9.海の見える場所
「杉崎さんはオーベルジュの担当になるんですか。それとも立ち上げだけ?」
「杉崎君にもみてもらうけど、熊埜御堂さんに中心になってやってもらうつもり。オーベルジュでの経験があるし」
答えたのは杉崎ではなく母だった。
「社長はこう言って下さるけど私は料理しかできないないんですよ。いまホテル関係の方に声をかけてらっしゃるんですよね」
「話は進めてるけど、アドバイザーみたいなものよ。だから実質的には熊埜御堂さんと杉崎君にがんばってもらうことになる」
信号で車が止まり、杉崎がチラと後ろを振り返った。
「楓さんが今日一緒に下見に来られたのは、オーベルジュに移るからだと思ってましたけど、違うんですか」
いかにも不思議そうに言うけれど、わたしがオーベルジュに移るなどと杉崎が本気で思っているはずはない。どうせメゾン・ド・アリスにしがみつくつもりなんでしょう――、そう暗に言いたいだけだろう。
「楓とも交渉中よ」
母の言葉で紅葉が興味深そうにわたしを見た。
車は県道を走り、トンネルを抜けると松林が目に入った。すぐ左折すれば例のリゾートホテルの予定地だが、杉崎は車をまっすぐ走らせる。道はカーブを描き、紅葉は沿道に並ぶ土産物屋やレストハウスを物欲しそうに眺めていた。
「楓さん、もし予定がなかったらこのあと案内してもらえないかな。楓さんのことも知りたいし、引っ越しが片付いたばかりでほとんど出歩いてないの」
圭吾がこの場にいたら溶けてしまいそうな、女のわたしから見ても魅力的な笑み。第一印象は自立した女性だったのに、今はどこか頼りなさげだ。知らない土地で知らない人ばかりなのだから、これが素の表情なのかもしれない。
「分かりました。じゃあ、ランチしながらどこに行くか考えましょう」
「本当? うれしい」
無邪気に胸のまえで小さく手を叩く紅葉は、見た目と妙にアンバランスだった。車は松林の中を走り、時折ひらけた場所で海が見えるたびに紅葉は声をあげる。
「長野は海がなかったから。やっぱり海いいですね」
「晴れてたらもっと綺麗なんですけど」
「また晴れた日にも来たいなあ」
風はほとんどなく、曇天の空を映した海面は白っぽく鈍い色をしていた。
「焦らなくてもオーベルジュで働きはじめたらいつでも海が見れるわよ。冬は荒波だけどね」
母はそう言って紅葉に微笑みかける。
松林が切れ、車は海水浴場のさらに先へと進んでいった。右手に並ぶ古びた民宿のほとんどが営業しておらず、建物のすぐ裏手には木々が生茂り、道の突き当りには鳥居が立っている。
「ここですね」
杉崎はそう言って道の端に車を寄せて停めた。
古い民家の間にある雑草の生えた更地、道をはさんで反対側には公園が整備されており、その奥に桟橋、そして海が見える。車から降りた紅葉はゆっくりと左から右へと景色を見渡した。
「素敵。メゾン・ド・ラメールってとこかしら」
数分もたたないうちに一台の車がワゴンのすぐ後ろに停まった。メタリックなオレンジ色をしたSUV。ティーズアクトがよく店舗設計を依頼している白木設計事務所の車だ。
「すいません、お待たせして」
車から降りてきたのはふたり、社長の白木正雄と息子の白木創だった。これまでどおりなら息子の創が主となって話を進めることになる。彼の年齢は紅葉と変わらないが、たしか娘がいるはずだった。
「今度の店は女性スタッフがメインですか」
白木社長に杉崎が「女性ばかりだと肩身がせまくて」と話をあわせる。白木親子の視線は最終的に紅葉に据えられた。
「こちらのキレイなお嬢さんは初めてお目にかかりますな」
こんな田舎にこんな美人がというような、どこか感心した目で白木社長は紅葉を見ていた。息子のほうは「はじめまして」と控えめに挨拶だけ口にする。
「熊埜御堂紅葉です。シェフをさせていただくことになりました」
紅葉が頭を下げると、創は「へえ」と驚きの声をあげた。
「シェフですか。すごいな」
「白木さんこそ、社長からお話は伺ってます。白木さんに任せたら大丈夫だって」
母と白木社長、杉崎の三人はいつの間にか古びた民家の方へと足を向けていた。紅葉と創は談笑しながらのんびりした足どりで彼らに続き、わたしは紅葉の横にくっついて歩いた。
なんとなく居心地の悪さを感じていた。