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前世、わたしは恨みを抱いていたか




 ロメリーは、王女から逃げるようにして城を出た。城のどこかにいれば、すぐまた王女に捕まって心を掻き乱される気がしたのだ。


 けれどもロメリーに行く宛などない。

 ここは辺境の地。図書館も、教会もなく、暇潰しに見て回れるような市場もない。


 頭の中がごちゃごちゃとしているときにはいっそう考えが及ばなくて、結局、丘のたもとにある小川へ足を向けた。やや蒸し暑くなってきたこの時期は、水場に近付くだけで肌が洗われるような心地がする。


 やわらかい草葉を爪先で掻き分けて、清涼感のある川の水の匂いを嗅ぐ。水性植物がちらほらと生えているのを上から眺め、跨いで渡れるほどの狭い川の中に何も泳いでいないのを確認した。


 小石の上をするすると流れていく透明な水。

 かすかに青臭い、あたたかな風。

 裾に気を付けてしゃがみこみ、手をかざすと、跳ねた水が優しく手のひらにくっついてきた。

 きらきらと水面が反射して、水晶のかけらが水底に降り積もっているように見える。いっそこのまま全身びしょ濡れになって、小さな子どもみたいに水浴びでもしてみたいと思った。けれどもそれを誰かに見られてしまっては、神官の威厳や聖性を失う。


 いつの世も、好き勝手に生きることはできないものだ。

 まあ、前よりはよほど自由だとは思うが。


 ぼんやりとしゃがみこんだまま、かざした手をふいっと振る。

 それを追うようにして、流れていた水が形を変え、水上に浮き上がった。魔導士ならばこれを自在に操り、一角獣やドラコーンに見立てて草原を走らせることもできるのだろう。けれどもロメリーには飽和しそうな力を制御するので精一杯で、水の形などにはこだわっていられない。


 神官には魔法などは必要ないからうまく使えずとも問題はなかったけれども、今後王女が強行手段をとるようであれば魔法を使うことも視野にいれておかねばなるまい。


 前世の恋人に出会えたら素敵ね、と言った王女。

 前世の罪を忘れることは許さぬ、と言った王女。


 果たしてどちらの王女が、リリアンの心を支配しているのだろう。それらはまったくの別人なのか、それともやはり魂を同じくするからには前世といえども同一人物なのか。


 ロメリーが今一番気になっているのは、彼女の人格だった。もしも前世の記憶によって、もとの彼女が消えてしまったのだとしたら、それは殺人に近い出来事だったのではないかと思うのだ。例え消えていないのだとしても、前世と今世の人格が入れ替わるようにして現れればそれはもはや二重人格。

 もとは穏やかなひとだったのに、前世の人格が顔を出したその瞬間にだけ牙を向く。もしそんなことになれば、リリアンの人生がめちゃくちゃになってしまう。


「魔導士。やはりこれは地獄ですね……」


 神官として、彼女に何をしてやれるだろう。

 魔導士に相談してみたくとも、じぶんは神官だ。ひとの悩みを聞く側だ。それに、神官が他人の情報を漏らしてしまっていいはずもない。

 守秘義務。

 これによって神官は、そう簡単にひとに悩みを打ち明けることができなかった。






 バケツとぞうきんを持って戻ってきたカーリー・リヴリンに、魔導士アンセルはふと顔をあげた。


「ああ、待って。俺がやる」


 粉々に砕けた陶器と絨毯に染みを広げる紅茶。魔導士にしてみれば、せっせと掃除させるほどの汚れではない。

 反論を聞く前に椅子に腰かけたまま手をかざし、ふっと釣り上げるようなしぐさをした。するとたちまち割れたポットのかけらも、こぼれた液体も、空中へ浮き上がる。絨毯に染み込んでいた茶色は、すっかり消えた。


「バケツ、そこ置いてくれ」

「は、はいっ」


 せっかく吸い出した紅茶が跳ねるといけないので、リヴリンに用意させたバケツにそっと落としていく。破片もすべてバケツに注ぐと、魔導士はふっと吐息して椅子の背もたれに体重を預けた。魔法を使うのは体力勝負と教官は言うが、慣れればなんということもない。


