第29話 切り札
「王都銀行は、無敵ではありません」
静かな声だった。執務室の隅で帳簿をめくっていた少女――セルマ・グレイナーが、この日はじめて自分から口を開いた。
マリアが視線を向ける。ヴィクトールは腕を組んだまま黙っている。
「説明を」
私が言うと、セルマは一枚の紙を差し出した。
「王都銀行の資金循環構造です」
細かい数字と矢印が並んでいる。資金の流れ、貸付先、回収率。ひと目で分かる図ではないが、読める者が読めば全部書いてある種類の紙だった。
「……どこから?」
「公開資料と、過去の勤務記録の記憶です」
彼女は淡々と続けた。
「王都銀行は、辺境を軽視しています。ですが、完全に切ることはできません」
「なぜだ」
ヴィクトールが問う。
「担保です」
セルマは即答した。
「辺境領地の税収予測が、王都銀行の信用裏付けの一部になっています」
沈黙が落ちた。私は、その意味を言葉にする。
「つまり、我々の黒字予測が、向こうの信用にも組み込まれている」
「はい。急激に悪化すれば、王都銀行の帳簿も揺れます」
「……だから価格戦争も短期で止めたか」ヴィクトールが目を細める。
「可能性は高いです」
私は机に指を置いた。締め上げに手加減があったのは、優しさではなかった。
「切り札は?」
セルマは、さらに一枚の資料を出した。
「公開報告です。黒字予測の精査報告と、王都銀行の融資停止が辺境経済に与える影響」
マリアが息を呑む。
「公表するのですか?」
「はい」
セルマの声は揺れなかった。
「王都銀行は、信用を武器にしています。ならば、その信用を可視化すればいい」
「銀行の名前を出すのか」ヴィクトールが低く笑う。
「断定はしません」私は冷静に言った。「“影響分析”として出します」
攻撃ではなく、分析。書き方一つで、同じ数字が別の意味を持つ。
三日後、クラウゼン領は正式な経済報告を公表した。黒字転換の内訳、王都の融資停止による商取引の減少率、価格戦争の影響。数字だけを並べ、感情は一行も入れなかった。
だが、隣接する領地から問い合わせが来た。王都銀行の審査強化は、そちらでもあるのか。価格変動は本当か。
波紋が、静かに広がっていく。
「……広がっています」
マリアの報告に、セルマが静かに言った。
「王都銀行は、信用が命です。疑念が広がることを、何より嫌います」
二日後、王都銀行から再通達が届いた。クラウゼン領への融資審査基準を見直す。
「……戻した」ヴィクトールが目を見開く。
「完全ではありません」
私は資料を確かめた。それでも、明確な緩和だった。
「切り札ですね」
マリアが小さく笑う。セルマは無表情のまま言った。
「銀行は損を嫌います。そして評判を、もっと嫌います」
沈黙のなかで、私は彼女を見た。
「あなたは、復讐をしているのですか?」
一瞬、空気が変わった。
「いいえ」
彼女は即答した。
「構造を、正しているだけです」
嘘ではないと思う。ただ、その奥に熱があるのも確かだった。
ヴィクトールが深く息を吐く。
「……これで金融は揺れた」
「はい」
私は帳簿を閉じた。塩が七割、鉄が七割弱、そして金融は六割台へ。数字が、少しずつ動いている。
まだ完全な勝利ではない。それでも、王都は初めて守勢に回った。
窓の外、市場の灯りが確実に戻っている。
守勢に回った相手は、たいてい一度だけ、割の合わない手を打つ。
それが何かを、私はまだ知らない。
一人で立つのをやめる相手が、南から現れます。
――切り札の出し方に痺れた方、評価で教えてください。




