後編
学校の帰り道、その家の老人と会うことが、信二の日課となっていた。自分から訪ねることもあったが、穴の近くで老人が待っていることがほとんどだった。
そしていつも、咲のことを訊いてきた。
穴を覗いてごらんよ、と言っても、老人にはそこにある近代的な日本家屋しか見えないらしい。老人がおかしいのではなく、雪景色の古い建物が自分だけにしか見えていないことは、信二もしだいに感じていた。
ある日、その道に出たとき、信二の目に飛び込んで来たのは、工事関係と思われる人たちや、道一杯に広がったトラックやショベルカーといった重々しい物体だった。地面を揺さぶるような振動が、信二の身体に伝わってくる。
信二は、作業着姿のおじさんに訊いてみた。
「何やってるんですか?」
「坊や、危ないよ。あっちに行ってな」
小学生の信二から見れば、そう言ったおじさんは、学校の先生よりも怖い存在に思える。
開け放たれた格子門の中に見えたのは、ショベルカーの爪が、老人の住んでいた建物にくい込む瞬間だった。
おじいさんがいるはずだ。それに……。
塀の穴に駆け寄って中を覗くと、両手で顔を覆いながら泣いている咲の姿が見えた。しかも身体の半分は、降り続く雪に埋まっている。
「咲ちゃん!」
信二は大声で叫んだ。すぐに気がついて、咲は振り向いた。
「信ちゃん! お願いがあるの。どうしても伝えてほしいことが――」
咲の声だけが、信二の中で響いていた。
しかし、信二の身体は、いつの間にか作業着姿のおじさんに引きずられていったのだった。
どうしてもっと早く教えてくれなかったんだろう。
おじいさんが病気で入院してしまったこと。退院後は、息子夫婦のところに住むことになっているという。そしてあの家は、すでに売却してあるということだった。
おじいさんに会わなきゃ……。
咲ちゃんとの約束だ。どうしても伝えなければならない。
「おじいさん、どこの病院にいるの?」
学校から帰った信二は、カバンを放り投げて、母に訊いたのだった……。
病室のドアをノックした信二は、返事を聞いて、ゆっくりとドアを開けた。おじいさんが寝ているベッドの横に、息子夫婦と思われる二人がいる。
「おお、坊やじゃないか。よく来てくれた」
老人が、布団の中からシワシワの手を少しだけ覗かせた。
その顔は、幼い時の友人に会った時のような喜びに満ちていた。
信二は近寄って、声をかけた。
「おじいさん、大丈夫? あのね、咲ちゃん――」
信二は、今まで見てきたことを伝えた。家が壊されていることを話すとしょんぼりしていたが、咲のことになると、目を輝かせて肯いていた。
「待ってる、って言ってました。咲ちゃん、雪の中で待ってるからって……。おじいさん、どういうこと?」
信二は老人の手を握った。
「咲はね、わしの奥さんなんじゃ。ずっと昔――そう、結婚して間もなくして、病気で死んでしまったんだ。あの庭で……雪に埋もれてな」
老人は遠くを見つめながら、何かを思い出すように言った。
「咲ちゃん、僕より年下だって言ってました」
「ああ、そうだな。彼女はあの年のころが一番楽しかったと言ってたな」
「おじいさんは、僕が咲ちゃんと話してること、知ってたの?」
「もちろんだよ。純粋な心があるから、咲の心が通じたのかもしれないね」
老人は信二の手を弱々しく握った。
「咲ちゃん、大丈夫なのかな。寒くないのかな」
信二は心からそう言った。
「大丈夫。心配せんでもいい。もうすぐわしが、咲のところに行くから」
そう言って、老人は手ぬぐいで涙を拭いた。
――帰り際、信二は聞いていた。老人が息子に話しているところを。
「わしの骨は、実家の、婆さんと一緒に埋めてくれ。婆さんが待ってるんだよ」
そして、都会の新しい墓地はいやだ、と……。
まだ生きてるじゃないか! そんな話しするなよ!
信二にはまだ分からなかった。そして、子供であることが悔しかったのである。
幾日か経って、信二はあの家に行ってみた。
もちろん建物は残っていない。しかし、なぜか穴の空いた塀の一部だけが、忘れられていたかのように残っていたのである。
信二はためらいもなく目を寄せた。
あの時のままだ。いや、積もった雪はそのままだとしても、太陽の光が差し込んだ庭のいたるところに、新緑の若葉芽吹いている。そしてその家の縁側に座っているのは……。
数日前に訃報を聞いた、老人の姿がそこにあった。
あれ? 隣に笑顔で座っているおばあさんは……。身に着けている赤い着物は、咲が着ていたものと同じだ。そしてあの笑顔。
「――咲ちゃん、よかったね」
このコンクリートの塀は、明日にでも取り壊されるのであろう、その方がいい。やっと二人っきりになれたんだから……。
――自宅近くのコンクリートの塀に、小さな穴が空いていた。
覗いてはいけないと思いながら、信二は丸い瞳を近づけていた……。




