08
レオンがいなくなると部屋が広く感じられた。それにすることもない。部屋から出ても同じような造りの廊下を迷子にならずに歩けるわけもない。
何もすることがなく、窓から外の森を眺める。ただ、ぼーっと深い森と流れゆく空を見つめていた。
何時間が経過したのだろう。いや、もしかしたらまだ数分しか経ってないのかもしれない。
いやけに時間が経つのが遅いと思った時だった。私は首を傾げ、まばたきを何回かする。窓から見える森の前を目を凝らして見た。
「いぬ?」
自分で出した答えに首を振る。窓から見えるものは犬よりも大きい。だが犬みたいだ。
昔に図鑑で見た覚えがある。あの時は格好いいと本物を見てみたいと思ったものだ。
ここは異世界だ。まだ見たことはないが魔物や魔族がいる世界だ。森の前にいる生物ぐらい普通の森にいくらもいるだろう。
私は純粋に暇つぶしのために森の前にいる生物を観察をし始める。だが、動かない。ジッと私の方を向いて動かない。
「うーん。ここから、外に出られるかな?」
窓の下を見ると、地面は近い。なら、そこから外に出られる。
窓枠に足をかけ、地面へと降り立つ。窓は大きいので簡単に外へと出られた。
私は生物がいる森の前へと行く。犬よりも格段に大きくて、深々とした漆黒の艶やかな毛。きっとこの生物、いや獣は高貴なものなのだろう。
「近くで見ると凄く大きい」
目の前までに来た私はこの獣が動かないことを良いことにすぐ近くで観察する。
しばらく経った時にピクッと顔を森の方に向けた。だが、すぐに私の方を見る。何か言いたげな瞳で私を見たまま、獣は動き始めた。
付いて来いと言っているのか。少し進んでは私の方を見て少し進む。
気になり始めた私は獣に付いて行くことにした。
獣は神殿を囲んでいる森を一周するかのように何かを探すように森の前をゆっくりと進む。そして、ある森の入り口に来た時にピタリと止まった。
「ここって…」
この森の入り口は見覚えがある。他の入り口とは違い、草や木が道を隠しているところだ。
確か、ここからは森に入っていけなかったのではないか。入ったら探せなくなると言っていた。
獣は私をしばらく見つめた後、その入り口から森へと入っていく。まるでその入り口から森へと案内するように。
迷い無き獣の足並みに戸惑っていた心はなくなり、好奇心だけが残った。一歩、入っていけない森の入り口へ足を入れた。
「えっ?」
一瞬の内に景色が変わった。
草や木が道を阻んでいたはずなのに。目の前に広がる道は他の入り口からの道と変わらないではないか。
数歩前に先に入り口へと入った獣がジッと私を待っていた。何だか怖くなり、獣の隣に行く。獣は私の心の中の不安を知ったのか、足にそのふかふかした毛をすり寄せた。
「ありがとう」
そっと撫でると更に甘える仕草で私にすり寄ってきた。
また、しばらく道なりに歩くと、深くて薄暗かった森の奥から光が漏れた。
きらきらと木々の間から漏れる光は森の中で一番広い場所に注がれていた。その中央にあるこの中でも一番大きいと言っていい大木に注がれている。
「すごい」
「気に入って頂けたのなら、光栄だ」
「……え?」
さっきまで私と獣しかいなかったはずなのに、私以外の人の声が聞こえた。獣は勿論のこと話せるわけもない。口調からして、まずレオンでもない。
一体誰なのだろうと、声が聞こえた方を見る。大木の根元に座っている人物がいた。
深い漆黒の髪を肩まで伸ばし、鋭い漆黒の瞳で私を射抜く。
「だから言っただろ。夜道には気を付けなって…なぁ、お嬢ちゃん?」
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
私はこの大木の根元に座っている男性を知っている。
でも、なぜここにいるのか。ここは異世界ではないのか。本当はここは異世界ではなく、元いた世界なのだろうか。
いつの間にか、隣にいた獣はいない。それさえも気にならないぐらい男性が気になった。
男性はどっからどう見ても、あのボロアパートで私の隣の部屋を借りていたあの人だ。
「どうして……ここに」
「どうしてと言われても、俺が元々こっちの世界の住民だとしか言えないなぁ」
「こっちの世界の?」
