057話
カーテンが開けられる音がした。
そのすぐあと、扉が開く音が、部屋の静けさをやさしく破った。
ゆっくりとまぶたを開ける。
淡い朝の光と、見慣れた人影が、部屋の中へと差し込んでいた。
「旦那様、お目覚めですか?」
旅の途中と変わらぬ朝。そこには、いつも通りのレイの姿があった。
その穏やかな表情から察するに、俺が目を覚ますのを待っていてくれたらしい。
周囲に視線を巡らせると、ユリが椅子に腰かけていた。スレスはまだ、布団の中で静かに眠っている。
そしてその先、机の上には、ひとつだけ見慣れないものが置かれていた。
「……レイ、それは?」
少し重たいまぶたを持ち上げながら、俺は彼女に問いかけた。
「シンが起きるまでの間、少しだけ手合わせをしておった」
返ってきた声は、レイではなかった。
カードに触れたままのユリが、椅子に腰かけた姿勢のまま、落ち着いた口調で答える。
彼女は山札に目を落としながらも、勝ち負けへの執着も、感情の揺れも見せなかった。
その静かな居住まいは、実に彼女らしかった。
「レイよ。シンが目覚めたのならば、冒険者ギルドに向かっても良いのではないか?」
「そうですね。まだ六の鐘の音は鳴っていませんが、なるべく早めに到着しておくのが望ましいでしょう」
俺は寝台から身を起こし、首筋に残る眠気を軽く振り払う。
レイが差し出した黒のコートを受け取りながら、部屋の空気を改めて一息、吸い込んだ。
「じゃあ、行くか」
「はい。準備は整っております」
スレスを起こすことはしなかった。今回の件には完全に部外者だし、昨夜はユリとともに遅くまで出歩いていたようだから、疲れているはずだ。
俺たちは宿を後にし、冒険者ギルドを目指して歩き出した。
まだ朝が早いこともあり、街はどこか眠たげだ。
それでも、露店の準備をする人々や、開店の札を掲げる店員の姿がぽつぽつと見える。
やがて、昨日も足を運んだその施設が視界に入った。
他の建物が静けさをまとっているなか、ここだけは朝からひときわ賑わっていた。
「朝早くからこんなに賑やかだなんて……本当に、多くの人に利用されているのですね」
レイの言葉に、俺も思わず頷いていた。
冒険者ギルドの出入り口には、職業も人柄も人種も異なる、実にさまざまな人々の姿があった。昨日よりも人が多い気がする。時間帯のせいだろうか。
ギルドの扉を押し開けると、朝の冷たい空気とは対照的な熱気が押し寄せてきた。
内装は木材を基調とした重厚な造りで、天井は高く、壁際には依頼書が貼られた掲示板がずらりと並んでいる。
カウンターの奥には事務員らしき人物が数名、手早く帳面を繰っていた。
中に足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線がこちらをかすめたが、それも一瞬のこと。誰もが自分の目的に集中しており、余所者への関心は長くは続かないらしい。
カウンターに近づくと、若い女性の職員が一礼して迎えてくれた。
「おはようございます。受験者の方ですね?」
俺たちが頷くと、彼女は手元の紙束を確認しながら、事務的な口調で続けた。
「では、こちらへどうぞ。試験の受講者は、裏手の訓練場に集合となっております。案内いたしますね」
そう言って歩き出した彼女のあとに続きながら、俺たちは視線を交わす。
この空気の中で、自然と背筋が伸びていくのがわかった。
奥へと進んでいくと、建物の裏手に続く通路が現れる。通された扉の向こうは屋外の訓練場で、土と汗の匂いがわずかに混じった朝の空気が流れ込んできた。
既に何人かの受験者らしき人物たちが集まっており、それぞれが武器を点検したり、静かに目を閉じて精神を整えたりしていた。
「こちらが試験会場となります。開始まで、しばらくお待ちくださいませ」
職員がそう告げると、俺たちは静かに場所を見極め、訓練場の隅へと足を運んだ。
辺りを見渡せば、同じように案内されたらしい姿がいくつか見える。
武器を点検している者、壁際で目を閉じて呼吸を整える者、それぞれが自分のやり方で静かな時間を過ごしていた。
レイは目立たぬように周囲を観察していた。
ユリは関心のなさを隠そうともせず、椅子に腰かけたままぼんやりとしている。
俺も特に何かするでもなく、その場で待っていた。
「おいおい、冒険者認定試験に女連れかよ」
不意に、聞き馴染みのない声が耳に届いた。
内容からして、俺に向けられたものだとすぐにわかった。
「旦那様は背が低いですからね」
レイは口元にだけ、わずかに笑みを浮かべた。俺も、言い返すほどの価値はないと思った。
「無視かよ」
再び声がして、今度は肩を掴まれた。大きな手だったが、握りは甘い。
「触らないでくれるか?」
この程度なら、視線を向ける必要もない。軽く手を払った、その瞬間、鈍く嫌な音がした。
思わず男のほうを見やると、俺の二倍ほどもある体格の男が、苦痛に顔を歪めて手首を抱えて蹲っていた。
まさか折れたのか。……あの程度で?
