誘拐
火のついた蝋燭が立っていた。
湿った空気が寒さを倍増させるようだった。
岩を組み合わせたような、円形の壁の部屋。天井も岩でふさがれていた。
蝋燭の火は三本だった。三つ又に別れた燈台の上に乗っている。
地面は土だった。
井戸に似てると思った。でも水は湧いてないし、井戸にしては広く、天井も低かった。
いつの間にここに来たのか、どうやってここに来たのか、解らなかった。
気が付いたらここに横たわっていたのだ。
他には誰もいない。
軽い頭痛がしていたが、我慢のできる範囲だった。私は思い出せる過去を思い出した。
夏紀とお茶を飲んでいた。いつもの喫茶店。外にはベンツ、私の監視役。それから・・・。
思い出せるのはそこまでだった。そこからの記憶が飛んでいた。
腕時計は午後十一時を示している。私の心に恐怖が起こった。
誘拐。
どう考えても誘拐されたと思うのが自然だった。うちにはお金がある、狙われるには足る理由だった。
記憶が飛んでいるのは、きっと薬でも嗅がされたんだろう。
でもどうやって。
ベンツは私を監視していた。お爺様が私に付けた黒いスーツの男達。誰もが一流のはずだった。こんなに簡単に拉致できるはずがなかった。
「そうだ!」
突然思い出した。
鞄はそのまま、私のそばに置かれていた。中には携帯電話が入っているはずだった。
「あった!」
拉致監禁しながらも、携帯はそのまま。なんてがさつな連中なのだろう。そう思った。
震える手で、家の番号を押した。
呼び出し音が鳴るか鳴らないかの内に、回線がつながった。
「お嬢様、ご無事ですか!」
電話の声はお爺様の第一秘書、遠藤さんだった。
「は…はい!」
何と言っていいのか解らなかった。涙がこみ上げてきた。
「どこにおられるのですか?どうやって連れて行かれたのですか?」
矢継ぎ早に質問された。遠藤さんの声は震えていた。
「解らないんです。ここがどこだか、どうやって連れてこられたのか。覚えていないんです。」
電話の向こうでお爺様の怒鳴り声が聞こえた。
「泉、泉か!どこにおるのだ、無事なのか!」
「はい、今は何とか無事でいます。でもここがどこだか解らないの。お爺様、助けて!」
私の声は悲鳴に変わっていた。電話の向こうで、お爺様が息をのむのが伝わってきた。
「泉、落ち着いて聞きなさい。そこから何が見えるのか、説明しなさい。他に誰かおるのか?」
「私の他には誰もいません。なんだか、井戸の底みたいな湿ったところ。天井が岩でふさがれてて、出られないの!」
携帯に向かって、必死に叫んだ。
「それだけでは解らん、もっと他にないのか!電車の音が聞こえるとか、川の流れる…」
突然携帯をむしり取られた。
目の前に、人が立っていた。
赤と白の巫女のような服を着た、長い黒髪の綺麗な女の人だった。不思議そうな顔で、私の携帯を眺めている。
「助けてください、私、誘拐されたんです!」
女の人にすがりつこうとした。いきなり頬を叩かれた。
「なんだい、これは?」
口の中に、血の味が広がった。鉄の錆びたような味、初めて知った。
地面に倒れ込んだ私に、女の人は携帯を突き出した。
「助けて、お爺様!女が…」
携帯に向かって叫んだ。お爺様の声が聞こえたが、何を言ってるのかまでは解らなかった。
目の前で、私の携帯が握りつぶされた。もの凄い握力だった。
女の人は私を見て微笑んだ。
目の前が真っ暗になった。