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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第二章 〜「崩壊した文明と隣を歩く君」〜
14/75

014話

「ん……」


 瞼を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、艶やかな黒髪と、その奥で静かに輝く黒い瞳だった。彼女の後ろには、雲一つない澄み切った空が広がり、淡い陽射しが優しく頬を撫でる。


 心地よい風が吹き抜けていく。その風に導かれるように、俺の意識は現実に引き戻されていく。


「おはようございます、旦那様」


 落ち着きがあり、何度聞いても飽きることのない、心地よい声。

 俺は、反射的に言葉を返していた。


「おはよう、レイ」


 そう言うと、彼女はそっと俺の額に手を置いた。柔く触れられる感触が優しくて、どこかくすぐったい。でも、妙に安心してしまった。


「……子供扱いは勘弁してくれ」


 彼女の手を優しく払い、重力に引かれた身体を、ゆっくりと立ち上がらせた。


「では、次からは“甘やかす”にしておきます」


 いつものやり取り。だが、違和感は残った。


 ──俺は、いつ眠ったんだ?


 何か、大事なことがあったような気がする。

 だが、それが何だったのか、まるで霧の中に沈んでしまったように思い出せない。


 身体に傷はない。痛みも、疲労もない。けれど、どこかで“何か”があったという確信だけが、胸の奥に引っかかっていた。


「旦那様には、一つ、お願いがあります」


 レイが表情を引き締めて言った。その声音は、いつもより少しだけ真剣だった。


「俺にできることならいいけど……何をすれば?」


 彼女の瞳に視線を向けて、更なる続きを促す。


「とある力を、使う練習をしていただきたいのです」


「力……?」


 俺は首を横に傾げた。とある力とやらを俺は知らない。


「黒い渦……といえば、何かイメージが湧きますか?」


「黒い……渦?」


 意味が、よくわからない。彼女が何を指しているのか、想像すらできなかった。


「いや、悪い。何のことだか分からないな」


「……そうですか」


 少しだけ表情を曇らせたレイは、わずかに口元を引き結んだ。


「では、“何でも吸い込む力”と聞いて、思い当たることはありますか?」


 何でも、吸い込む……力?


 ぞくりと、背筋を何かが這った。

 言葉の意味より先に、感覚が警鐘を鳴らす。


「……心当たりが、あるみたいだ」


 その力の景色が見えるわけじゃない。

 具体的なイメージもない。

 けれど、俺の中に確かに“それ”はある。そんな確信だけがあった。


「その力は、貴方の中にあるものです。

 だからこそ、使う練習をしていただきたいのです」


「それはわかった。でも、どうやって発動すれば良いんだろうな……」


 使えなければ、練習も何もない。

 そう思った瞬間、ある感覚が背後から引き寄せられてくる。


 ──あ、わかった。これかな?


