喫茶星の雫 -case06- ひとくちの記憶
午後の店内は、少しゆるんだ空気が流れていた。
ランチの混雑が落ち着いたあとの、束の間の静けさ。
薪ストーブの火も少しだけ弱められ、鉄瓶の音が遠くでことこと鳴っている。
さくらはふと思い立って、店の一角にある雑貨コーナーへ足を向けた。
マスターの趣味で並べられた古道具たち。手に取る人も少ないけれど、なぜか気になる空間だった。
木の棚の上、少し埃をかぶった小さな道具が目にとまる。
重たそうな取っ手、金属の蓋、側面に刻まれた細かな傷。
古い手挽きのコーヒーミルだった。
「……これ、ミル……ですよね?」
誰にともなくつぶやくと、すぐ後ろからママさんの声がした。
「そうよ。それ、昔マスターが使ってたやつ。まだ動くけど、今は飾り」
「これで……毎日?」
「そうね。お店を始めたばかりの頃は、ずっとあれで豆を挽いてたわ」
さくらはそっとミルに触れた。木の感触は少し冷たくて、でもやさしい。
手のひらに吸い付くようにしっくり馴染むその形に、なぜか心がざわついた。
「……なんか、見たことあるような気がします」
「ふふ、不思議ね。でもそういうこと、たまにあるわよ」
ママさんはそれ以上は言わなかった。
そのあと、さくらがカウンターを拭いていると、ママさんが瓶を手にやってきた。
「そういえば、マスターが珍しく甘いもの焼いてたのよ」
瓶の中には、小さな焼き菓子がいくつか。
「クリキュイットっていうの。お客さんにちょっとずつ出してるんだけど……ほら、味見しときなさい」
そう言って、ママさんはひとつつまみ、さくらの口元に持ってくる。
「はい、あーん……なんてね」
「え、えっ、あ、ん……」
くすくす笑いながら、ママさんはそのままぽんと口に放り込んだ。
表面は軽く焼き色がつき、ナッツが少しだけ乗っている。
ぱりっとした皮が薄く弾けて、ふわりとした甘さと香ばしさが口いっぱいに広がる。
──その瞬間、世界が一度止まった気がした。
何かが、胸の奥でかすかに鳴った。
「……あれ?」
味は、知らない。けれど、どこかで出会っている気がする。
舌ではなく、もっと奥——記憶の奥の方がざわついている。
「……これ……どこかで……食べた……?」
思い出そうとしても、何も浮かばない。
でも、なぜか涙が出そうだった。
「私、今日どうかしてるのかな……」
瓶の中のクリキュイットが、静かに光って見えた。
店の外では、猫が入口の日向で丸くなっていた。
目を細め、まるで何かを知っているような顔で、こちらを見ている。