09
私はただその場に立ち尽くすだけだった。
入っていけない隠された森の入り口は辺りを見回しても見つけきれない。何がどうなっているのか。
まさかさっきのは夢ではなかろうか。いいや、夢のはずがないんだ。冷たい手が頬を撫でた感触を私はまだ覚えている。
「勇者さまっ」
「んん?」
鈴のような可愛らしい声が聞こえた。勢いよくバッと声がした方を振り返ると、そこにはこの世界に初めて来た日に見た可愛らしい女性が私の方に走ってきていた。
レオンが言うには彼女はこの神殿にいる巫女の一人だったはずだ。そんな彼女が私に何か用でもあるのだろうか。
「お探しいたしました」
「えっ、探した?」
「はい。あの方がいない内にと思いまして」
あの方というのは多分だがレオンのことだと思う。今はレオンがいないからそうなのだろう。
彼女達、巫女にレオンは嫌われていると言った。その理由が男だからとも言った。本当はそうだとしても、私に話しかける彼女に理由を聞きたいと思ってしまう。
それにレオンは国に私が召喚されたとは言ってないが、彼女達は知っている。そのことも知りたいと思った。
「あの、聞いてもいいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
首を傾げ、私の言葉を待つ彼女。人を無条件で嫌うような人ではない感じがする。
それに何だか癒される空気がある。彼女が巫女だからそんな空気が流れているのか。全くもって不思議だ。
「私の存在を国に言いますか?その、召喚されたって……」
もしもこれでもう言ったと言われたら、私はこの国で生きてはいないだろう。レオンの言葉を信じるのならば。
だが、あの時のレオンは嘘を吐くような雰囲気ではなかったと思う。例え、それが単純だと言われようとも私は少しずつレオンを信じ始めていた。
ふぅと息を吐き出して彼女を見ると、目を丸くして驚いている。驚く必要があるのか、よく分からずにもう一度だけ彼女を呼んだ。
ハッと息を吹き返すように彼女は私を見た。
「そんな!わたくしたちは、あなたが勇者であろうと国にこのことを言う義務はありません。それにあなたのような可憐な少女が魔王を倒す必要なんてありません!」
必死な形相で訴える彼女に何度も頷くしか私には出来なかった。
私が頷いたことにホッと息を吐き、彼女はきょろきょろと辺りを見渡す。そっと誰にも聞こえないように私に一歩近付いた。
「あなたのような少女があの方の側にいるのは大丈夫なのですか?」
「大丈夫って…大丈夫じゃない時があるの?」
「わたくしたちは、勇者召喚の儀式など以外にあの方の側になんかいられません。あなたはあの方が恐ろしくないのですか?」
彼女の言葉に私は首を傾げた。
恐ろしいとは誰のことを言っているのか。レオンのことだと思うのに納得がいかない。レオンは確かに危険なことをするが恐ろしいとは違う気がする。時々、怖いと感じるぐらいだ。
それにレオンは安全だ。私を殺させないと言ったし、この世界では彼と常に一緒にいた。彼の側がこの世界の私の居場所だ。
ふと、隣人だった大神のことを思い出したが、すぐに首を振る。大神よりレオンの方が安全だと思ったからだ。
「私はどうして貴方達が恐るのかの方が不思議なんですけど」
そう言い切ると彼女は何とも言えない驚愕を浮かべた顔をした。
私はただその驚愕に満ちた顔を眺めながらレオンについて考える。そんな時、目の前にいる彼女の顔が真っ青になった。
何かに腕を引っ張られ、温かいぬくもりが全身に伝わる。体の向きを変えられ、目の前が暗黒に包まれた。
「何をしているのですか?」
「あ、あっ、申し訳ございませんっ!」
聞き覚えのある耳に心地よい声。この声の持ち主は彼しかいない。ならば、この全身を抱き締めているぬくもりも彼しかいない。
彼女の声色がやけに焦っていたがそんなものを気にしている余裕は私にはなかった。
「レオン…?」
そう呼んでから私は初めて彼の名を口に出したなと思った。
顔は見えないがレオンはそっと微笑んだ気がする。自身の胸に埋めさせている私の頭を固定している手で髪を撫でた。
どこか遠くで走り去る音が聞こえた。