 自然と右手が前に出ていた。次の瞬間、手のひらに現れたのは、


「究極の忘却」


 黒い渦だった。けれどただの黒ではない。

 周囲の空間をゆがませ、色彩さえ飲み込む不確かな闇。

 渦の内側は、夜空よりも深く、星のひとつも許さない絶対の黒。

 まるで、そこだけが“現実”ではないような、異質な光景だった。


「その渦は、宇宙の理から外れたものです」


 レイは静かに口を開いた。


「五十億年前、旦那様がそれを“封じた”ことで、宇宙は崩壊を免れました」


 この渦が、俺が記憶を失って、五十億年も眠っていた理由。

 この渦は、何でも吸い込むことができる。そして、存在の全てを否定する性質がある。

 この力を自分の身に封じたのなら、むしろこうやって目覚めていることの方が、奇跡だとすら思えてしまう。


「本来であれば、誰も触れてはならないもの……ですが」


 レイの言葉に、俺は手のひらの渦に視線を向ける。

 周囲の景色が滲み、音の反響すら乱れているように思えた。


 試しに、足元の小石を拾い、渦へと投げた。

 触れる寸前、石は弾けるようにして消えた。

 何も残らない。音もなく、光もなく、跡形もなかった。

 吸い込まれたというより、存在そのものが帳消しになったようだった。


 感覚が、答えをくれる。

 この力は、確かに俺のものだ。

 だがしかし、この力は危険すぎる。

 今は石ひとつだったが、もしこれが人だったら、もし感情のままに暴走させていたら。

 想像したくもない結末が脳裏を過った。

 使えればいいわけじゃない。必ず制御しなければならない。


「旦那様、それ以上は……」


 レイの声が届いた。怒りでも、恐れでもない。静かな制止だった。


「……あ、ああ」


 俺は手のひらに意識を向ける。

 渦の鼓動がわずかに収束していく。

 風が止まり、音が戻り、光が正しく屈折する。

 そうして、黒い渦は静かに滲むように消えていった。

 歪んでいた空間が収束し、空気が静かに整っていくのを感じた。


「よかった……」


 レイが胸元に手を当て、小さく息をついた。

 俺の中には、不思議にも恐れや混乱はなかった。

 強大な力ではあるが、ただ"扱える"と知った感覚が、静かに根を張っていたからだ。


「俺はこんなものを抱えてたんだな」


 むしろ、この「究極の忘却」が、自分の身のうちにあった実感が、ようやく腑に落ちた気がした。


「はい。

 宇宙を救うために、旦那様が選んだ、たった一つの方法でした」


 話があまりにも壮大すぎる。

 だが、実際にこの力を使ってみれば、その言葉が誇張でも何でもないとわかる。


「随分と無茶したもんだな。昔の俺は」


 その言葉は自嘲のつもりだったのに、レイは柔らかく微笑んだ。


「その選択を、私は誇りに思っています」


 その言葉に、返す言葉が見つからなかった。


「──その、旦那様?」


 レイはそっと俺の腕に両手を添え、少しだけ身を寄せてきた。

 上目遣いで覗き込むその仕草は、まるで小さなお願いをする子供のようだった。

 その美しさゆえに、ひどく可愛らしく映った。

 俺は思わず、もう一度レイの頭に手を伸ばし、そっと撫でた。彼女の髪は吸い付くようにしなやかで、指先から伝わる柔らかな感触が心地よかった。


「あ……」


 レイは少し驚いたように目を見開いたが、すぐにふわりと微笑んだ。その表情が、さらに俺の心を和ませる。


「可愛いな、レイは」


 俺が率直にそう告げると、レイの頬がほんのり赤くなった。少し俯き加減になった彼女の姿は、まるで花が綻ぶようで、どうしようもなく愛おしい。


 彼女は、少し照れたように視線を逸らして、すぐに俺を見上げた。


「もし、よろしければ……この先に行ってみませんか?」


 そう言って、彼女はすぐ傍にある階段を指さした。

 古びた石積みのそれは、吸い込まれるような暗闇へと続いている。明らかに“地下”へと降りていく構造だった。

 先はまったく見えず、物音すら反響しない。確かに人工物のはずなのに、命の気配がまるで感じられなかった。


 それは確かに不気味だった。

 けれど、不思議と足がすくむような怖さはなかった。


「もちろん。レイが行きたいなら、付き合うよ」


 そう答えた俺の言葉に、彼女は一瞬だけ目を伏せた。

 わずかに揺れた睫毛の奥に、寂しさのような色が滲んで見えた気がする。


「では、行ってみましょうか」


 すぐに、いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。


 何か、間違えたか?


 ふとした疑念が胸をかすめた。けれど、それを言葉にすることはできなかった。

 気のせいかもしれない。そう思って、その違和感ごと、胸の奥に仕舞い込む。


 レイが手を差し出す。俺はその手を取った。

 彼女に導かれるままに、暗闇へと続く階段を、ゆっくりと降りていった。


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