 実際、アンセルは筋肉とは無縁の身体つきをしているし、遠い昔にはひょろながの貧弱野郎と罵られたこともあった。

 むかついたので宙吊りにしてやったところ、当時よく会話をした王族の子に「持ち上げるだけでそのまま静止させるにはどうしたらいいんだ」と訊ねられた。降ろしてやれと命令しないのかと問うと、そのひとはまぶしい笑顔で「わたしにそんな権力はない」と言い切った。吊り上げられた人間が、そんなわけないだろうとわめき始めたのでうるさくなって放り投げた記憶がある。


 あのひとは魔法を使いたがった。いつも不思議だ不思議だと目を輝かせて、アンセルが物を浮かせるのを見つめていた。侍女や教育係にたしなめられても、言うことを聞くひとではなかった。

 このひとは殺しても死なない図太い奴だと思って呆れていたのに、あっさり死なれたときにはそれに関わったすべての人間を潰してやろうかと一瞬思った。

 でもやめた。やめるだけの理由が、そのひとの死に関わっていたから。


「リヴリン」


 掃除用具の後始末を頼むついでに、アンセルは何気なく彼女に訊いてみた。


「さっき、王女が魔法を習いたいと言ったろう」

「は、はい。おっしゃっておりましたが」


 緊張したようにこくこくうなずく彼女をじっと見たあと、視線を外す。手元に広げた決済書類にサインを書きながら、やはりまた何気なく問いを重ねた。


「どう思う?」

「え? あの、どう、とは?」

「どう思った、きみは」


 意見を聞かれていると思ったのか、リヴリンはたいそう困惑していた。侍女が口出しする問題ではないだろうと顔に書いてあったが、アンセルが聞きたいのはそこではない。


「王女は魔法が好きなんだろうか」


 言い添えると、彼女はようやく考えを巡らせ始めたようなそぶりを見せた。あごに手を添え、首をかしげて、ぼそりとつぶやく。


「好きかどうかは存じ上げませんが、ご興味は強いようでした。少なくとも私にはそう見えた、というだけのことですが」

「そうか」

「あの方らしいですね」

「……そう思うか」


 念を押すように確かめると、目に見えて狼狽した。


「あ……ええと、王女は活発な方ですし、明るくて、勤勉で、傲ったところもなくて、とてもいい方で」

「ああ、いいんだ、別に疑ったわけじゃない。ありがとう、もう行っていい」


 知ったふうな口を利いて申し訳ありません、とリヴリンは頭を下げてから退室していった。


 アンセルは頬杖をつき、指先で机をとんとんと叩いた。


「王女らしい、ね」


 知ったふうな口を、とリヴリンが恐縮したのは、彼女と王女にたいした面識がなかったからだ。それでも他人に王女らしいと言わせるだけの分かりやすい性格を、あるいは性質を、リリアンは持っている。


 魔法に興味があって、輪廻転生を否定しないリリアンは、王族にしては奇特な女性だと思う。死すらなんてことないようにふるまって、そしてあっさり死んでしまったあのひとによく似ているとも思う。


 王族だからか。

 目をかけてもらえない十三番目の子だからか。


 地方に追いやられるようにして城主代行となった王族の子は他にもたくさんいるから、リリアンだけがないがしろにされているわけではない。

 それでもこのまま彼女が利用されて、またあっさり死ぬようなことになったら、今度こそ国を焼き払ってやろうか。


 ああでも、この城には聖職者がいるから、途中で止められてしまいそうだ。


 ふっと顔をあげて、さっきまで棚の整理をしていた神官の姿を探す。

 いや、ずいぶんと前に出ていったじゃないか。リヴリンが割ったポットの片付けを手伝うために退室して、それきり戻ってこなかった。いつも近くにいるひとだから、つい、目をあげればそこにいるものだと思ってしまった。今ごろはそこらの兵士だか村人だかに捕まって、告白を聞かされたり祈りを頼まれたりしているのだろう。