俺の方は何ともない。強くやったつもりもない。どちらかといえば、相手のほうが勝手に壊れたようにしか見えなかった。
ユリが男に目を向ける。冷ややかな視線だった。
「気にする必要はない。こやつが身の程を弁えぬ愚か者だっただけだ」
「旦那様のお身体は体格に似合わず頑丈なので、弱いと勘違いされたのでしょうね。少し離れましょうか」
レイに促されて、俺たちはその男から距離を取ろうとした。
「お前っ!! タダじゃ済まさねえぞ!!」
男は辛うじて、腰の剣を抜いた。抜いてしまった。
剣を抜いた瞬間、訓練場の空気が変わった。
周囲にいた受験者たちが、一斉にこちらを見た。
レイは視線ひとつで、男の動きを牽制する。ユリは立ち上がりすらせず、男を見下ろしたまま口を開いた。
「剣を抜いたということは、試験に関係のない戦闘を始めるつもりなのだな?」
その声に、男の動きが止まった。
すると、別の方向から足音が近づいてきた。足音の主は、ギルドの職員だった。
灰色の上着を羽織った中年の男で、腰には簡素な剣を佩いている。一見穏やかそうなその顔には、しかし微塵の笑みもなかった。
「……何をしている?」
その一言だけで、空気が冷えたのがわかった。周囲のざわめきが止まり、剣を抜いた男すら、息を呑んで固まる。
「認定試験に関係のない私闘は、重大な規約違反だ。即時失格、追放処分。異議は認めない」
男は何か言い返そうと口を開いたが、その前に職員が一歩踏み出す。たったそれだけで、男の膝がわずかに揺れた。
「剣を納めろ。それができるうちに」
ようやく男は、顔を引きつらせながら剣を鞘に戻した。
蹲ったまま、何も言えずに項垂れている。
職員はちらと俺たちに視線を向けた。
何も問わず、何も咎めず。ただ一言だけ、静かに告げる。
「試験は予定通り行う。開始は十分後だ。案内が入るまで、待機していてくれ」
それだけ言うと、職員は踵を返して去っていった。
ざわついていた空気は、すぐに引いていった。やがて訓練場には、奇妙な静けさだけが残った。
「……見られてるな」
ほとんどの視線は逸れていったはずだった。だが、たった一つだけ、俺たちから離れない視線があった。
「そうですね。最初の方から、やり取りを見ていたのかもしれません」
レイも見られていることには気が付いていた。誰かを名指しするでもなく、追及するでもなく、いつもの調子で淡々と続ける。
「旦那様のお身体は、体格に似合わず強靭ですから。物珍しい体質だと見られても、不思議ではありません」
……そういえば、俺の身体って、そんなに特殊なのか?
正直、あまり自覚はない。けれど、今の反応を見る限りでは、普通とは言えないのかもしれない。
「記憶がないとはいえ、ここまで気づかずにいたのは……少し驚きです」
その言葉は、穏やかでありながら、不意に胸の奥を突かれるようだった。
「そ、そっか……」
曖昧に返す声が、自分でも頼りなく聞こえる。
レイはいつものように微笑んでいた。けれど、その瞳の奥に浮かんでいたのは、どこか諦めにも似た静かな優しさだった。
「私は、それなりに鍛えてますから大丈夫ですけど……でも、他の女性には、あまり強く触れないほうがいいと思います」
声はあくまで柔らかい。けれど、その一言が、思いのほか深く胸に刺さった。
思わず、そっと目を伏せた。
「……それって……やっぱり、痛かったってことだよな」
自分でも、言いながら驚いていた。
レイとは、体を重ねたこともあった。
それすらも痛みを伴うものだったのかもしれない、そう思うと、ぞっとするような気がした。
「旦那様、私はちゃんと鍛えてますし、それに……いつも優しくしてくれてますから。大丈夫ですよ?」
レイは少しだけ苦笑して、そっと言葉を和らげた。
正直、落胆していた。
自分がどのような存在かは、レイから断片的には聞いているが、それを掘り返したって意味がないと考えていた。
思い出せないことばかりだし、昔がどうであれ、今の俺は変わらないのだから。でも、それで誰かを傷つけるのだとしたら、笑い話にすらならない。
「これから試験だというのに、またイチャつきおってからに。……ほれ、来たぞ」
ユリは呆れを隠すことなく、その声音に含ませていた。
レイの言葉に胸の奥がまだざわついていたが、それでも今は、ユリの視線を追いかけるように顔を上げる。
すると、訓練場の奥から、ひとりの男が、まっすぐこちらに向かって歩いてくるのが見えた。




