066話 Feat.ユリ
川の音は、すぐ足元から聞こえていた。
我は慎重に足場を選び、なだらかな川辺へと静かに降り立つ。
そのまま、腕に抱えていたスレスを、足元の柔らかな草の上へと下ろした。
「今日は、随分と遠くまで来ましたね」
スレスが言う。
「うむ。身体を清めたかったからな」
日中、我らは数え切れぬほどのゴブリンを引き裂いてきた。
血肉は肌や衣服に飛び散り、それらは、濡れ布で拭う程度では到底落ちぬ。
シンやレイはローブや外套を身にまとっておるゆえ、汚れも目立たぬかもしれぬが、我はそうもいかぬ。
我が身を包むこの深紅の衣は、服ではなく、我が血肉そのものであるゆえにな。
「え、ちょっ……」
何やら戸惑いの声が聞こえたが、知らぬ。我はこの衣ごと、静かに川へと身を沈めた。夜の川は冷たかった。
「な、何してるんですか!?」
「スレスは気にせず、自らのことをやれい」
何をそれほど驚いているのか、理解に苦しむ。周囲に敵の気配などないことは、彼女とて察していよう。
我は身に纏った深紅の衣を解き、肌に染み付いた匂いと汚れを丹念に洗い落とした。
やがて、スレスの視線を感じなくなった。
水辺から彼女のいる方へと目を向ければ、彼女は何やら、小さく口を動かしているようであった。
次の瞬間、火の手が上がった。
彼女の目の前に、ふわりと、小さな焔が灯ったのだ。
我は思わず目を見張り、身に何も纏っていないことも忘れたまま、その場で立ち上がってしまった。
「……魔法、使えたのか?」
我が声をかけると、声をかけられるとは思っていなかったのか、スレスは肩をびくりと震わせた。
「あ、あの本に書いてあったんです。火属性の魔法の基礎で、生活に使うのに便利なものだから、使えるようにと……」
本を読んだだけで、それが為せるというのであれば、人類種のすべてが魔法を用いていてもおかしくはなかろう。あくまで直感の域を出ぬが、彼女には、才があるのではあるまいか。
「そ、それより、そんな綺麗な身体をそのままにするのはダメです!
服を着てください!」
思わず声を上ずらせながら、スレスがそう言った。
「む? なんだ、気になるのか……」
我は彼女の言葉に小さく首を傾げ、再び静かに水中へと身を沈めた。
見られたところで、減るものでもなかろうに。スレスから視線を外し、我は再び川面へと目を向けた。
ばしゃ。
片腕だけを水中から引き上げると、滴が川面へと静かに落ちていった。
ぱしゃ。
脚先で水面を軽く叩く。本当に、ただ触れた程度のものだ。
深い意味も、理由もない。ただ、少しばかり水に戯れてみたくなっただけのことだ。
だが、それは当然ながら何も起こさぬ。
強いて言えば、さざ波をひとつ立てただけであろう。
それでは、さすがにすぐ飽きる。
「ユリ様?」
水面の外から、スレスの声が届いた。
見ると、彼女の手には、自身の背丈ほどもある長い木の枝が握られていた。
「終わったのか?」
「いえ。ただ、あまりにお暇そうだったので」
「否定はせんが、貴様は自らのことをしておればよかろう」
そもそも、スレスが学んだ技術の実践のために、我らはこの夜の時間を設けている。
我が暇を持て余しているのは、ある意味当然のことであろう。
「それは、そうなのですが……」
スレスは、何やら言い淀むように視線を彷徨わせていた。
「何を迷っておる」
気づいてしまった以上、声を掛けずにいるのは、我の性には合わぬ。
「あ、あの……っ!」
スレスは我の方へ、思わず身を乗り出した。
「んぬ?」
「なぜ、ここまで目を掛けてくださるのですか!?」
その瞳は、真っ直ぐに我を射抜いていた。
どうやら、本気で不思議に思っているらしい。
「我も、かつてそうされたから、であろうな」
「でも、ユリ様はお強いでしょう? 私のように、何もできないわけではないのに……」
言われてみれば、確かにその通りかもしれぬ。
我は彼らに救われるよりも前から、神の一柱を屠れるほどの力を有していた。今もなお、それに大きな変化はない。
「だから、ずっと不思議で。なぜ、経験もないのに、匿うだけで面倒事が増える私なんかに、ここまで時間を割いてくださるのかなって……」
「それは、救ったつもりになりたくないから、であろうな」
以前にも、似たようなことを言った気がする。あるいは、言葉にはせず、ただ心の内で思っただけだったかもしれぬ。
だが、我は常々そう考えている。ただその場の困難を取り除いただけでは、自らの行いに責任を持ったとは言えぬだろう。それでは只の自己満足だ。
「でも、救ってくださいましたよね?」
どうやら、彼女は我の言葉の意味を理解していないようであった。
それはそれで構わぬ。力を振るう者と、力を振るわれる者とでは、見ている世界もまた異なるのだろう。
「理解できぬのであれば、理解せずともよい」
我はそっと視線を外す。
「さっさと、自らのことを続けたらどうだ?」
「あ、はい……そう、します」
スレスは静かに水辺を離れていった。
その背を目で追えば、手にした枝を振るい、剣術の型のような動きを繰り返していた。
……もしや、剣を持たせてやった方がよいのだろうか。後ほど、レイに相談してみるとしよう。
そんなことを考えている自分に、少しばかりやり過ぎではないかとも思った。
確かに、我は彼女に肩入れし過ぎているかもしれぬ。気まぐれにしては、どうにも理屈が合わぬ。
……ふむ、なぜであろうな。
わからぬ。考えるだけ、愚の骨頂というものか。
我はスレスから視線を外し、そのまま、星のまたたく空へと目を向けた。
この暮らしは、悪くはない。
彼らと出会い、ともに歩き、言葉を交わし、人々と触れ合い、好きなように夜を歩くことができる。
こうして、川の水に身を鎮めることすら許されている。
……できることなら、このまま、ゆるやかに続いてくれればと思った。