頷く代わりに男性は口角を上げる。
肯定をした男性に私は意味が分からなくなった。
男性は元々こっちの世界にいて、私のいた世界に来て、また戻ってきたというのか。なら、私がいた世界に私は帰れるのでないのか。
私の見え透いた考えを読んだ男性は言葉を紡ぐ。
「お嬢ちゃん、残念だがお前は帰れない」
「どうして、どうしてですか…貴方は私がいた世界にいたのに」
「それはお嬢ちゃんがいたからだ。お前がいたから、俺は向こうの世界に行けた。お前は……」
私が何だというのか。目の前に来た男も私に何をしろというのか。
こっちに来てから脆くなった涙腺が緩む。ここでは泣いたら駄目だと堪えるが、優しくポンポンと頭を撫でる手付きに雫が零れ落ちた。
男性は申し訳無さそうに私を見つめる。
「お前に最低と言われるのを覚悟で言うが、俺はお前が来てくれて嬉しいと思っている。正直、今だって気が緩んだら嬉しくて笑ってしまいそうなんだ」
男性の言葉に何も言わずに、頭を撫でている手を退かし、睨み付ける。
最低と罵るのは簡単だが、私はその言葉を目の前の男性に言えなかった。それは男性が愛しそうな瞳で私を見ていた所為かもしれない。
「おおかみさん…あの、大神さん」
「おおかみさんかぁ。なかなか良いと思ってたけど、やっぱりお嬢ちゃんからは名前を呼ばれたくなるなぁ」
「名前ですか?」
「ん、大神ってのは向こうで生活するために付けただけだしな」
腕を組み、何か考え事をして深くため息を吐き出す。くしゃくしゃと自分自身の髪の毛を掻き「あいつがなぁ」と呟いていた。
意味が分からずに首を傾げている私を捉えると大神は真剣な面立ちになる。
「ここで俺と会ったこと、誰にも言うなよ」
「え、うん」
あまりにも真剣な瞳で顔でそう言われたら頷くしか選択肢は残っていなかった。
私が頷いたことが分かると大神は笑みを浮かべ、また私の頭を撫でる。彼は頭を撫でるのが好きなのだろうか。前から私に会ったら必ずと言っていいほど撫でている。
「そういえば、さっき俺に何を言おうとしてたんだ?」
「あっ、そうです。なんで、私がこの世界に来たのが嬉しいんですか?」
「さぁな」
「さぁなって、それはないです!」
自分で考えろ、と大神は私の髪をわしゃわしゃとかき乱し始めた。それを止めようと彼の手を掴んだ。
さっきは分からなかったが、あの時と一緒だ。誕生日に大神の手を触った時と同じだった。彼の手は冷たい。
掴んだ手を見つめるが、大神はそれを許さなかった。バッと私の手から抜き取り、それを触れられたくないように微笑む。
「俺さぁ、前も言ったけど冷え症なんだ。ほんと、温めてくれていいんだぜ?」
「……いやです」
「そう言わずに、なっ?」
冷たい手が伸びてきて、私の頬をそっと撫でる。すぐにそれは離れたが頬には未だに冷たい感触が残っている気がした。
大神は冷たいだろ?と言いたげな顔で私を見てくる。何か引っかかりを覚えたが、それはきっと気のせいだと思うことにした。彼は自分で言うように冷え症なだけだと。
「ん、どうした?」
「あ、この子」
消えたと思っていた獣もとい狼は私達の間に挟まるように入り込む。すりすりと私の足の方に全身をすり寄せ、甘える仕草をする。
それが可愛くて、私の腰の高さまである狼を撫でた。こんなに大きいのになんて人懐っこいのだろうと。
「お前……」
狼を見ながら大神は呆れたようにため息を吐き出す。それに反応したのか、ピクリと大神の顔を見上げた。
「ん、時間か。お嬢ちゃん、来た道を真っ直ぐ帰るんだ。こいつも一緒に行くが、迷うんじゃねぇよ?」
「迷うんですか?」
「あぁ、迷う。まぁ、迷っても俺が探してやるよ」
だから安心しな。そっと背中を押され、森を後にしようとする。その言葉だけがやけに耳に残った。
ふと気が付くと、森の入り口まで戻ってきていた。そこは入ってはいけないと言われた森の入り口ではない。普通の入り口みたいだ。隣にいた狼も今はいない。
入ってはいけない森の入り口を見つけようと辺りを見渡すが、見つけることは出来なかった。
あの入り口は何なのだろうか。
レオンは入ったら探せないと言った。なのに、大神は探せると言う。
その差は何なのか。今の私には全く分からないことだった。