 おかしなものだ。まだ一年しか共に過ごしていないというのに、あの神官が近くにいないとわかると「どこいったんだろう」としばし考える程度には馴染み深い存在になっている。

 よくひとの話を聞くからだろうか。神官というのはひとの話を聞くのが仕事のようなものだ。だからアンセルは、じぶんが話し出すのを辛抱強く待ってくれるあの女のひとなら、大丈夫だと思ったのかもしれない。

 あのひとなら、アンセルの話を、たぶん笑わずに聞いてくれると思ったのだ。いつになるかわからない、アンセルの告白を、死ぬ間際に彼女に話してみたいと思う。


 できればあの神官が生きているうちに、寿命が訪れてくれればいいのに。そうすれば、次にこの地へ来る神官を待たずに空に昇れる。その神官が彼女ほど辛抱強くないなら、きっとこの記憶も思いも墓場まで持っていくことになるのだろう。それでもまあ、いいのだが。


 アンセルは席を立ち、魔導士の黒衣をひるがえす。紅玉や翡翠の飾りが、いたるところにぶら下がっていて鬱陶しい。静かに移動したいのにじゃらじゃらと音が立つから、夜に城を徘徊するときは脱いでいたりもする。それでばったり出くわした巡回中の兵士に幽霊だと思われ、気絶されたこともあるので、たぶんこのじゃらじゃらがなければアンセルの気配を消す能力は非凡なのだと思う。単に影が薄いだけだと、かつての友人は言うだろうか。言うだろうな、きっと。


「少し城を空ける」


 部屋を出て、最初に会った侍女に声をかけると、彼女はびっくりしたような顔で固まった。手にはトレーを持っている。


「昼食はどうされるので!? ご用意は今ここに!」


 ああ、それが昼食だったのか。


「今日のごはんはなんだ?」


 かがんでトレーを見下ろすと、侍女がここぞとばかりに料理の説明をした。どうやらアンセルに食べてもらえないことには厨房へ戻れない、といった風情だったので、申し訳なくなった。


 一年前までは口うるさい神官がいなかったので、一口も口をつけずに食事を返却していたこともざらだった。迷惑をかけたと思ってはいるが、最近は食べたくなくても食べなくてはならない気がしてけっこう大変だ。絶対あの神官のせいだ。あいつは俺の母親か、と母なんていなかったくせにそんなことを思って、しまいには笑いそうになる。百年以上も生まれた年が違うのに、微妙にやり込められているじぶんがアホっぽい。年上の威厳はどこに。


「朝昼晩、しっかり召し上がっていただきませんと、すぐに痩せておしまいになりますよ!」

「一食抜いたくらいで死にはしないぞ」

「いけません。魔導士はロメリー様に、私はコックに、こっぴどく叱られてしまいますからね」

「それはまずいな」


 櫛を入れるのも面倒で起きたまま放置している髪を掻きあげようとして、ふと動きを止める。


「怒られるのは嫌だから、持っていくか……」

「はい?」

「コックには内緒にしておいてくれ」


 皿に敷かれた葉で丸いパンを包み、手に取る。慣れたふうにずぶりとフォークを差し込んで穴を空けるのを、侍女が呆気にとられて見ていた。かまわず穴の中へ揚げた鶏肉とサラダを詰め込んで、フォークをトレーに戻す。

 前に神官が手ずからやってみせた、コック侮辱料理だ。最低だ。でも面白いから誰もいないときにこっそりやってみたりしている。これは神官も知らない、ここ半年くらいアンセルの中で流行している楽しい食べ方だった。


「このことについて箝口令を敷く。いいな?」

「ええ、はい、わかりました。どうぞごゆっくり」


 おかずの詰まったパンを取り上げて言うと、侍女は笑いをこらえるように震えた声で了解した。

 笑われるいわれはないのだが、コックと神官の冷戦をそばで見てきた侍女にしてみると、魔導士相手に喧嘩はおろか冷戦さえできるはずもないコックが哀れに思えるのかもしれない。そしてそれが逆に笑えるのだ。

