059話
馬車の軋む音が、静かな街道に淡く響いていた。舗装されていない道を進むたびに、車輪は小さく跳ね、荷台に微かな揺れが伝わる。
誰も口を開かないまま、重苦しい沈黙が風と共に車内を支配していた。
レイは腕を組み、まぶたをわずかに伏せていた。眠っているわけではない。思考を深く沈めている、そんなふうに見えた。
斜陽を少しだけ受けていた。相変わらず、綺麗な顔をしていると思う。
ユリは窓の外を見つめていた。風に揺れる草木、空を流れる雲、遠ざかる街並み。その瞳には、感情の色は宿っていなかった。
今回の試験も俺がやると言ったから、ただ付き合っているだけ。そう思えた。
カナメは背筋を伸ばし、視線を動かさず、腰の短剣にそっと手を添えていた。いつでも戦えるように構えている。それが自然と伝わってくる姿勢だった。
大柄な男は、分厚い盾に顎を預けて座っていた。目を閉じてはいたが、不機嫌な気配が体から滲み出していた。
試験官は馬車の前方、御者の隣に静かに座っていた。振り返ることも、声をかけることもなく、ただ黙々と森を目指している。
半刻ほどが過ぎたころ、馬車がゆるやかに停止した。
「到着だ」
試験官の短い声に、全員がほぼ同時に立ち上がった。空気がわずかに引き締まる。
目の前には、木々の生い茂る森の入口が広がっていた。葉擦れの音が風に乗ってさやさやと響き、遠くで鳥のさえずりがかすかに聞こえる。
だが、それだけではなかった。湿った土の匂い、踏み荒らされた草、折れた枝。動物とは異なる、鈍く濁った気配が森の奥から滲み出ている。
俺は一歩前へ出て、剣の柄に手をかけた。
「ここからが本番、か」
呟いた声に、レイが無言で頷きを返す。ユリは黙したまま、森の奥をじっと見つめていた。
「位置の確認をしておこう」
カナメが静かに言った。
「正面から三十メートルほどで道が分かれる。左は丘を越えて谷へ、右は林の奥へ続く。目撃情報があったのは、右の道だ」
「道が狭いなら、俺が前を行く。盾持ちの特権ってやつだな」
ようやく大柄な男が口を開いた。皮肉交じりではあったが、わずかに協調の気配もあった。
「ああ、それでいい」
カナメが肯定する。表情は変えない。
「前衛にお前とシン。中衛にレイと俺、後衛にユリ。異論は?」
「ない」
「構わぬ」
「任せる」
短く交わされる返答。互いを深くは知らなくとも、判断と行動は的確だった。
試験官が森の奥へ視線を向けたまま、低く告げる。
「これより試験を開始する。任務の再確認は不要だな?」
誰も返事はしなかった。ただ、歩みを進めることで答えを示した。
濃い緑の中へと、俺たちは足を踏み入れる。呼吸に混じる静けさと緊張が、森の空気を満たしていった。
森の中は、想像以上に薄暗かった。
陽の光は葉に遮られ、足元には湿った腐葉土が敷き詰められている。折れた枝や小さな足跡が、この場所に何者かが通っている証だった。
前を行く大柄な男の盾が、枝を払いながら道を開いていく。俺はそのすぐ後ろに続き、周囲に神経を尖らせた。
鳥のさえずりが止み、風の音すら消えている。
そのときだった。
「来る!」
カナメの鋭い声が響いた直後、茂みから数体の影が飛び出してきた。緑の皮膚、濁った目、鈍い刃のような爪。小柄な体躯で間合いを一気に詰めてくる。
ゴブリンだ。
「下がれ!」
大柄な男が盾を突き出し、一体を弾き飛ばす。俺は剣を抜き、斬撃で喉元を裂いた。
レイは拳で一体を叩き伏せ、カナメは双剣で二体を同時に薙ぎ倒す。
ユリは無言で立っていた。だが、突進してきたゴブリンが足元で不自然に躓き、のけぞったまま地に伏した。彼女の力が作用したことは、誰の目にも明らかだった。
戦闘は十数秒で終わった。
「……七体。報告どおりだな」
カナメが確認する。
倒れたゴブリンたちは、俊敏で動きに迷いはなかった。皮膚に張りがあり、筋肉も健全だ。それでも、何かが引っかかった。
必要以上に前のめりで、無謀に攻めてきた。あれは狩りというより、焦りに近い。
「七体で行動するには、動きが過剰……とでも言えばいいのでしょうか」
レイがぼそりと呟いた。彼女も何か違和感を感じているようだ。
「飢える前に、先に獲物を狩る……そう見える」
俺たちは何となくの違和感を感じていたが、カナメのその言葉には、確信と観察が混ざっていた。
「……詳しいな。そういう経験でもあるのか?」
俺は思わず聞いた。普通、戦った程度でそんなことがわかるだろうか。
「確実じゃない。ただの直感だよ」
カナメは肩を竦める。
「冒険者認定試験を受ける程度の奴が、何を偉そうに言ってんだよ。気にしすぎだろ」
大柄な男が嘲るように言った。けれど、その声には自信よりも苛立ちが混じっているように聞こえた。
カナメの意見に、俺は妙に納得していた。理由はない。彼みたいに表現するなら「直感」ってやつだな。
やがて、試験官が無言で森の奥を指さした。
「痕跡がある。範囲確認を続行する」
その指示を聞いて、全員が再び歩を進める。
今の戦いは、まだ始まりに過ぎないように感じられた。
しばらく進んだ先で、森の空気が変わった。
風は止まり、葉擦れの音さえ聞こえない。代わりに、地面の奥から、微かに何かが響いてくる。
耳を澄ませる。最初は気のせいかと思った。
だが、足元の土に触れたとき、かすかな振動が手のひらに伝わった。
間を置いて、再び。
一定の間隔で、ゆっくりと、しかし確かに地面が揺れている。
「……聞こえますか」
レイの声が静かに響く。
誰も答えなかったが、全員がそれに気づいていることは空気で分かった。
「数が……多すぎる」
カナメの声に、焦りが滲む。
「認定試験の規模じゃない。ここから先はギルドへの報告任務とする」
試験官がはっきりと告げた。
「これは、狩りではない。侵攻の前触れであろうな」
ユリの静かな声が響く。
その直後、木の上から何かが落ちてきた。
跳躍。
そして着地。
緑の影が爪を振るった。
その爪は、盾が構えられる前に、大柄の男の肩を抉った。
「ぐあっ」
俺が剣を抜いたときには、すでに敵の姿は森の奥へと消えていた。
統率された動き。明確な殺意。
あれはただのゴブリンではない。知性を持つ、何かだ。
遠くで、重たい咆哮が響いた。
木々が揺れ、空気が震える。
森の奥で、何かが目を覚ましたような気がした。




