喫茶星の雫 -case07- 常連の読み筋
午後の空気が、ゆっくりと沈んでいく。
静かな時間の中、マスターは厨房の奥で瓶の蓋を開けていた。
中に並ぶのは、濃い味噌に沈んだ卵黄。
ゆっくりと沈みゆく琥珀色。マスターはそれをじっと見つめ、やがてそっと蓋を閉じた。
——まだ、今日は出さない。
カウンターでは、常連のひとりがコーヒーを受け取り、ひと口だけ飲む。
そのあと、小さな菓子を指でつまんだ。
瓶詰めされたクリキュイット。マスターが気まぐれに焼いた分のおすそ分け。
常連はそれを口に運び、噛みしめる。
カリッ。
小さな音がひとつ。
そのあと、ほんの一瞬だけ——彼の手が止まった。
さくらはその動きを見逃さなかった。
「……?」
だが常連は何も言わず、ゆっくりと飲み干し、無言で会計を済ませて帰っていった。
ママさんはふっと微笑んでつぶやいた。
「……ああいう人なのよ」
⸻
翌日の夜。
マスターは、厨房で冷蔵庫の扉を開ける。
昨日の瓶を取り出し、指先で卵黄の沈み具合を確かめる。
今夜なら、いい。
チリン。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは昨日と同じ常連。会釈も言葉もなく、カウンターへと腰を下ろす。
マスターは振り向きもせず、ただ黙って準備を始めた。
小皿に、熟成の進んだ卵黄を一つ。
徳利に、ひと肌の燗。
言葉は、ない。
だがカウンターに置かれたそれを、常連は何も言わずに受け取る。
小さく、杯が傾く音。
静けさの中、黄身を箸で割ったときの粘るようなとろみが、店の空気をわずかに変えた。
その背後、厨房の中でマスターの手が一瞬だけ止まり——
また、何事もなかったかのように動き始めた。
さくらはその様子をじっと見ながら、小さくつぶやいた。
「……なに、この無言のやり取り……」
ママさんは笑わず、ただコーヒーを淹れながら答えた。
「言葉がない方が、伝わることもあるのよ」




