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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第五章 〜「街での地位と愛を与える君」〜
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064話

 屋敷の門をあとにして、俺たちは街の方へと歩き出した。


 来たときは職員に案内されるままついてきただけで、道の構造まではよく見ていなかった。街に来てまだ一日と経っていないこともあって、似たような通りや路地ばかりが続く道を前に、俺は足を止める。


「……こっち、だったか?」


 左右に分かれる通りを見比べながら、なんとなく記憶をたどってみるが、どちらも決め手に欠ける。


「レイ、覚えてるか?」


「はい。屋敷から冒険者ギルドまでは、曲がり角を三度右、一度左。あとは真っすぐ南下すれば大通りに出ます」


 レイは視線を道に向けたまま、簡潔に答える。


 俺はふっと息をついて頷いた。


「そっか。なら、案内頼む」


「了解しました」


 それだけ言って、レイは歩き出す。何の迷いもない足取りだった。


「やれやれ……我は全く覚えておらぬぞ」


 ユリが俺の横でぼやく。


「俺も似たようなもんだな。レイにいつも助けられてるよ」


「ふむ。確かに、あの者はこういうところで抜かりがない」


「ああ、ほんと助かるよ」


 少し前を行くレイは、こちらの会話には反応せず、黙々と道を選んで進んでいく。


「ちなみに、ギルドから宿への道も把握済みです。最短経路ではありませんが、迷いにくい道順です」


「ああ、任せる」


 口にした言葉は、驚きというより自然と出てきたものだった。


 レイは普段から細かいところに気がつく。だからこそ、こういう場面で自然に頼れる。


 空はすでに茜色から群青へと移り変わり、通りにはぽつぽつと明かりが灯りはじめていた。屋根の影が長く伸び、街の表情が昼とは異なる静かな輪郭を帯びていく。


 数本の道を抜けた先で、冒険者ギルドの建物が視界に入る。


 ここまで来れば、あとは昨日と同じ道のりだ。


 ギルドの脇を通り抜け、宿へと続く細い路地に入る。


 その途中、通り沿いに並ぶ屋台の前で、レイがふと足を止めた。


「何か買って帰りましょう。宿には、食料の備えがありませんでしたから」


「ああ、そうだな。……スレスの分も要るな」


 俺は一歩下がって周囲を見渡す。通りの角に、いくつもの屋台が軒を連ね、蒸気と香ばしい匂いが空に立ち上っている。鉄板の上で肉が弾ける音、串焼きの脂が滴る音、煮込み鍋からは出汁の香りが広がっていた。


 この街では、日が暮れてからのほうが人の往来が多くなるらしい。屋台の明かりが道を彩り、夜のざわめきが通りに満ちていた。


「今日、一度も戻ってないもんな……。朝からずっと、ひとりで待たせてる」


「彼女の心境を思えば、なおさら配慮は必要であろう。……空腹も、恐れと同じく、心を削るものだ」


 ユリが静かに呟いた。


 レイは軽く頷いたあと、屋台のひとつに視線を留めた。そこでは、木の葉で包んだ蒸し料理がいくつも並べられていた。香草の香りと、ほんのり甘い匂いが鼻をくすぐる。


「これは……見たことがありません。食べてみたい、ですね」


 そう言って、レイは手際よく蒸し包みをひとつ取り上げる。中には鶏肉と刻んだ野菜、もち米を香草と一緒に包み蒸したものが入っていた。外の葉を開くと、湯気とともに素朴で落ち着いた香りが立ち上る。


 レイは続けて、もう一軒の屋台へと足を運ぶ。そこには、焼き石の上で焼かれた平たい団子のようなものが並んでいた。豆とハーブを練り込んだものだという。


「これも良さそうです。スレスには、こういう消化のいいもののほうが……」


 彼女は団子を三つ、煮豆の小皿とともに袋に詰めると、軽く中を整えた。


「私たちの分は、これに加えて……このグリル焼きの肉と、トマトの煮込みを。昨日とは違う味にしておきます」


 レイが選んだのは、スパイスの香りが程よく利いたラム肉の串焼きと、ハーブと根菜を煮込んだトマトソース仕立ての野菜料理だった。


「助かるよ。……全部うまそうだな」


 俺がそう返すと、レイは袋の中を一瞥し、崩れていないかを確認するように手を入れた。少し並びを整えたあと、静かに袋の口を閉じる。


 ユリはというと、選び終えたらしい袋をひとつ抱えて戻ってきた。


「温かいうちに帰りたいな。包みの匂いも良い。……我の鼻に、過剰に訴えてくる」


「もう我慢できないって顔だな」


「無論、食すまでの辛抱である」


 ユリは誇らしげに鼻を鳴らし、紙袋を胸元で抱え直した。


 最後に数個の果物と、風味の良さそうな白湯を買い足し、俺たちは通りを離れた。


 宿の扉を開けた瞬間、熱気と喧騒がどっと押し寄せてきた。


 皿のぶつかる音、笑い声、香ばしい料理の匂い。ちょうど食事時に差しかかっているのか、食堂はすでに本格的に稼働しているようだった。


 入口脇の厨房では湯気が立ちのぼり、給仕の声が飛び交っている。客たちは思い思いに席を取り、賑やかなざわめきが空間全体に広がっていた。


「戻りました」


 レイが受付に声をかけると、店主が手を止めずに軽く頷いた。


 俺たちは脇の階段を上がる。騒がしさを背に、少しずつ静けさのある空間へと戻っていく。


 二階の廊下は、下の喧噪が嘘のように静かだった。


 扉の前まで来ると、ユリが一歩前に出た。


「我が開けよう」


 袋を抱えたまま、彼女はノブを静かに回す。


 中は薄暗く、小さな卓上灯が部屋の隅でかすかに揺れていた。窓際のカーテンの隙間からは、夜の名残がほんのわずかに差し込んでいる。


 スレスは昨日と同様に、椅子の上に座っていた。……が、手持無沙汰といった感じではなく、本と眼鏡をかけて何かを勉強しているようだった。


 卓上灯の光に照らされたスレスの表情は、驚くほど真剣だった。眼鏡越しの視線はページを追い続け、その手元には数枚の紙が挟まれている。


 いずれも、注釈や補足らしき書き込みが見える。


「……スレスは何を勉強してるんだ?」


 ぽつりと疑問を口にすると、答えたのはレイだった。


「強くなるためのお勉強です」


「……強くなるって、剣術とかの話か?」


「それも含まれますが、まずは身体の構造や魔力の仕組み、感覚の鍛え方です。あとは、身を守るための体の使い方や、反応の訓練についても」


 そう言いながら、レイはスレスの背にそっと視線を向けた。


 その表情に、どこか親密な温かさがにじんでいる。


「……ってことは、それ全部……レイ、知ってるのか?」


「はい。あの本は私が貸しました。初心者にも分かりやすく構成されていて、読みづらい部分には注釈を挟んでいます」


「へえ……」


 俺は思わず目を細めてスレスを見た。


 確かに、本の隙間からのぞく紙切れは、丁寧な文字で埋められているように見えた。


 ページをめくる手つきは、まだ慣れていないのかゆっくりだったが、視線には揺るがぬ意志があった。


「レイ、それを借りてもよいか?」


 ユリはそう言って、レイの手から食事の袋を受け取り、そっとスレスの前へと歩み出た。


 気配に気づいたのか、スレスがゆっくりと顔を上げる。眼鏡の奥の瞳が、わずかに揺れていた。


 どうやら、俺たちが戻ってきたことにも気づいていなかったらしい。


「……あ、帰られたのですね」


 かすかに震える声で、スレスがそう口にした。

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