065話 Feat.ユリ
「……あ、帰られたのですね」
我がスレスの前に立つと、彼女はそっと顔を上げてそう言った。その手元には、先ほどレイより受け取った本が広がっている。眼鏡の奥の瞳には、まだ熱の残る読書の余韻が滲んでいた。
強くなりたいという意思は、確かに根を張っているようだ。
「うむ。腹が減ったろう。食うか?」
我は、紙袋を軽く持ち上げて見せるように差し出した。
「ありがとうございます。でも、私は後で大丈夫です」
「ふむ。そうなのか?」
朝から夜まで、何も口にしておらぬはずだが……。
「もう少しこの本を読み進めたいので」
どうやら、今は区切りが悪いらしい。
「ふむ、わかった」
彼女は静かに部屋を見回し、シンとレイの姿を認めると、控えめに会釈をした。
それから、何事もなかったかのように再び本へと視線を戻す。……自分を変えようとしているのが、よくわかった。
我は小さく息を吐き、彼女の前からゆっくりと歩みを返す。
静かな灯りに照らされた部屋の中を、足音を立てぬよう、寝台の方へと向かった。
視線の先では、レイが既に腰を下ろしていた。その隣に、シンの姿もある。
「これは返す」
我はレイの傍に立ち、食事の袋をそっと差し出した。
「旦那様、食べますか?」
「そうだな。先に食べようか」
レイは隣にいたシンへ袋の口を開き、そっと差し出す。
我は、そんな二人の向かいにある寝台へと腰を下ろした。
だが、彼らの纏う空気に言葉を差し挟む気にはなれず、ただ静かに身を傾け、そのまま背を預けた。
ふと、我は思った。
ここ一、二日のあいだに、シンの様子が少し変わったように感じられる。
これまでの印象では、時に奇妙な力を振るうことはあっても、交渉事はすべてレイに委ね、己の想いばかりが先走るような──どこか向こう見ずな面が目立っていた。
だが、昨日今日の振る舞いは、それとは異なっていた。自ら言葉を選び、場を進めていたのだ。
その姿は、我が抱いていた彼の「像」とは、少し異なっていた。
表情も、以前より幾分、柔らかくなったように思える。だが、その「柔らかさ」は、もともと彼の内に在ったものが、少しずつ表に現れはじめたようにも見えた。
たしか昨日だったか。レイがシンに甘え、それを見た我が、思わず外へと逃げ出したことがあった。
その時の出来事が、何かしらの影響を与えたのだろうか。男と女が一度でも身体を重ねれば、互いに映る世界が変わっていくこともあるのかもしれぬ。
それにしても、いささか変わり過ぎではないかと、我は思う。
それでも、今の彼らは、少し前の彼らよりも、遙かに幸せそうに見える。
おそらく、レイが以前にも増して、感情を率直に示すようになったからであろう。それに応じるシンの心の動きもまた、どこか真正面からのものに見える。
彼らに救われた身としては、こうして幸福を得ているのは、実に喜ばしいことだ。
我もまた、その在りように、ささやかな安堵を覚える。ゆえに、それを揶揄するような真似は、我としても避けるべきであろうと思う。
……少しだけ、羨ましくもあるがな。
「ユリ、要らないのですか?」
寝転んでいた我の顔の前に、レイが袋をそっと差し出してきた。
「うむ。もらおう」
我は身を起こし、袋の口を開いて、中から一つのパンを取り出した。
手にしたそれは、香草を練り込んだ素朴な焼きものであった。表面には薄く粉が残り、ところどころに焦げ目が浮かんでいる。温もりはまだ僅かに残っている。
一口かじると、淡い甘みとともに、草の香りが舌に触れた。生地は少々粗いが、口内で不快なほどではない。水分も保たれており、焼きたてからそう時間は経っていないのだろう。
静かな部屋で、温かな食べ物を口にする。ただそれだけのことが、思いのほか、意識の輪郭を落ち着かせる。
「ユリは、今日も外に出掛けられるのですか?」
レイがそう問うた。
「スレスに付き合おうとは思っておる。何かあったのか?」
スレスが本で得た知識を、実際に試せる場を設けてやる必要がある。
一人で出歩かせるつもりはないし、日中に人目にさらして、無用な注意を引かせるのも避けたい。
「いえ、何も。ただ、念のために聞いておいた方がよいかと思いまして」
「それも、もっともであろうな」
無断で出歩けば、確かに迷惑というものだ。今さらながら、それを思い至った。
「にしても、随分と彼女に入れ込んでいますね」
「そうか?」
その自覚はない。だが、レイの目には、そう映るのかもしれぬ。
「はい。傍から見れば、手間ばかり掛けているようにも見えます」
「それは、否定せぬ」
貴様らが眠ってしまえば、我に残されるのは退屈ばかりだ。
そう考えれば、彼女に付き合うこともまた、手間であると同時に、我にとっての気晴らしとも言えるのかもしれぬ。
「俺は寝る。良いよな?」
我らの会話を隣で聞いていたシンが、欠伸をひとつ、手で押さえながらそう言った。
「すみません。気が回らずに」
レイが静かに詫びる。
「いや、いいよ。そういう時間も大事だろうし、俺のことは気にせずに話を続けてくれ」
彼はすでに、コートを脱ぎかけていた。
「お体を、しっかりと拭かれた方がよろしいかと」
眠る前に、とレイが続ける。
「今日は……そうだな。そうした方がいいよな」
さすがに、あれだけのゴブリンを屠った後では、身を清めたくもなる。
我としても、しっかりと身を洗い流しておきたい。今夜は、街の外まで足を運ぶとしよう。
「であれば、我らは先に外へ出よう。あとは貴様らで過ごすとよい」
我は寝台から立ち上がり、依然として本に没頭しているスレスへと視線を向けた。
「お気遣い、ありがとうございます」
「いや、気にするな。我は、貴様らに居場所を与えられているに過ぎぬ」
そのままスレスの前に立ち、我は彼女が見上げるのを待った。
「……どうしました?」
「今宵も、外で実践するつもりであろう。
彼らの眠りを妨げるのも気が引ける。少しばかり早いかもしれぬが、外に出ようか」
「もちろんです。ユリ様がそうおっしゃられるのであれば」
スレスは静かに本を閉じ、眼鏡を机の上に置いた。そして、ためらいなくその場に立ち上がる。
我は窓辺に近づき、ゆるく掛けられた鍵に指を添え、音を立てぬよう外した。
窓を静かに押し開けると、夜の空気がひやりと頬を撫でる。月光が傾斜のある屋根をなぞり、その端に、夜の色を映すような細い影が落ちていた。
「参るぞ」
我はスレスの腰へと手を回し、もう片方の腕で背を支えて抱き上げた。
スレスは無言のまま、我に身を預ける。
窓の縁に足をかけ、屋根の上へと音もなく移った。
瓦の感触を足裏に確かめながら、月明かりを避けて歩を進める。
夜の街は、沈黙の底にある。風の気配も、遠くの物音も、すべてが淡く、鈍い。
誰の目にも触れぬよう、我らは屋根の影を伝って進んだ。




