014話
「ん……」
瞼を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、艶やかな黒髪と、その奥で静かに輝く黒い瞳だった。彼女の後ろには、雲一つない澄み切った空が広がり、淡い陽射しが優しく頬を撫でる。
心地よい風が吹き抜けていく。その風に導かれるように、俺の意識は現実に引き戻されていく。
「おはようございます、旦那様」
落ち着きがあり、何度聞いても飽きることのない、心地よい声。
俺は、反射的に言葉を返していた。
「おはよう、レイ」
そう言うと、彼女はそっと俺の額に手を置いた。柔く触れられる感触が優しくて、どこかくすぐったい。でも、妙に安心してしまった。
「……子供扱いは勘弁してくれ」
彼女の手を優しく払い、重力に引かれた身体を、ゆっくりと立ち上がらせた。
「では、次からは“甘やかす”にしておきます」
いつものやり取り。だが、違和感は残った。
──俺は、いつ眠ったんだ?
何か、大事なことがあったような気がする。
だが、それが何だったのか、まるで霧の中に沈んでしまったように思い出せない。
身体に傷はない。痛みも、疲労もない。けれど、どこかで“何か”があったという確信だけが、胸の奥に引っかかっていた。
「旦那様には、一つ、お願いがあります」
レイが表情を引き締めて言った。その声音は、いつもより少しだけ真剣だった。
「俺にできることならいいけど……何をすれば?」
彼女の瞳に視線を向けて、更なる続きを促す。
「とある力を、使う練習をしていただきたいのです」
「力……?」
俺は首を横に傾げた。とある力とやらを俺は知らない。
「黒い渦……といえば、何かイメージが湧きますか?」
「黒い……渦?」
意味が、よくわからない。彼女が何を指しているのか、想像すらできなかった。
「いや、悪い。何のことだか分からないな」
「……そうですか」
少しだけ表情を曇らせたレイは、わずかに口元を引き結んだ。
「では、“何でも吸い込む力”と聞いて、思い当たることはありますか?」
何でも、吸い込む……力?
ぞくりと、背筋を何かが這った。
言葉の意味より先に、感覚が警鐘を鳴らす。
「……心当たりが、あるみたいだ」
その力の景色が見えるわけじゃない。
具体的なイメージもない。
けれど、俺の中に確かに“それ”はある。そんな確信だけがあった。
「その力は、貴方の中にあるものです。
だからこそ、使う練習をしていただきたいのです」
「それはわかった。でも、どうやって発動すれば良いんだろうな……」
使えなければ、練習も何もない。
そう思った瞬間、ある感覚が背後から引き寄せられてくる。
──あ、わかった。これかな?
自然と右手が前に出ていた。次の瞬間、手のひらに現れたのは、
「究極の忘却」
黒い渦だった。けれどただの黒ではない。
周囲の空間をゆがませ、色彩さえ飲み込む不確かな闇。
渦の内側は、夜空よりも深く、星のひとつも許さない絶対の黒。
まるで、そこだけが“現実”ではないような、異質な光景だった。
「その渦は、宇宙の理から外れたものです」
レイは静かに口を開いた。
「五十億年前、旦那様がそれを“封じた”ことで、宇宙は崩壊を免れました」
この渦が、俺が記憶を失って、五十億年も眠っていた理由。
この渦は、何でも吸い込むことができる。そして、存在の全てを否定する性質がある。
この力を自分の身に封じたのなら、むしろこうやって目覚めていることの方が、奇跡だとすら思えてしまう。
「本来であれば、誰も触れてはならないもの……ですが」
レイの言葉に、俺は手のひらの渦に視線を向ける。
周囲の景色が滲み、音の反響すら乱れているように思えた。
試しに、足元の小石を拾い、渦へと投げた。
触れる寸前、石は弾けるようにして消えた。
何も残らない。音もなく、光もなく、跡形もなかった。
吸い込まれたというより、存在そのものが帳消しになったようだった。
感覚が、答えをくれる。
この力は、確かに俺のものだ。
だがしかし、この力は危険すぎる。
今は石ひとつだったが、もしこれが人だったら、もし感情のままに暴走させていたら。
想像したくもない結末が脳裏を過った。
使えればいいわけじゃない。必ず制御しなければならない。
「旦那様、それ以上は……」
レイの声が届いた。怒りでも、恐れでもない。静かな制止だった。
「……あ、ああ」
俺は手のひらに意識を向ける。
渦の鼓動がわずかに収束していく。
風が止まり、音が戻り、光が正しく屈折する。
そうして、黒い渦は静かに滲むように消えていった。
歪んでいた空間が収束し、空気が静かに整っていくのを感じた。
「よかった……」
レイが胸元に手を当て、小さく息をついた。
俺の中には、不思議にも恐れや混乱はなかった。
強大な力ではあるが、ただ"扱える"と知った感覚が、静かに根を張っていたからだ。
「俺はこんなものを抱えてたんだな」
むしろ、この「究極の忘却」が、自分の身のうちにあった実感が、ようやく腑に落ちた気がした。
「はい。
宇宙を救うために、旦那様が選んだ、たった一つの方法でした」
話があまりにも壮大すぎる。
だが、実際にこの力を使ってみれば、その言葉が誇張でも何でもないとわかる。
「随分と無茶したもんだな。昔の俺は」
その言葉は自嘲のつもりだったのに、レイは柔らかく微笑んだ。
「その選択を、私は誇りに思っています」
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。
「──その、旦那様?」
レイはそっと俺の腕に両手を添え、少しだけ身を寄せてきた。
上目遣いで覗き込むその仕草は、まるで小さなお願いをする子供のようだった。
その美しさゆえに、ひどく可愛らしく映った。
俺は思わず、もう一度レイの頭に手を伸ばし、そっと撫でた。彼女の髪は吸い付くようにしなやかで、指先から伝わる柔らかな感触が心地よかった。
「あ……」
レイは少し驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと微笑んだ。その表情が、さらに俺の心を和ませる。
「可愛いな、レイは」
俺が率直にそう告げると、レイの頬がほんのり赤くなった。少し俯き加減になった彼女の姿は、まるで花が綻ぶようで、どうしようもなく愛おしい。
彼女は、少し照れたように視線を逸らして、すぐに俺を見上げた。
「もし、よろしければ……この先に行ってみませんか?」
そう言って、彼女はすぐ傍にある階段を指さした。
古びた石積みのそれは、吸い込まれるような暗闇へと続いている。明らかに“地下”へと降りていく構造だった。
先はまったく見えず、物音すら反響しない。確かに人工物のはずなのに、命の気配がまるで感じられなかった。
それは確かに不気味だった。
けれど、不思議と足がすくむような怖さはなかった。
「もちろん。レイが行きたいなら、付き合うよ」
そう答えた俺の言葉に、彼女は一瞬だけ目を伏せた。
わずかに揺れた睫毛の奥に、寂しさのような色が滲んで見えた気がする。
「では、行ってみましょうか」
すぐに、いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。
何か、間違えたか?
ふとした疑念が胸をかすめた。けれど、それを言葉にすることはできなかった。
気のせいかもしれない。そう思って、その違和感ごと、胸の奥に仕舞い込む。
レイが手を差し出す。俺はその手を取った。
彼女に導かれるままに、暗闇へと続く階段を、ゆっくりと降りていった。




