すれ違う心
夏休みに入ってからの文化祭の準備は、相変わらず日によってかなりバラつきがあった。スムーズに午前中に終わる日もあれば、部活などの関係で班のメンバーが足りない時は夕方ぐらいまで続くこともある。
なるべくどの班も同じ作業量にしようということもあり、遅くまで残っていた翌日は早く帰れることになっていた。なんだかバイトみたいだな、と思いながら、歩は自分たちの班が今日は早く帰れることに内心喜んでいた。
片付けも大方目処がついて歩がそろそろ帰ろうかと思った時、後ろの方から明日香の嘆くような声が聞こえきた。
「えー、椿まで抜けちゃうの?」
悲壮感たっぷりな表情を浮かべながら、広げた段ボールに膝をつく明日香が椿の顔を見上げている。
「ごめん明日香。今から他のクラスの実行委員と打ち合わせがあるから……、終わったらすぐに戻ってくる」
そう言って椿は申し訳なさそうに、ぱんと両手を合わせて明日香に頭を下げる。
「仕方ないなー。じゃあアイス一つで勘弁してやるか」
「ありがと明日香!」
交渉は無事に成立したようで、「よーし、二人で頑張るか!」と明日香は目の前にいる女子に言った。
彼女たちの班は、一昨日から教室の入り口に置く大きな看板を作っている。とりわけ作業量が多い仕事なのだが、同じ班のクラスメイトが部活の遠征のため二人欠けているのだ。そんな中で椿が打ち合わせのために抜けると言ったので、明日香は嘆いていたのだろう。
「すぐ戻るね」と言った椿は、そのまま和輝がいる班へと向かっていく。手に持ったプリント片手に話しているところ見ると、どうやら事前の打ち合わせをしているようだ。
歩は教室の扉へと向けていたつま先を明日香たちがいる方へと変えると、おもむろに歩き出す。そして、両手を塗料まみれにしながら真剣な表情で色を塗っている彼女に向かって口を開いた。
「俺も手伝うよ」
突然声を掛けられて驚いたのか、明日香は「えっ?」とピクリと肩を震わせると後ろを振り返った。
「歩くん、昨日も残ってくれてたのにいいの?」
目を輝かせながら話す明日香に、「ああ」と歩が答える。
「やった! じゃあお願いしちゃおうかな」
そう言って明日香が白い塗料がたっぷり入った缶を歩に差し出す。
「なら歩くんはこの辺りの色塗りをヨロシク! 新しい筆はそこにあるから」
明日香はそう言うとニコリと笑って再び自分の作業へと戻った。歩は目の前に置かれた筆を手に取ると缶の中へと突っ込む。半分以上浸った新品の筆が、ここぞとばかりに塗料を吸い込みずしりと重くなる。
歩は筆を待ち上げると、明日香たちが下書きをしてくれた段ボールに色を塗ろうとした。その時、筆先からぽたぽたと滴り落ちる塗料が、左腕につけている時計めがけて宙に放たれた。
やべっ。
歩は咄嗟に左腕をズラした。が、時計は守ることはできたものの、今度は左手に何かが強く当たる感覚が走った。直後、歩の手元にあった塗料の入った缶が勢いよく倒れる。
「うわっ」
近くに立っていたクラスメイトが驚く声がするのと同時に、歩の目の前には真っ白な海が床一面に現れた。ほとんど手づかずだった塗料は、無残にもその役割を果たさないまま汚れへと姿を変えていく。
「あちゃー、やっちゃったね」
困ったような笑みを浮かべて、明日香がぴっと舌を出した。歩がごめんと謝ろうとした時、勢いよく誰かが近づいてくる足音が背後から聞こえてきた。
「何やってんだよ」
敵意のこもった低い声に歩が振り返ると、そこには鋭い目で自分のことを睨む和輝が立っていた。先ほどまで賑やかだった教室内の空気が、一瞬にして静まり返る。一触即発と言わんばかりの重苦しい雰囲気に、明日香が慌てた様子で立ち上がった。