 気持ちは理解できるけれど、コックが気の毒だった。おおむねアンセルのせいだが。






 しばらく自失していたように思う。はっとして顔をあげると、まだそんなに時間は経っていない様子だった。


 実になるほどに真剣な考え事をしていたわけでもなく、ただじいっとしていただけなのに、ひどく疲れた気がする。芝生に腰を下ろしたい衝動に駆られたが、白い服では汚れが目立つ。渋々足を伸ばし、帰ろうとしてやっぱりやめた。


 頭上を旋回して、青い鳥が飛んでいく。ちぎれ雲はロメリーの苦悩など知ったこっちゃないとばかりにふよふよと流れ、太陽と戯れては去っていく。


 ここに留まるものは、少ない。

 そろそろじぶんも、城を旅立とうか。せっかく魔導士を手なずけたところだったのが惜しいが、このまま王女のそばで暮らすのはどうも精神衛生上よくない。

 百歩譲って旅に出るのは却下するとしても、寝床を村のほうへ移すのはどうだろう。

 そういえばこのあいだ保護した盗賊かぶれは村で農業を手伝っているらしい。そろそろ様子を見に行って、事の経過を伝えなくては。六日後には派遣隊が城に着いて、討伐任務に当たると知らせてやれば安心するだろう。


 おもむろに片足をブーツから抜く。厚い布で作られているブーツは主を失ってくたりと折れ曲がった。それを芝生に捨て、もう一方も脱いでしまう。


 全身水浴び、というのはさすがに無理だが、足をつけるくらいなら長い衣をうまく使えばごまかせないこともない。いや、厳しいか。誰もこないことを祈るしかない。たまには神官にも息抜きが必要なのだ。


 素足で川底を踏む。ごつごつとして、丸っこい石が足の裏を刺激する。けっこう痛い。でも足の甲や足首を撫でていく冷たい水は心地よく、嫌な気分を連れ去っていくようだった。自然は偉大だ。


 ぱしゃっ、と爪先で水蹴る。衣の裾が濡れたが気にしない。

 膝頭があらわになるほど布をたくしあげて、もう一度蹴る。


「前世なんてくそくらえ!」


 そうだ、何が前世だ、頭に花でも咲いてるのか。

 ひとを巻き込んで罪だ罰だ騒ぎ立てて、何が許さないだと。それはこっちのセリフだ。平穏な日常を返せ。


「夢だと思って忘れちまえ!」


 いっそ聖都に戻って記録を調べてやろうか。王女の前世を突き止めて、どこの誰なのか検索するのだ。そうしたら、そんな人物はいなかったとか、そういう結果が出るかもしれない。あなたのそれはただの夢なのだと神官らしく諭してやれるかもしれない。


 そうなったら言ってやろう。

 あなたに罪はない、と。

 そして、リヴリンを巻き込もうとするのはやめなさい、と。


「魔導士が地獄っておっしゃったのを聞いていなかったのか!」

「何を騒いでいるんだ、きみは」

「はっ」


 叫んだ勢いのまま振り向くと、そこには天才的な忍び足で近づいてきていた魔導士がいた。

 裾を持ち上げてとんでもなくはしたない格好をしていたロメリーは、はっとして手を離す。その拍子に衣が川に浸ってしまった。


「……魔導士。どうか今のことはご内密にお願いできませんか」

「言うあてがないからそれはかまないが」


 魔導士はじっとロメリーの神官服を見下ろし、やれやれとでも言いたげに目をすがめた。

 緑の丘を背負って立つ、しかめ面のこの男。自然の風景が似合わないのは彼が研究室に籠りがちだからなのか、運動ができなさそうな長身痩躯だからなのか、はたまた黒衣をまとっているからなのか。

