10
レオンの体温が温かくて、私は無意識の内に彼に身を委ねていた。
優しく頬を撫でていた手は、いつの間にか唇に触れている。指で唇の形を確かめたり、感触を確かめたりしていた。
「貴女から僕以外の匂いがします」
「……貴方の気のせいじゃないの」
匂いは分からないが巫女以外の人に会ったのは本当だ。どうしてレオンは気付いたのか知らないが、会ったことを彼に言うつもりはない。いや、言っていいのか悩んでしまう。
あの隠された道から入ると大木があり、そこは綺麗な空気が漂っていた。そのにいた大神。大神は私の隣人だったんだ。
そのことを言っていいのだろうか。でも、大神は誰にも言うなと言った。
大神との約束を守るか、それともレオンに言うか。私はまだ決めかねていた。
「貴女に苛立ちを覚えます」
唇に触れていた手は私の喉元に添えられていた。優しく首に触れるので締められる心配はない。
なのに、どうしてなのだろうか。今にも首が締まりそうな気がして恐ろしい。
「貴女から匂う嫌な匂いは消しましょうか」
クスッと笑みをこぼす。その笑みがやけに綺麗だったので私は見惚れてしまっていた。
首に添えていた手は腕を掴み、強引に引っ張りながら歩き出す。歩いている途中で転けそうになった時にレオンは私をお姫様抱っこで部屋まで運んだ。
部屋に着いたらレオンは私をソファへ丁寧に降ろし、脱衣所に向かう。
しばらくすると帰ってきたレオンはソファの前の床に座り、ソファに座っている私を見上げた。
「……貴方は何がしたいの?」
「僕がしたいことはただ一つですよ」
わからないのですか?と言いたげな口調でレオンは言葉を発する。
分からない。分かるはずがない。レオンが何をしようなんて想像もつかない。だけど、嫌なことが起こりそうな予感がする。
レオンはまた私を抱きかかえる。じたばたと動くが、離さないと言わんばかりに彼は私をギュッと強く抱き込む。
「暴れても一緒ですよ」
妖艶に微笑むレオンに私は何も言えずに黙り込む。じたばたしていた体は彼の言葉で抵抗することを諦めていた。
それでも、私はレオンの思い通りになると思われたくないので最後の気力を振り絞って睨み付けた。そんな私をレオンは楽しそうに見つめていた。
レオンに抱きかかえられ着いた先は浴槽だった。今にも溢れそうなほどお湯が溜まっている。
「なに、するの?」
声が震えているのが自分でも分かる。
貴女ならこれからすることは分かりますよね?とレオンは囁く。ぶるりと体が震えた。
「まさか、その……」
浴槽に私を入れるのではないのか。そんな言葉を遮るようにレオンは浴槽の端に座る。ゆっくりと体を浴槽に浸かっていく。
熱いぐらいのお湯が私の体を服ごと濡らす。勿論のことだが、レオンの服も濡れていく。
「気に入らないのですよ。貴女が僕以外の匂いを漂わせているのが」
にっこりと微笑んでいるのにどこか冷気を帯びている。お湯は熱いぐらいのに寒い。ガタガタと全身が震え出した。
「いやっ、自分で風呂ぐらい入れる!」
「何を言っているのですか。貴女は本当に馬鹿ですね」
浴槽の中でレオンは私の首元にそっと手を添える。優しく何度も首を撫でた。
彼から逃げようとするが、それは叶わないことだった。お湯を吸った服は重くて動かないことは勿論のことだし、彼の手から逃げられるほど彼は甘くない。
「僕自身が貴女からあいつの匂いを消さないと意味がないのです」
「……え、あいつって」
ぼそっと呟いたレオンの言葉にこんな状態なのに首を傾げた。
あいつというのは狼のことか。いや、違う。大神のことだと私は思った。
フッとレオンは自虐的に笑った。
「貴女は何も知らなくていいのです。何も知らずに、僕に囚われて下さいね」
「……ぁっ、れお、ん」
首元に添えられていた手にグッと力が入る。喉に指が食い込み、息が出来ずに苦しくなる。
力を振り絞ってレオンの手を退けようとするが、彼の手に自分の手を添えることが精一杯だった。
「貴女は酷い方ですね」
「……ぁ」
酷いのはどっちだ。そう言いたいのに口から出る声は苦しそうな声だけ。
瞳から苦しくて溢れてくる涙。全身はずぶ濡れで、髪は肌にへばりついている。他人から見れば変な恰好だろう。
そんな私を瞳に映し、スッと目を細める。
「もう少し、あともう少しだけ首を絞めたら貴女は死ぬのですね」