「ごめん、和輝くん。すぐに拭くから」
何とか場を和まそうとする明日香の言葉も虚しく、和輝は黙ったまま歩のことを睨み続ける。
「歩……大丈夫?」
雑巾を持って急いでやってきた椿が不安げな表情を浮かべて歩に言った。そしてしゃがみ込むと、彼がこぼした塗料を拭き取ろうとする。
「椿がやる必要ないって。そいつに掃除させろよ」
「でも……」
「それにもうすぐ打ち合わせ始まるだろ。おい、俺らが戻ってくるまでには綺麗にしとけよ。怒られるのはお前だけじゃないんだからな」
和輝が吐き捨てるように言った。そして歩に背を向けて教室の扉へと向かおうとした時、小さく舌打ちをする。
「逃げてばっかのやつが余計なことするなよ」
あえて本人にも聞こえるように言ったその言葉は、鋭い痛みを伴って歩の心に深く突き刺さった。歩は一瞬眉間に皺を寄せて和輝の方を睨むも、黙ったまま椿が持っていた雑巾を受け取る。
「歩……」と心配そうに彼の名を呟いた椿は、ゆっくりと立ち上がると和輝が出て行った扉へと向かって歩き出す。
二人の足音が消えて、教室には再び静けさが戻った。歩が手元に視線を落とすと、明日香たちが書いてくれた下書きが白く覆い尽くされていることに気づく。
「ごめん……」
歩がぼそりと呟く。その言葉に、気まずくなった空気を振り払うかのように、明日香が明るい声で言った。
「ううん、気にしなくても大丈夫だって! それに白色の方が上から綺麗に書けるでしょ」
そう言うと明日香は立ち上がり、掃除用具箱から雑巾を持ってくる。歩は、床に広がった塗料に力任せに雑巾を擦り付ける。すでに固まり始めたのか、胸の奥底にこべりついた感情のように、床に染み付いた汚れはなかなか取ることができない。
拭き取ろうとすればするほど、白いはずのその色は、心の中で黒いものを疼かせた。それをさらに刺激するかのように、和輝の言葉が歩の脳裏に無意識に浮かぶ。
歩は拭いきれない感情を吐き出すかのように、深くため息をついた。いまだあの日から前に進めていない自分の周りでは、来たるべき未来に向かって、クラスメイトたちが楽しそうに準備を進めていた。
打ち合わせを終えた椿と和輝は、再び自分たちの教室へと向かっていた。通り過ぎていく各教室では、個性豊かな出し物の準備が進められている。
まだ当日ではないものの、お祭りにも似たそんな雰囲気を味わっていると、改めて自分たちが『青春』という立場を謳歌している存在なんだと気づく。
「どこのクラスも結構準備が進んでるみたいだね」
「俺らも負けてられないな。それに、椿がデザインしてくれた制服も早く完成させたいし」
和輝はそう言うと、椿の顔を真っ直ぐに見てニコリと白い歯を見せる。
「はー……、なんかそう言われたらすごくプレッシャーだよ。どうしよう、実物みたら変だったら……」
「はは、椿なら大丈夫だって。センスあるし。他のクラスと比べでも一番良いやつできるって」
「そうかなあ。ならいいんだけど……」
自信たっぷりに宣言する和輝の言葉に、椿は恥ずかしそうに下を向く。
「絶対いけるって。椿のおかげで飲食部門の優秀賞も狙えそうだな」
「それは言い過ぎたよ。私の力なんて微々たるもんだし……。クラスのみんなが協力してくれてるおかげだよ」
そこまで話すと椿はぱっちりと上がっていた睫毛を伏せる。そして少し憂いを帯びたような声で、「だから……」と再び口を開いた。
「たぶんさっきは歩も、私が打ち合わせで抜けるから明日香たちの班を手伝ってくれようとしたと思うの。歩、そういうことよく気付いてフォローしてくれるから」