 たぶん全部な気がする。爽やかさとは無縁の男だ。


「とりあえず、そこから出てこい」

「幻滅しましたか」

「ん?」


 芝生に足を乗せると、さりげなく魔導士の手が延びてきて腕をとられた。魔導士本人も若干よろめきながらロメリーを引き上げてくれる。


「神官が、こんなことをして」

「思ったよりもお転婆だったな」


 魔導士は一瞬だけ唇の端に笑みらしきものを浮かべたあと、丘の向こうを眺めるように遠い目をした。

 彼の黒い前髪が、風にあおられて吹き上がる。歪みなく引かれた柳眉と白いおでこがあらわになって、少し幼く見えた。


「神官も人間だからな。前に王女だってやってたことがあるくらいだ」

「……えっ」

「これこそ内密に頼むぞ。まあ、言ったところで誰も信じやしない。王族や神官が、ひとなみにはしゃぐとは思ってないからだ」


 はしゃいだことを責められた気はしなかった。ロメリーが叫んでいたことも、聞こえていなかったはずはない。でも、魔導士は何も言わない。


「あなたがおっしゃったことなら、信じるのでは」


 魔導士は、ぱちりぱちりとまばたきをしてから、珍しく、やわらかい笑みを浮かべた。


「そうか?」

「魔導士は狼少年ではありませんから」

「まあ、少年ではないな」

「見た目の話ではなく」

「わかってるよ」


 はにかんだのを隠すように、魔導士はうつむく。


「神官殿、お昼は食べたか?」

「いいえ。ご覧の通りのありさまですので」

「じゃあちょうどいいな」


 そう言って、魔導士は指をひょいっと動かした。とたん、ロメリーは風に吹かれたように足元をすくわれ、芝生にしりもちをついてしまった。衝撃はなくともびっくりはする。

 どうやら魔導士のしわざらしい。彼は小川のそばでロメリーのとなりに腰を下ろし、片手に持っていたものをロメリーに差し出した。


「この前、食いっぱぐれたのは俺のせいだと言ったろう」

「どうして葉っぱを持っているのかと思っていましたが、まさかこれ」

「ごはんだ。半分こしよう」


 だめだ、と言う前に、ふわふわのパンを口元に押し付けられた。


「むむむ」

「唸るな。食え」


 渋々一口かじる。かすかに甘味のあるパン生地は、口の中の水分を根こそぎ奪って喉に張りつく。


「中においしいものが入っているから、ちゃんと半分のところまで食うんだぞ」


 もう口をつけてしまったので返すことができない。仕方がないので魔導士の手からパンを受け取り、おとなしく咀嚼する。確かに彼の言う通り、二口目からはおかずが口に入ってきた。肉らしきものと葉物野菜がうまく押し込められている。


「魔導士。これは」

「神官殿の考案したコックへの挑戦状だ」

「効果覿面でした」

「俺は箝口令を敷いたから平気だ」

「なんと卑怯な」


 コックとの冷戦にはそれはもうつらいものがあった。だというのにこの男ときたら権力にものを言わせて黙らせるとは。


 じっとりと見つめるが、魔導士は得意気にふっと笑ってロメリーの正面に場所を移動した。


「怒るな。乾かしてやるから」

「え」


 魔導士がロメリーの足元を覗き込み、手をかざす。そんなことをさせるつもりは微塵もなかったロメリーはぎょっとして足を引き戻そうとしたが、かざされていないほうの手で引き留められてしまった。


 あっという間に足も布も水気を払われ、ブーツがふわりふわりと風に運ばれてくる。


「魔導士は本当に魔法が達者ですね……」


 素直に感心すると、魔導士は苦笑した。


「魔導士だからな」


 死ねないほどに魔力の高い魔導士は、あまり嬉しくなさそうにそう言った。彼にとって魔導士であることは苦痛なのではないかとときどき思う。

 ひとなみに死ねるのなら魔力などいらない、と――誰かほしい者がいるのなら喜んで差し出す、と簡単に言ってのけてしまいそうで、ロメリーは内心穏やかではいられなかった。


「魔導士」

「何だ?」

「魔導士には、会いたいと思うひとはいらっしゃいますか」

「なんの話だ」

「今朝の、王女がおっしゃっていた前世の話です。魔導士の長い生なら、転生を果たした誰かにお会いすることが叶うのではないでしょうか」


 転生するのに必要な平均年数は五十年。個人差は大きかろうし、確かめようもないが、世間ではそう言われているのだからそれにすがるしかない。

 少なくとも一度は面識のある人間が転生できるだけの長い人生を、彼は生きている。無神経な問いだとわかってはいたが、リリアン王女の前世と知り合いである可能性はなくもないはずだ。何しろ、彼女と出会ったとき、彼の様子は尋常ではなかったそうだから。


