前編
アスファルトやコンクリートに囲まれたその道は、都会で生まれ育った信二にとって当たり前の風景でしかない。物心ついたときからこの沿道で遊び、小学校に通い始めて五年と少し、通学路として歩いて来た信二の庭のようなものだ。
肌に焼きつくような夏の日差しが、陽炎となって目の前でゆれている。波を打った空気の隙間に見えているのは、自宅までもう少しという所にある、大きな家の長いコンクリートの塀だった。
「こんな穴あったっけ……」
今まで気がつかなかった穴が、塀の中ほどにぽっかりと空いていたのである。
真っ黒に焼けた顔を近づけると……。
信二の目がかっと開いた。そして何度も瞬きしてから、穴の向こうを凝視した。なぜなら、穴の向こうが真っ白い雪景色だったからだ。
一軒の家が、舞い落ちる淡い雪の中に浮かんでいた。古い木造のわらぶき屋根に、分厚い雪が積もっている。そして広い庭園も、まるで映画でも観ているように、白雪の瞬間を刻んでいるようでもあった。
穴から目を離すと、そこには暑い夏が現実として存在している。太陽が照りつけるアスファルト。目が眩んだのか、それとも陽炎のせいなのか、夢と現実が混同しているようでもある。
信二は何度も交互に目をやった。
「ここは、瓦屋根の大きな家……」
だったはずだ。自宅の二階にある信二の部屋の窓から、この家が見えているのだ。
自分の頬に爪を立てて、痛いことを確認した信二は、しっかりと穴に目を寄せた。
庭の中ほどにある池のほとりに、小学生らしい女の子がしゃがんでいた。まっすぐに伸びたおかっぱ頭に、粉雪がきらきらと光っている。白い肌に紅いほっぺが可愛らしい。そして今では珍しい、赤い地味な着物姿だった。
女の子がゆっくりと振り向いて、信二とその視線が重なった。そして信二が来るのを待っていたかのように、泣いていた顔から笑みがこぼれたのである。
「――こらっ、何しとる!」
焼けた熱いアスファルトの上に立っているお巡りさんが、怖い顔をして睨んでいた。悪いことをしたという意識はなかったが、信二は一目散に駆け出していたのだった……。
窓の外は、いつもと変わらない町並みが広がっている。
信二がぼんやりと眺めていたのは、今日、学校の帰りに覗いた、この街では珍しいあの大きな屋敷である。木造ではあるが、近代的な日本家屋。広い庭園は、鮮やかな緑に輝いていた。
「どこにも雪なんか積もってないじゃないか。それに、あの女の子……」
何とももどかしい気分で、穴の中に見えていた雪景色を、信二は思い出していた。
ここ数年、あの家には老人が一人で住んでいるらしい。妻を早くに亡くし、社会人になった子供たちはそれぞれに家庭を持ち、この家から出て行ったという。夕食の支度をする母に、信二はくどいほど訊いたのだった。
次の日、その家を訪ねることにした。応対に出たのは、やはり一人の老人だった。
穴の中の雪景色。そして女の子の話をすると、疑うどころか、逆に目を輝かせていた。
「そうか。それは不思議な話しだね」
「覗き見して悪いと思ったけど……。でも、泣いてたんです、その子。気になっちゃって……」
「何か話をしたのかい?」
老人にそう訊かれたが、いいえ、と答えた。もし声をかけたら、その子は驚いて逃げるかもしれない、と思っていたからだ。そして、
「そうか、赤い着物か……」
と、老人は呟いていたのだった。
――帰り道、信二は穴を覗いてみた。人の気配はない。しかし、相変わらずの雪景色。
「今日は遅かったのね」
突然声がしたと思うと、穴の向こうに大きな瞳がギョッと現われた。
「うわっ!」
信二がびっくりしていると、
「昨日も来てたでしょ。知ってたのよ。お話したかったのに、すぐ帰っちゃうんだもん」
「ごめん、覗き見して……」
その瞳が少しずつ退がって、女の子の顔がはっきりと見えた。
「あなた、名前なんていうの?」
「ぼく、信二。――君は?」
「私、咲。私の名前みたいに、早くこの雪が解けて花が咲くのを待ってるの。春になったら、この庭はお花畑になるのよ」
咲はそう言って、楽しそうに笑った。
それからの二人は、幼い時からの友達のように、いろんな話に花を咲かせた。
信二より一歳年下の四年生であること。この家を、いや、自分の故郷をこよなく愛していること。そして、ひたすら待っている人がいることを……。
早くゆっくりと眠りたい……、と、咲は言った。そして、早く帰って来てほしい、と……。
おやすみ、と言った信二が穴から目を離すと、そこは蒸し暑い、灼熱の町並みが広がっていた。