「巫女と何を話していたのですか?」
拘束を解かれ、私はレオンの顔を見上げる。顔にはいつものように笑みが張り付いているが、どこか怒っている雰囲気がある。
彼がなぜ怒っているのか理由が分からない。私が何かしたのだろうか。
どうして怒っているのか観察するみたいにジッと彼を見つめた。
巫女の彼女がいなくなっていたことは既に眼中にはなかった。
「何を話していたのですかと聞いているのですよ。聞こえないのですか?」
ゾクッと体が反応を示す。レオンから冷たい冷気のようなものが感じられる。
前にも感じた冷気を身に浴びて、私は安心するためにレオンの袖を掴もうと腕を伸ばす。彼に触れる寸前でその手を取られ、引っ張られる。
ぽすっとレオンの胸に当たる。そのまま逃げられないように抱き込まれた。
「僕以外と話さないで下さい。僕が貴女を生かしているのですよ」
「……なにそれ」
身勝手な言い方だ。話ぐらいしていいと思う。それに「生かしている」と言う言葉。前にも聞いた言葉だが嫌な気分がする。
抱き締められたまま、キッとレオンを睨み付けた。私は貴方の思い通りになる人形ではないと思いを込めて。
「いいですね。その瞳は真っ直ぐで、何も知らないのだと嫌でも分かってしまいます。巫女が言うように僕は恐ろしい存在ですから、それを知ったら貴女も……」
「勝手なこと言わないで!」
レオンの言葉の途中で私は彼の言葉を遮った。
なぜか、聞きたくなかった。レオンの口から自分自身を否定する言葉を、私の思いを勝手に決める言葉を。
変わらずレオンを睨み付けるが、瞳からは涙がこぼれそうだ。それを寸前のところでグッと堪える。
「確かに私は巫女と貴方のことを話していて、彼女は貴方が怖いと聞いた。それでも、私は」
レオンといると安心する。そう小さく呟いた言葉は果たしてレオンには聞こえていただろうか。
私を離さないと言わんばかりに抱き締める力を強めた。押し潰されるような力の強さだった。
「りいな、りいなは馬鹿ですね。貴女は大きな間違いを犯してる、今まさに」
はぁとため息をこぼし、私をレオンは離した。レオンはいつもと変わらない笑みを浮かべている。
さっきまでの会話がなかったような雰囲気でレオンは口を開く。
「そんなことより、僕の名前を初めて呼びましたね。呼んで下さらなかったので、忘れていると思っていましたよ。貴女は頭が弱そうなので」
「なっ、今までは呼ぶ機会がなかっただけだよ」
私の髪を手櫛で梳く。その手を思いっきり叩いて頭から退かした。私の叩く力なんかレオンにしてみれば、痒いぐらいの力だ。
叩かれた手を見て、彼は優しく微笑む。
「ふふっ、貴女はやっぱり弱いですね。本当に僕が守ってあげないといけないと思うほどに」
「別に、守ってもらわなくてもいい」
「僕が守りたいだけですよ」
もう一度、レオンは私の髪を梳くように撫でる。その手が気持ちいいと思いながらも、私は必死にその手を頭から退けようとした。
私の手から逃げるかのようにレオンはスッと手を滑られ、まぶたを撫で、頬を撫でる。最後に唇を指の腹でなぞった。
「もう一度、僕の名前を呼んで下さい」
「いや」
「呼ばないのなら僕にも考えがあります」
「……なに?」
両手で肩を掴み、そっと首筋に顔を近付けるレオン。吐息が肌にかかり、くすぐったい。
レオンを退けようと胸を押した時だった。グイッと肩に指が食い込むのではないかと思うほどに肩を掴んでいる手に力が入った。
「れ、おん…はなして」
「巫女以外に誰と会ったのですか?」
「なに、いってるの……」
「答えなさいと言っているのですよ。巫女以外に僕がいない間に会った奴がいるはずです」
どうして分かったのか。私が巫女以外の人、大神に会ったなんてどうして分かったのだろう。
戸惑う私からレオンは離れ、冷たい瞳で私を射抜く。どくんと心臓が鼓動する。彼の蒼の瞳から目が離せない。
「貴女から獣の匂いがします。気に食わない」
「れおん…?」
「貴女は僕の匂いだけを漂わせていればいいですよ」
邪魔な匂いは消しましょう。レオンはにこやかに微笑んだ。
手を伸ばし、レオンは私の頬をまた撫でる。そのぬくもりが温かくて、レオンの雰囲気は怖いのに私は安心してしまった。