうだとなんとなく思った。
少なくともかつてのロビンのように、こうしてペラペラと男性に話しかけるのを「はしたない」とか「レディなのに」なんていう気はないようだ。
そして。
「……お怪我が、なくて、よかったです」
小さな声でぼそぼそと言葉が返ってきた。ある意味また常套句だけれど。
私は、それでもこの目の前の男がもう会話を切り上げて去ろうとしているようではないとその一言で判断することにした。
「ところで……今更こんなことをお聞きするのはおかしいかも知れないのですが……先ほどマリリンが言っていたのは本当ですか? その……あなたがアーデン公爵だと……」
たしかにこの人は、ロビンに最初に「私の婚約者」と私のことを言っていた。今そう言えるのはアーデン公爵ただ一人。ということは疑うのは失礼なのかもしれないが、でも万が一にも間違えていたら大問題なのだ。
確認、大事。
ならば聞かねばならないだろう。そして、
「はい」
答えはあっさりと得られたのだった。
「あ、そうですか……」
ちょっと拍子抜けした。
そうか、この人が、アーデン公爵……。
今まで散々穴の開くほど眺めたあの「喜ばしい」という殴り書きを送って来た本人か……。
しかしじゃあどうしよう?
なにしろここで、「じゃああなたが私の婚約者の方で?」とはちょっと聞きにくい。
私は今日は、ちょっと離れたところからまずは当の公爵がどういう人かを観察するだけのつもりだったのだ。
どんな顔かとか、太っているのかとか、禿げているのかとか……。
肖像画も無し、一度も会わず、いきなり手紙一つで結婚の申し込みとか、そんなことをする人なんて正直に言えば普通の人ではないだろう絶対にどこか難があると思っていたから、とりあえずその難を見極めようと思っていたのだ。
だからいきなりこんな至近距離で向き合うつもりもなかったし、さらにはたとえこんな目の前にいても全く顔も表情もわからない人だとは、さすがの私も想定外だった。
――困っているのか、関心がないのか、それとも照れているのかも、なにもわからないわ。
私は途方にくれた。
貴族の紳士というものはそつのない、ユーモアを交えた軽妙な会話をするものではなかったのか。
この女性を前にしてだんまりとはこれいかに。
社交界でデビューしてから、私はこんなに口数の少ない人は初めてでどうしていいかわからないのだった。
なるほど、こんな大人しそうな人だったら、たとえどこかで同じパーティーに来ていても普段は埋もれて私が認識していなかったのかもしれないな、と、公爵と向かい合ったまま私は思った。
なにしろこの男、いやアーデン公爵という人は、今も若干の緊張感を漂わせながらひたすら立ち尽くしているだけなのだから。
私には、もうこのまま放って置いたらこの状態が永遠に続きそうな気がしてきた。
私が何も言わなかったら、この人はずうっと黙っているつもりなのではないか。
じゃあ会話をする気がないのなら、もう帰る?
ここで私が「では、ごきげんよう」とかなんとか言いながら立ち去っても、おそらくは追いかけてこないだろうし。
一瞬そんなことを考えたけれど、私は「そういえば」と思い出した。
そう、今日の目的である「相手を確認する」ということのそもそもの目的は、「婚約を破棄してもらう」という最終目的への準備ではなかったか。
うん、だとしたら、ダメだ。
今気まずいからといってここで逃げたら後でいろいろ後悔することになる。
後からなんでこんなことをしたのか聞いておけばよかったとか、せっかくだからその場で婚約を破棄して欲しいと頼めばよかったとか、そんなあれこれを自室に帰ってから身もだえして後悔する自分の姿が一瞬見えた気がした。
ならば、仕方が無い。
「えーと、あの、ではあちらで少しお話でも……?」
ええ、令嬢が人を誘うなんてはしたないと言う人もいるかもしれないけれど、でも私はもうこのときには確信していたのだ。
この人、このまま待っていても永遠になにも言い出さない……!
え、公爵様よね? ということは貴族の中の貴族、王族にもとても近い「完璧な紳士」なんじゃあないの? こう、そつなく会話をしてスマートにリードするものじゃあ……。
でも全てを諦めた私はそんな戸惑いはもうとりあえず置いておくことにした。それに、
「……はい」
当の公爵も同意したことだし。






