016話
階段を降りきったその先には、ぽっかりと空いた巨大な空間があった。俺とレイが手にした灯りでは、とても照らし切れない広さだ。
この瞳には何も映らなかった。
音も、風も、温度さえも感じられない。まるで世界そのものが止まったような、深い沈黙に満ちていた。
だが、足元を見てすぐに、それが“何もない場所”ではないと気づいた。
ひび割れた石の床。崩れた柱。錆びついた装飾品。それらが、かつてここが“都市だった”という事実を語っていた。
「古い都市……だよな」
人の気配はするのに、命の呼吸は聞こえてこない。それはつまり、この地下が人の手によって造られたという証だ。
「ですね。もう誰も住んでいないようですが」
レイの言葉を聞き、自分の認識が正しいことを理解する。
灯りで照らされるだけの範囲をゆっくりと進みながら、そこに並ぶ建物たちと巡り会う。
降りてきた螺旋階段と同様に、頑丈な石で造られていた。ひとつ違うことと言えば、それらの建物は全く同じではなく、それぞれに表情を持っていることだ。
「色んな人たちが、住んでたんだろうな」
この都市には、誰一人として残っていないのかもしれない。それでも、そこに生きたという事実は消えない。人が生きる美しさを、その結果を、俺は美しいと感じた。
だが──その余韻は、唐突に打ち切られた。
レイが、ぴたりと足を止めた。彼女の雰囲気が変わった。
それに気がついて足を止めた。彼女の視線の先を追いかけるように、その暗闇に瞳を向けた。
「……誰、ですか?」
レイは槍を取り出して、その先に刃先を向けた。
すると、まるで人形のような姿形をした天使が、何も見えない暗闇から姿を現した。
その顔には、目も鼻も口もなかった。そこにあるのはただ、白くのっぺりとした“肯定も否定も拒む虚無”だけだった。
「この無意味な世界に、未だに足を踏み入れる者が居るとは」
その言葉には、まるで存在そのものを無意味だと吐き捨てるような、全てを否定するような感情が籠っていた。
その感情は、背中に生えた白翼とは打って変わって、酷く冷たかった。その翼は、温かみのあるものではなく、全てを否定する白なのかもしれない。
「排除する」
気が付いた時には、俺の目前に天使が差し迫っていた。その天使の手には、鋭く尖った刃物が握られている。
「っつ!?」
天使の持つ刃物は、俺に届く前に、レイの槍によって叩き落とされた。
続けて、彼女の槍の刃先が、天使の身体を引き裂こうとする。結果は空を切っただけだった。
「下がってくださいっ!」
レイに庇われて、俺は彼女を盾にしながら、天使から距離を取った。
彼女がいなければ、俺は間違いなく天使に刃物を突き立てられていた。
今の一撃で、この戦闘において、俺は基本的に戦力外であることはわかった。だから、下手に前に出て足を引っ張ることはしない。
「お前は何者だっ!?」
それでも、距離を取った上で、相手の正体を確かめることはできる。……答えてくれれば、だが。
「我が名はアザトース。神に逆らう文明の、その全てを処分する者だ」
その天使はあっさりと答えてくれた。まるで、人の全てを下に見ているような、そんな気配を感じる。あまり好きにはなれなさそうだ。
「だから、死ね。この文明を、人に記憶させるわけにはいかない」
天使は白翼を広げた。
「かかってきなさい。たかが天使ごときに、負けるつもりはありません」
レイは正面から天使とぶつかった。
白を基調とした天使と、黒を基調としたレイは、面白いほどに対極に見えた。
天使は刃を振るう。
それを槍で弾いたレイは、返す刃で槍を振り抜く。
天使はさらにもうひとつの刃を取り出して、一瞬だけ無防備になった彼女に振るう。
レイは槍の腹部で振るわれた刃を受け止めると、しなやかな白く美しい脚で天使を蹴り飛ばした。
漆黒のドレスの上に黒い外套を纏う彼女は、僅かな光しかない空間で、自らの陶器のような肌の白さを際立たせていた。
「ぐうっ……!?」
天使は苦悶の声をあげる。足蹴にされた白翼の身体はよろりと姿勢を崩した。
レイはその様子を見て、槍を前傾姿勢に構え、鋭い刃先を天使の腹部に放った。
「がはっ……」
天使は人と同じように血を吐いた。白い見た目が、段々と朱色に染まっていく。口もないその顔の、いったいどこから赤がこぼれたのか、俺には理解できなかった。
「貴様らに、記憶させるくらいなら、この土地ごと全てを、消してやる」
天使はそう言うと、両手を宙に掲げた。
その様子を見たレイは、瞬時に天使から距離をとって、俺の元まで下がってきた。
天使の両手に生み出されたのは、とても大きな質量を持ったエネルギーだった。
「あれが爆発したら、この都市ごと無くなります」
彼女は冷静に言った。
どこをどうしたらそこまで冷静になれるのか、小一時間くらい問い続けたいが、この非常事態にそんな事をする余裕はない。
「何とかできるのか?」
「身を守るくらいはできると思います」
レイには俺たちの身を守るだけの案はあるようだ。でも──
「この都市も守れるのか?」
「それは不可能です」
ただ身を守るだけでは、この地下都市に広がった人の営みを、その美しさを守ることはできない。
誰も生きてはいないかもしれない。でも、人々の手が重なった結果の伽藍の洞を、ただ無為に破壊させたくはなかった。
人が生きた美しい軌跡を、人が重ねた文明を否定させやしない。
「なら、俺がやる」
右手を、ゆっくりと掲げた。
感覚は、すぐに応えた。
手のひらの内に、黒が生まれる。
それは渦だった。
空間そのものが軋むようにして、ひとつの“穴”が開く。
存在を否定し、意味すらも飲み込み、痕跡も残さぬ破壊の本質。
それは形でもなく、熱でもなく、ただ存在する理を喰らい尽くす。
天使の両手に集まっていた白く輝く膨大な質量。
この都市の全てを巻き込まんとするそれが、今まさに解き放たれようとしていた。
だが、それが放たれるよりも早く、俺の手のひらから伸びた“黒”が、それを捉えた。
空気が弾けた。
光が軋んだ。
音もなく、ただ“無”がすべてを包み込んだ。
それだけじゃない。
天使アザトースの身体にまで、黒が忍び寄っていた。
白い翼が、顔が、刃が。
音もなく、跡形もなく、崩れていく。
「やめ……まだ……私は……」
その断末魔すら、残せなかった。白い天使の姿は、虚無の渦に吸い込まれ、完全に消失した。
俺はそれを見届けると同時に、握り潰すように"究極の忘却"を消し去った。