「……」
ぽつりぽつりと話し始めた椿の言葉を、和輝は黙って聞いていた。目の前では他のクラスの生徒たちが、廊下に集まって大きな看板を作っている。
ほとんど完成しかけのその看板を見て、和輝はさっきの歩とのやり取りを思い出した。思わず口に出してしまった彼への言葉は、当てつけのように自分の心にも鋭く刺さっていた。そんなことを考えていた時、隣を歩く椿が静かに話し始める。
「歩ってね、ちっちゃな頃から何かあるとすぐに力になってくれてたんだ。私がよく迷子になったり、大切な玩具を無くしたりすると、いつも歩が助けてくれてた。お姉ちゃんと喧嘩した後、隠れてこっそり泣いてたりすると、いつの間にか隣に居てくれたり……」
椿はそう言うと、過去の思い出を見つめるかのように目を細めた。その瞳が、少し悲しそうに揺れる。
「お姉ちゃんが亡くなった時も、私は大泣きしてたのに歩は全然泣かなかった。たぶん私のことを心配して、自分が悲しんでるところは見せなかったんだろうな。通夜の時も、お葬式の時も……。でも本当は、私より歩の方がずっと辛かったと思う。だって、たぶん歩は……」
椿はあえて次の言葉を口にしないかのように、ぎゅっと唇を噛んだ。もやもやと心に巣食う感情は、言葉という形にすることでナイフのような鋭さを持つ。それを素直に受けとめられるほど、自分の心はまだ大人にはなれない。
黙ったままの和輝に気づき、椿はハッと我に返ると慌てた様子で口を開く。
「ごめん和輝くん。私の話しばっかりしちゃって……」
そう言って困ったように眉尻を下げる彼女を見て、「べつに大丈夫だよ」と和輝は優しく微笑んだ。その表情にほっとした椿は、話題を変えようと彼に質問した。
「そう言えば和輝くんたちはもうすぐ夏の大会があるんだよね?」
「ああ、そうだよ。二年からもレギュラー選ばれるみたいで真一のやつ、『絶対に俺は選んで下さい!』ってキャプテンに猛アピールしてるからな」
和輝はそう言うとため息をついてわざとらしく肩を落とした。それを見て椿がクスリと笑う。
「なんか真一くんがそう言ってるのが想像できる。和輝くんはもちろん選ばれるんでしょ?」
「さあどうだろうな。こればっかりは先輩たちに決めてもらうしかないからなー」
和輝が考え込むように顎をさする。
「和輝くんみたいにずっとサッカー一筋で頑張ってるのって凄いよね。私なんて特に頑張って続けてるものとかないし、そういうのってなんか憧れる。中学の時もサッカー部の試合よく見に行ってたし」
「椿はたしかテニス部だったよな?」
「うん。中学の間だけね。私テニス部でシングルだったから、チームでスポーツできるのってちょっと羨ましかったかも。ほら、和輝くんがシュート決めて歩とハイタッチしてるのとかも、一人だったらできないし」
「……そうだな」
和輝の顔が一瞬曇ったことに気付いた椿は、「あ、ごめん……」と小さな声で謝る。二人の間に、少し気まずい沈黙が流れた。そんな空気に押しつぶされないようにと、ぎゅっと拳を握った椿が静かに口を開く。
「もう、見れないのかな」
「え?」
「和輝くんと歩が頑張ってる姿……」
「……」
その言葉を聞いた和輝が一瞬目を瞑る。瞼の裏に浮かぶのは、まだ歩とボールを追いかけていた頃の自分の姿。
過ぎ去っていく過去の様々な思い出は灰色になっていく中で、その記憶だけはまだ色を灯していた。それはこの先も、どれだけ新しい思い出を積み重ねたところできっと変わらないのだろう。
今となっては悔しさと後悔しか感じない記憶に蓋をするかのように、和輝は「さあな」と静かに呟いた。




