仕事
部屋の隅に設置されたスポットライトが、薄暗く室内を照らしていた。
コンクリートの壁、コンクリートの床、壁の一方は引き下ろし式のシャッターになっていた。今、そのシャッターは閉じられている。
静まりかえった室内に、金属性の滑車の擦れる音が、規則正しく響いていた。
滑車が擦れるたびに、自分の荒い息づかいが聞こえる。
ベンチブレス用のトレーニングマシン。
設置しているウエイトは、三百キログラムだった。
負荷が掛かったときに震える筋肉、生きていると実感する一瞬。
負荷の掛かっている筋肉に意識を集中し、徐々に力を強めていく。流れ落ちる汗が目にしみた。トレーニングを始めてから約二時間が経過しようとしている。そろそろ限界が近づいていた。
マシンのハンドルから手を離す。鉄則。決して限界を越えるトレーニングをしてはいけない。
スポーツ選手ならば、試合の日に向けて 体調を調節すればよい。だが、俺はいつ仕事が入るか解らなかった。
筋肉が潰れていて、仕事が出来ない。そんな言い訳は通用しなかった。
体を起こし、タオルを掴む。体中の汗を拭いた。
壁に掛かった大きな鏡が俺の体を映しだしていた。
均整が取れ、逞しく発達した筋肉。オールバックに付けた黒髪の、右側の頬のやや後方から、小さな突起が出ていた。歪んだ骨、医者はそう言っていた。浅黒い顔の左目は潰れて無残な傷跡が残っている。
飾り気のないコンクリートむき出しの部屋には、様々なトレーニングマシンが置かれていた。
壁際に大きな鏡、木製のベンチ、くたびれた洗面台、その横にはボックス型のシャワールームが設置されている。部屋の一番奥に、二階に上がる鉄製の階段があった。
シャッターの前には、大きなアメリカンバイクが置かれていた。
市販の1600ccに更に改造を加えた、違法マシン。だが、見た目だけでは解らないようにしてあった。
トレーニングウェアを脱ぎ、ベンチに向けて放った。シャワールームに入る。
熱い湯を浴びた。全身の汗を流す。
シャワールームを出たところで、ベンチの上の携帯が鳴った。
バスタオルで早く体を拭き、全裸のまま携帯を掴んだ。受信ボタンを押す。
「ロスト、仕事よ」
俺が返事をする前に、声が聞こえた。
電話の声は神崎翔子のものだった。俺に仕事を連絡する連絡人。俺は佐嶋探偵社の仕事を下請ける、行方不明者捜索人。通称、「ソウル•ハンター」と呼ばれていた。
ロストというのは俺の通称だった。本名は成瀬透といった。
成瀬透。適当に付けられた、偽りの名前。本当の名は、俺自身も知らなかった。
俺にとって名前など、ただの記号に過ぎなかった。他人と自分を識別する記号、それでよかった。
「ターゲットは?」
「沢田千晶。六歳の女の子、長い髪に紺のトレーナー、真っ赤なジーンズ地のスカートをはいてるわ。最後に確認された場所は加茂川の東雲路橋、東側の土手、橋より少し下流に行ったところよ」
「了解した」
俺はそう言って携帯を切る。