喫茶星の雫 -case08- 初めての一雫
まだ朝の光が弱い時間。
店の中には、薪ストーブのぬくもりと鉄瓶の湯気が静かに漂っていた。
さくらはカウンターの端で、ネルフィルターをそっと水に浸していた。
前の晩からずっと考えていた言葉を、ようやく口にする。
「……あの、私も……やってみてもいいですか?」
マスターは何も言わなかった。
けれど、ほんの一瞬だけ手を止め、彼女の手元にミルをそっと置いた。
それから何も言わず、いつもの仕込みに戻る。
——それが、“いいよ”のサインだった。
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カリカリと、豆を挽く音が響く。
さくらは少し緊張しながらも、手挽きミルを回し続けた。
湯を沸かし、ドリップポットで慎重に注ぎはじめる。
ネルの中で粉がじわりとふくらみ、湯が染みていく。
湯の落ちる音が、静かな店内にぽつぽつと響いていた。
ママさんが厨房の奥から顔をのぞかせる。
「がんばってるわね。……私、最初は全然だめだったのよ」
さくらは思わず笑って、黙ってうなずいた。
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最後の一滴がぽとりと落ちたあと、さくらはそっとドリップポットを置いた。
そして、まだ少し湯気の立つカップを、マスターの前へと差し出す。
「……よかったら、飲んでみてください」
マスターは何も言わず、カップを手に取る。
一口だけ、ゆっくりと口に含む。
そして、何も言わずに立ち上がり、次の豆を挽きはじめた。
——それが、“次もやれ”の合図だった。
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午後。
さくらは洗い終えたネルを、保存容器の水にそっと戻していた。
手のひらに残る、少し湿った布の感触が、なんだかやさしかった。
「……こういうの、すきかも」
誰に言うでもなく、ぽつりとつぶやく。
入口の外では、猫がひなたで丸くなっていた。
さくらが目を向けると、猫は目を細めて、まるで「悪くないね」と言うように小さくあくびをした。