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喫茶星の雫  作者: shade
7/13

喫茶星の雫 -case07- 常連の読み筋

 午後の空気が、ゆっくりと沈んでいく。

 静かな時間の中、マスターは厨房の奥で瓶の蓋を開けていた。


 中に並ぶのは、濃い味噌に沈んだ卵黄。

 ゆっくりと沈みゆく琥珀色。マスターはそれをじっと見つめ、やがてそっと蓋を閉じた。


 ——まだ、今日は出さない。


 カウンターでは、常連のひとりがコーヒーを受け取り、ひと口だけ飲む。

 そのあと、小さな菓子を指でつまんだ。


 瓶詰めされたクリキュイット。マスターが気まぐれに焼いた分のおすそ分け。

 常連はそれを口に運び、噛みしめる。


 カリッ。

 小さな音がひとつ。

 そのあと、ほんの一瞬だけ——彼の手が止まった。


 さくらはその動きを見逃さなかった。


「……?」


 だが常連は何も言わず、ゆっくりと飲み干し、無言で会計を済ませて帰っていった。


 ママさんはふっと微笑んでつぶやいた。


「……ああいう人なのよ」



 翌日の夜。


 マスターは、厨房で冷蔵庫の扉を開ける。

 昨日の瓶を取り出し、指先で卵黄の沈み具合を確かめる。


 今夜なら、いい。


 チリン。

 ドアベルが鳴る。

 入ってきたのは昨日と同じ常連。会釈も言葉もなく、カウンターへと腰を下ろす。


 マスターは振り向きもせず、ただ黙って準備を始めた。


 小皿に、熟成の進んだ卵黄を一つ。

 徳利に、ひと肌の燗。


 言葉は、ない。

 だがカウンターに置かれたそれを、常連は何も言わずに受け取る。


 小さく、杯が傾く音。


 静けさの中、黄身を箸で割ったときの粘るようなとろみが、店の空気をわずかに変えた。


 その背後、厨房の中でマスターの手が一瞬だけ止まり——

 また、何事もなかったかのように動き始めた。


 さくらはその様子をじっと見ながら、小さくつぶやいた。


「……なに、この無言のやり取り……」


 ママさんは笑わず、ただコーヒーを淹れながら答えた。


「言葉がない方が、伝わることもあるのよ」

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