第31話 悪役令嬢の再来
最初の兆しは、新聞だった。
「……これを」
マリアが差し出した王都発行の新聞は、いつもより紙質が良い。安く刷って配るための紙ではなく、残して読ませるための紙だ。意図的だった。
見出しは大きい。辺境連合の実態。冷酷な税制改革の裏側。
私はゆっくりと目を通した。
「……巧妙ですね」
記事は嘘ではない。だが、切り取り方に悪意がある。税の再計算で苦しむ旧貴族、急激な構造改革に戸惑う商人、中央に反旗を翻す危険思想。事実を並べながら、結論だけを読者に選ばせている。
「王都で広がっています」マリアの声が硬い。「連合の参加領地にも、届き始めています」
午後、南方領から書簡が届いた。最近の王都報道について説明を求む、とある。説明を求めるということは、つまり不安だということだ。
「効いたな」
ヴィクトールが低く言った。
「価格戦争より、厄介です」
私は新聞を閉じた。数字で殴られたなら数字で返せる。だが、これは数字では否定できない。
夕刻、市場に足を運んだ。人々は以前と同じように動いている。荷を運び、値を交渉し、笑っている。ただ、私に向く視線だけが違った。
「……あの人が」
「王都と揉めてる領主だろ」
小声だった。だが、聞こえる位置で言われている。
「冷たいって噂だ」
胸の奥が、わずかに重くなった。数字なら反証できる。帳簿を開いて、突き合わせて、合わないところを指させばいい。だが噂は、開く帳簿を持っていない。
執務室に戻ると、マリアが言った。
「……反論記事を出しますか?」
私は首を横に振った。
「感情で否定すれば、印象はかえって強まります」
「では、どうすれば」
沈黙。私は、初めて言葉を探した。
「……分かりません」
マリアが驚いた顔をする。私が迷う姿を、彼女はほとんど見たことがないはずだ。
数字で戦うなら、方法はある。制度で戦うなら、手は打てる。だが。
「“印象”は、数字では崩せません」
夜、一人で机に向かった。新聞の見出しが、消えずに頭に残っている。悪役令嬢。その言葉は、あの日の謁見の間を正確に呼び戻してくる。
事実は関係ない。物語が先に作られ、人はそちらを覚えていく。
窓の外から、声が聞こえた。
「領主様!」
振り返ると、リリアが立っている。
「どうしたのですか」
「……王都の噂、聞きました」
小さな拳を握りしめている。
「でも、あたしたちは知ってます。ここが良くなったの、領主様のおかげだって」
その言葉に、胸が締めつけられた。この子は税を取られる側にいて、それでもこの半年でいちばん背が伸びた。私が守ったと言えるものがあるとすれば、たぶんそこにしかない。
「噂なんて、勝手に言わせとけばいいです!」
強い声だった。だが、少し震えている。
私はゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう、リリア」
そう言いながら、思う。――私は、守れているのか。
経済は守った。構造も守った。だが、人の心は。
翌日、連合の一領地から正式な問い合わせが届いた。王都との関係悪化は連合に不利益をもたらすのではないか。
「揺れている」ヴィクトールが机に拳を置く。
「ええ」
私は静かに答えた。そして、初めて確信が揺らぐのを感じていた。私は合理的に正しい。だが、それだけで足りるのか。
机の上に、白紙を一枚置く。
悪役令嬢。あの日、王都が私に貼った札だ。剥がそうとして剥がれなかったし、剥がしてくれる人もいなかった。
数字ではない。説明でもない。別の言葉が必要だった。
その名を、どう使うか。
白紙は、白紙のまま夜を越えた。書く言葉が無かったのではない。書いてしまえば、もう合理だけでは戻れないと分かっていた。
呼び名一つで、結んだばかりの手はほどけます。