レオンは首を絞めたままお湯の中に私の全身を浸からせる。浴槽の床に私の体を押し付け、彼は無表情で私を見下ろす。
苦しくても目を瞑ることはせずにレオンを見つめていると、首から手が離れた。勢いよく息を吸おうとするが、口に入ってくるのは空気ではなく、お湯だ。
何度もお湯を飲み、気持ち悪い。それに呼吸も出来ない。喉に手を当てるが特に意味を持たないと思い、私は縋るようにレオンに手を伸ばした。
無表情で私を見下ろしていたレオンは私に優しく微笑む。私の伸ばした手を掴み上げ、私を抱き締める。
頭がお湯の中から出たことで口に入ったお湯を吐き出す。何度も噎せながら吐き出し、その際に息を吸う。
「はぁ……っ」
優しく背中を撫でるレオンはどこかしら満足気味だ。そんな彼に抱き締められているまま、睨み付ける。
何か一言だけでも言ってやりたいが気力がない。髪や服は肌にへばりついていて気持ち悪いし、お湯を飲み過ぎて気分も優れない。
「りいな……貴女は僕のものです」
顔にかかっていた髪を払われ、私はレオンの顔をちゃんと見た。彼は微笑んでいるというのに、辛そうだった。
そんな表情を見せられると怒ることは出来ない。私は単純なのだろう。単純で馬鹿なんだ、レオンが言うように。
「レオン」
そっと力を振り絞って腕を伸ばす。レオンの頬に手を添え、私は出来るだけ笑えるように口角を上げた。
ちゃんと笑えていただろうか。私はあの日から両親が死んだ日から笑えてなかったから。
「やっぱり、貴女は馬鹿です。さっきも言いましたよね、貴女は大きな間違いを犯していると……」
ぎゅっと私を抱き締めている手に力が込められる。離さないと、いや違う。もう離せないとレオンは言っている気がした。
「私は自分で自分のことを決めているの。それが貴方の言う間違いでも、私が決めたこと」
「貴女は単純で馬鹿で、どうしようもない人なのですね」
ぷいっとレオンの言葉に顔を逸らすと彼は微かに笑い声を出しながら、私の背中を優しく撫でる。
その手付きは優し過ぎて残酷だ。どんなに怒っていても優しくされると絆されてしまう。
「私は貴方のことなんか、大っきらいなんだから」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。そうしないと駄目な気がしたからだ。
ぽたりとレオンの髪から雫が頬に落ちる。そのまま滑り落ちて、浴槽に波紋が広がった。
「僕は貴女のことが好きですよ」
どんな表情でその言葉を言ったのか、顔を逸らしていた私には分からない。けれど、彼の囁く声は酷く甘かったことは分かった。
「……なんの冗談よ」
その言葉を紡ぐのが私の精一杯だった。
レオンはふふっと笑みをこぼし、私を更に抱き寄せる。背中を撫でていた手はいつの間にか頬を撫でていた。
小さく深呼吸をしてから、やっとレオンの顔を見れるようになったので彼を睨み付ける。
「僕は冗談なんか言いません」
「嘘つき。貴方はいつも嘘ばっかり言うくせに」
「ふふっ、そうですか。でも、貴女はそんな嘘を信じるのでしょう?」
何の核心を得て言ったのか知らないが、レオンは自信満々に笑みを浮かべた。
彼を睨み付けたまま、腕から逃げ出そうと胸を押す。だが、彼は退くどころか更に私を抱き寄せた。
「信じるわけない」
嘘だと分かっていて信じるはずがない。なのに、私はレオンのことを信じ始めていると実感していた。
彼は、レオンは私が信じ始めているのを知って馬鹿にしているのだろうか。少しだけ心が痛みを訴えた。
「そろそろ上がりましょうか。これ以上、服のままで浸かっていると貴女が風邪を引いてしまいます」
私ごと浴槽から出て、レオンはどこからかタオルと新しい服を私に渡し、そこから出て行った。
タオルで体を拭くこともせずに、その場に座り込む。泣きそうになるのをグッと堪え、タオルを握り締めた。
「もう……」
この場を出て行った時のレオンは私の方を一度も見なかった。いつもは嫌なぐらい笑みを向けているというのに。
それにレオンは自分の言葉を嘘だと否定しなかったんだ。私に向けた言葉は嘘だということなのか。レオンを信じ始めている私は馬鹿なんだ。
痛みを覚えた心は更に痛みを訴える。どうしようもない痛みが言葉を紡ぐ。
「もう……帰りたい」
もう、どこにも私を待っている人はいないのに気付けばそんな言葉を発していた。
ふと思い出すのは優しいが冷たい手をした大神だった。




