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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第五章 〜「街での地位と愛を与える君」〜
59/75

059話

 馬車の軋む音が、静かな街道に淡く響いていた。舗装されていない道を進むたびに、車輪は小さく跳ね、荷台に微かな揺れが伝わる。


 誰も口を開かないまま、重苦しい沈黙が風と共に車内を支配していた。


 レイは腕を組み、まぶたをわずかに伏せていた。眠っているわけではない。思考を深く沈めている、そんなふうに見えた。

 斜陽を少しだけ受けていた。相変わらず、綺麗な顔をしていると思う。


 ユリは窓の外を見つめていた。風に揺れる草木、空を流れる雲、遠ざかる街並み。その瞳には、感情の色は宿っていなかった。

 今回の試験も俺がやると言ったから、ただ付き合っているだけ。そう思えた。


 カナメは背筋を伸ばし、視線を動かさず、腰の短剣にそっと手を添えていた。いつでも戦えるように構えている。それが自然と伝わってくる姿勢だった。


 大柄な男は、分厚い盾に顎を預けて座っていた。目を閉じてはいたが、不機嫌な気配が体から滲み出していた。


 試験官は馬車の前方、御者の隣に静かに座っていた。振り返ることも、声をかけることもなく、ただ黙々と森を目指している。


 半刻ほどが過ぎたころ、馬車がゆるやかに停止した。


「到着だ」


 試験官の短い声に、全員がほぼ同時に立ち上がった。空気がわずかに引き締まる。


 目の前には、木々の生い茂る森の入口が広がっていた。葉擦れの音が風に乗ってさやさやと響き、遠くで鳥のさえずりがかすかに聞こえる。


 だが、それだけではなかった。湿った土の匂い、踏み荒らされた草、折れた枝。動物とは異なる、鈍く濁った気配が森の奥から滲み出ている。


 俺は一歩前へ出て、剣の柄に手をかけた。


「ここからが本番、か」


 呟いた声に、レイが無言で頷きを返す。ユリは黙したまま、森の奥をじっと見つめていた。


「位置の確認をしておこう」


 カナメが静かに言った。


「正面から三十メートルほどで道が分かれる。左は丘を越えて谷へ、右は林の奥へ続く。目撃情報があったのは、右の道だ」


「道が狭いなら、俺が前を行く。盾持ちの特権ってやつだな」


 ようやく大柄な男が口を開いた。皮肉交じりではあったが、わずかに協調の気配もあった。


「ああ、それでいい」


 カナメが肯定する。表情は変えない。


「前衛にお前とシン。中衛にレイと俺、後衛にユリ。異論は?」


「ない」


「構わぬ」


「任せる」


 短く交わされる返答。互いを深くは知らなくとも、判断と行動は的確だった。


 試験官が森の奥へ視線を向けたまま、低く告げる。


「これより試験を開始する。任務の再確認は不要だな?」


 誰も返事はしなかった。ただ、歩みを進めることで答えを示した。


 濃い緑の中へと、俺たちは足を踏み入れる。呼吸に混じる静けさと緊張が、森の空気を満たしていった。


 森の中は、想像以上に薄暗かった。


 陽の光は葉に遮られ、足元には湿った腐葉土が敷き詰められている。折れた枝や小さな足跡が、この場所に何者かが通っている証だった。


 前を行く大柄な男の盾が、枝を払いながら道を開いていく。俺はそのすぐ後ろに続き、周囲に神経を尖らせた。


 鳥のさえずりが止み、風の音すら消えている。


 そのときだった。


「来る!」


 カナメの鋭い声が響いた直後、茂みから数体の影が飛び出してきた。緑の皮膚、濁った目、鈍い刃のような爪。小柄な体躯で間合いを一気に詰めてくる。


 ゴブリンだ。


「下がれ!」


 大柄な男が盾を突き出し、一体を弾き飛ばす。俺は剣を抜き、斬撃で喉元を裂いた。


 レイは拳で一体を叩き伏せ、カナメは双剣で二体を同時に薙ぎ倒す。


 ユリは無言で立っていた。だが、突進してきたゴブリンが足元で不自然に躓き、のけぞったまま地に伏した。彼女の力が作用したことは、誰の目にも明らかだった。


 戦闘は十数秒で終わった。


「……七体。報告どおりだな」


 カナメが確認する。


 倒れたゴブリンたちは、俊敏で動きに迷いはなかった。皮膚に張りがあり、筋肉も健全だ。それでも、何かが引っかかった。


 必要以上に前のめりで、無謀に攻めてきた。あれは狩りというより、焦りに近い。


「七体で行動するには、動きが過剰……とでも言えばいいのでしょうか」


 レイがぼそりと呟いた。彼女も何か違和感を感じているようだ。


「飢える前に、先に獲物を狩る……そう見える」


 俺たちは何となくの違和感を感じていたが、カナメのその言葉には、確信と観察が混ざっていた。


「……詳しいな。そういう経験でもあるのか?」


 俺は思わず聞いた。普通、戦った程度でそんなことがわかるだろうか。


「確実じゃない。ただの直感だよ」


 カナメは肩を竦める。


「冒険者認定試験を受ける程度の奴が、何を偉そうに言ってんだよ。気にしすぎだろ」


 大柄な男が嘲るように言った。けれど、その声には自信よりも苛立ちが混じっているように聞こえた。


 カナメの意見に、俺は妙に納得していた。理由はない。彼みたいに表現するなら「直感」ってやつだな。


 やがて、試験官が無言で森の奥を指さした。


「痕跡がある。範囲確認を続行する」


 その指示を聞いて、全員が再び歩を進める。

 今の戦いは、まだ始まりに過ぎないように感じられた。


 しばらく進んだ先で、森の空気が変わった。

 風は止まり、葉擦れの音さえ聞こえない。代わりに、地面の奥から、微かに何かが響いてくる。


 耳を澄ませる。最初は気のせいかと思った。

 だが、足元の土に触れたとき、かすかな振動が手のひらに伝わった。


 間を置いて、再び。

 一定の間隔で、ゆっくりと、しかし確かに地面が揺れている。


「……聞こえますか」


 レイの声が静かに響く。

 誰も答えなかったが、全員がそれに気づいていることは空気で分かった。


「数が……多すぎる」


 カナメの声に、焦りが滲む。


「認定試験の規模じゃない。ここから先はギルドへの報告任務とする」


 試験官がはっきりと告げた。


「これは、狩りではない。侵攻の前触れであろうな」


 ユリの静かな声が響く。


 その直後、木の上から何かが落ちてきた。


 跳躍。

 そして着地。

 緑の影が爪を振るった。

 その爪は、盾が構えられる前に、大柄の男の肩を抉った。


「ぐあっ」


 俺が剣を抜いたときには、すでに敵の姿は森の奥へと消えていた。


 統率された動き。明確な殺意。

 あれはただのゴブリンではない。知性を持つ、何かだ。


 遠くで、重たい咆哮が響いた。

 木々が揺れ、空気が震える。

 森の奥で、何かが目を覚ましたような気がした。


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