 でも、魔導士が簡単に教えてくれるとは思っていなかった。

 案の定、黙って座る位置をずらした魔導士は、立てた膝に腕を乗せて難しい顔をしている。


「神官殿には前世の記憶があるか」


 ふいに訊ねられ、首を振って答える。けれども彼がこちらを見ていないのに気がついて、声に出して答え直した。


「いいえ」

「俺にもない。だが、転生していてほしいひとはいる」


 そのひとが!

 ロメリーは心臓が騒ぎ始めるのを自覚した。

 じぶんだけが緊張しているのだろうか。問い詰めたいのを我慢して、草を握りしめた。


「その方にお会いしたいと?」

「どうだろうな。会わないほうがいい気もする。あまりいい最期ではなかったから、思い出さないでいられるならそのほうがいい。ただ、俺が気付くきっかけだけは、ほしい」

「なぜですか」

「訊きたいことがある」


 次々と答えてくれるのが、不思議だ。

 これまではいくら問いかけてもかわされていたのに、どうして今になって。


 戸惑いを隠せない。心音が耳の奥で鳴っている。

 これ以上聞いてはいけないような、逆に聞かなければならないような、複雑な心境だった。

 思い出したならもう二度ともとのしぶんには戻れない。つまりこれも、そういうたぐいのものなのではないだろうか。

 魔導士の告白を聞けば、ロメリーはこの船から降りられなくなる。対岸に着くか、沈むか、どちらかの結末を迎えるまでは。


「訊きたいこと、とは?」


 感情を抑えたような凪いだ瞳が、ふっとこちらに向けられる。

 魔導士がロメリーを見ている。

 どくん、と心臓に痛みが走った。


「恨んでいるのか、そうでないのか」


 それが知りたい、と言った魔導士に、ロメリーはとっさに「聞いてどうする」と詰め寄りたくなった。

 事情なんて知らない。誰が誰を、あるいは誰が何を対象に恨みを持つのかもわからない。けれどもロメリーの中だけで噛み砕くには、おさまりきらないほどに大きな感情のうねりがあった。


 やる気さえあれば、国を半壊させることくらい軽々やってのけるであろうこの男が、それを聞いてどうするというのだろう。恨んでいると言われたら、その膨大な力でじぶんを殺すのか。そうか、それは容易だろう。

 だがそうなったとき、ロメリーは彼の死をどう受け止めればいい。そのひとに会わないよう、駆け回ればよかったと後悔して、彼に死を望ませたそのひとにおまえさえ現れなければと恨みを向けて、そしてじぶんが死んだあとに今度はじぶんが未練を残して転生したらどうする。


 転生した魔導士を探して、今度は死なせないようにして?

 転生したそのひとを探して、今度は決して魔導士に会わせないようにして?

 そんなことを、来世でやるというのか。前世などくそくらえといった、この身の魂で。

 でも魔導士が自死を選ぶことになったら、やらずにはいられない。そんな気がする。理屈ではなく、本能的に、そうしなくてはならないと思う気がする。


 リリアンも、そんな使命感のような本能に翻弄されているのだろうか。人格とかそんなものではなくて、ただ、記憶に、当時の感情に、振り回されているだけなのだとしたら。


 今世の身に起こったことのように感じられても、それはただの記憶だと実感させてやらねばならない。

 そしてそれができるのは、当時の彼女を知る者。あるいは、前世の記憶を持ちながら、今世のじぶんを生きる強き者だけなのではないか。


 そんなひとが、いったいこの世にどれだけいるだろう。


 絶望的な気分で、ロメリーはブーツを履き直した。




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