第13話 振り回された一日の終わりに金髪美女に抱きしめられた
クラブを出たアンジェリーナは、真一の腕にしがみついた。
「もう一軒、付き合って」
「帰ろうよ」
「ダメ」
繁華街を抜け、大通りを渡り、ホテルの前に着いた。高級そうなホテルだった。
エレベーターで最上階に上がると、ラウンジがあった。
クラブとは別世界だった。照明は暗いが落ち着いている。奥からジャズピアノの音が流れてくる。客は少なく、みな静かに酒を飲んでいる。
カウンターに座ると、一面のガラスの向こうに夜景が広がっていた。ビルの光、道路を流れる車のヘッドライト、遠くに見える観覧車。きらびやかすぎて、真一には現実に見えなかった。
女性バーテンダーがグラスを磨いていた。アンジェリーナを見て、軽く頭を下げた。
「いつもの?」
「お願い」
ここも常連らしい。
バーテンダーはシェイカーを振り始めた。氷とステンレスがぶつかる小気味よい音がジャズに混ざる。
真一の前にオレンジジュースが置かれた。頼んでいないが、年齢を見ればわかるということだろう。
アンジェリーナはカクテルを一口飲んで、ため息をついた。肩の力が抜けたように見えた。クラブにいたときとは別人だ。
しばらく黙って夜景を眺めていた。
ふいに、アンジェリーナがカウンターに顔を伏せた。腕を枕にして、横顔だけが真一のほうを向いている。
その手が伸びてきて、真一の頭に触れた。
「なっ……何?」
髪をくしゃくしゃと撫でられた。真一は手を払った。
「やめてよ」
アンジェリーナは聞いていない。また手を伸ばしてくる。真一がよけると、追いかけてくる。三回払って、四回目であきらめた。されるがままになった。
「やさしいね」
アンジェリーナが言った。顔を伏せたまま、真一の頭を撫でながら。
「帰ろうよ」
今日何度目かわからない言葉を、真一は言った。
「ダメ」
今日何度目かわからない返事が返ってきた。
アンジェリーナは体を起こした。カクテルをもう一口飲んで、真一のほうを向いた。
「私のこと、どう見える?」
「……美しい人」
お世辞だった。
――わがままな外国人――
心の中ではそう思っている。
「嘘だね。面倒な女だと思っているでしょう?」
「そんなことないよ」
――正解――
「でも、今日、一日付き合ってくれた。私を残して帰ることもできたのに。どうして?」
「ママに迎えに行くように頼まれたから」
「そうね」
真一はオレンジジュースのグラスを見つめた。氷が溶けて、薄くなっている。
「でも、他にも理由があったかも」
「何?」
「なぜか、一人にしてはいけないと思ったから」
アンジェリーナは黙った。
グラスの中の氷が、からんと音を立てた。
アンジェリーナはまたカウンターに顔を伏せた。彼女の肩が微かに震えたように見えた。
しばらくして、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと……トイレ」
足元がふらついた。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫」
アンジェリーナは店の奥に消えた。
◇◆◇
ジャズピアノの曲が何度も変わった。
真一はオレンジジュースを飲み干し、新しく出されたグラスにも手をつけた。
アンジェリーナはまだ戻ってこない。
心配になって、店の奥に向かった。
女性用トイレの前に立ち、ドアを叩いた。
「アンジェリーナさん? 大丈夫?」
返事はなかった。
しばらくして、ドアが開いた。
アンジェリーナが立っていた。
何も言わず、真一の腕を掴んだ。
「歩ける?」と聞くと、アンジェリーナは小さくうなずいた。
真一が戻ろうと振り返った瞬間、後ろから抱きつかれた。
アンジェリーナがかすかに震えている。
香水と、かすかにたばこの匂いがした。
アンジェリーナは壁にもたれるようにして、そのまま座り込んだ。
真一は抵抗せずに抱きつかれたまま座り込む。
アンジェリーナは真一を後ろから抱きしめた。
真一はされるがまま、黙って一緒に座っていた。
そのまま、時間が止まった。
◇◆◇
どれくらい経ったのかわからない。
足音が近づいた。
「そろそろ、お帰りになったほうがいいのではないでしょうか」
女性バーテンダーの声だった。穏やかだが、有無を言わせない響きがあった。
アンジェリーナは黙っていた。真一を放さなかった。
「車は下に用意してあります」
真一はバーテンダーを見上げた。
「もう少しだけ……」
自分でも驚いた。でも、なぜかこのままでいてやりたかったし、このままでいたかった。
バーテンダーは一瞬だけ目を細めた。それから、静かに言った。
「ダメです。美夜子様が心配します」
アンジェリーナの体が、びくりと動いた。
舌打ちが聞こえた。
「……わかったわよ」
真一は頭を押さえつけられた。アンジェリーナがふらつきながら立ち上がっている。
真一も続いて立ち上がった。
アンジェリーナは何もなかったように服と髪を整えている。
◇◆◇
エレベーターで降りると、ホテルのエントランスに黒い車が待っていた。
後部座席に乗り込むと、アンジェリーナは窓にもたれて外を眺めた。
車が走り出した。繁華街のネオンの光が車に次々と差し込む。
いつの間に眠ったんだろうか、窓ガラスに彼女の寝顔が映っていた。
真一はその寝顔を見ながら、今日一日のことを振り返った。
スパの前でアンジェリーナを待ったこと。
アンジェリーナの試着に付き合ったこと。
クラブの前でアンジェリーナを待ったこと。
「バカね」と言われたこと。
頭を撫でられたこと。
抱きしめられたこと。
今日一日中、アンジェリーナに振り回された。
でも、よかった。
こんなに幸せそうに眠っているんだから。
窓ガラスに映った寝顔は、子供のようだった。




