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渡辺泰子


 「早苗、どうしたのよ? 何か言われたの? ママが守ってあげるから、大丈夫よ?」


 コンコン、と軽くノック――返答なし。

 さっきからこればっかり。役立たずの熊谷からは何の情報も得られないし、娘は自分の部屋に閉じこもっちゃったし、……はぁ。吐いた息は、重苦しく地面に落ちて消える。


 早苗がこうなることなんて、今までなかった。だってあの子は、明るくて、楽しいことが大好きで、心優しくて、そう、ご近所のお婆さんからお饅頭を貰ったら、「半分はママにあげる」って持って帰るような。なのに、どうして?

 どうして今は、私の声に答えてくれないの? 間違いは、どこで起きたの? 私の何がいけなかったの? ……いいえ、私が間違ってるんじゃない。きっと、あの学校がおかしいのよ。


「早苗、お願い。何があったかママに話して欲しいの。千鶴ちゃんと何かあった?」


「うるさい!」


「……っ!」


 初めて返事があった。どれだろう。どの言葉が早苗に返事をさせたのだろう。


「やっぱり千鶴ちゃんと……」


「うるさいって! もう2度とその名前を出さないで」


「ご、ごめんなさい」


 聞いたこともないような、ものすごい剣幕。つい謝ってしまった。

 一旦、そっとしておいた方が良いのかしら……。


「ごはん、出来てるから……落ち着いたら食べてちょうだいね。リビングにあるわ」


 再び静かになったドアを一瞥し、リビングへと戻った。


◇◇◇


 早苗は昔から友達に恵まれないの。本当に可哀想な子だと思う。

 家でどんなに可愛がられても、学校で嫌な思いでいるからストレスが溜まっちゃうのよね。


 中学生の頃が特に酷かったのよ。

 入学してすぐ。そう、自然教室が終わった辺りね。急に友達が離れて行ったらしいの。きっと、運悪く変な子に目を付けられたのね。だって早苗は悪くないもの。心優しい子よ、早苗が悪いはずないじゃない。

 だから今回も、きっとまた変な子に目を付けられたのね。優しいから、抵抗しないと思われちゃうのよ、きっと。高校に入ってから今までは、千鶴ちゃんと仲良くしてたみたいで、とても楽しそうに学校に行っていたのに。なのに、よ。今日は学校から帰るなり、自分の部屋に閉じこもったままなの。きっと泣いてるのよ。啜り泣きが聞こえるもの。あぁ、また変な子に目を付けられたのね、って思って。あ、それか、千鶴ちゃんが変な子だったのかも知れないわね。きっとそうよ! 千鶴ちゃんの名前を出したら、ものすごい剣幕で怒ってたから。イマドキの子って酷いのね。1年半仲の良いふりをして、それでいきなり本性を現すなんて。本当に酷いわ。あぁ、涙が出てきた。……ねぇ、あなたも考えて。私はこれからあの子の

為に、何をすれば良いの?


 写真の夫に向かって語り掛けても、全く応答しない。当たり前だけど。あぁ、本当にどうしたら良いのかしら。


「ねぇあなた、教えて。私はどうしたら良いの?」


 早苗はよく、こんな私を見て「怖いからやめて」と言っていた。まぁ、そうよね。遺影に語りかけてるんだもの。

 でも、たかが写真でも、やっぱりこの人は私の夫。大事な夫なのよ。早苗にとっては知らない人かも知れないけれど……。


 早苗、ご飯食べないのかしら。私はそろそろお風呂に入るとするわ。早苗に一言掛けて入ろうかしらね。早苗も気分が変わるかも知れないし。


◇◇◇


 「早苗、早苗! 朝よ、起きて。遅刻するわよ」


 はぁ……相変わらず返事がないわね。よっぽど酷いことを言われたのかしら。


「早苗、学校遅れるよ」


「いかない」


「……え?」


「行かない」


 行か、ない?

 今まで、病気以外で学校を休んだことのない早苗が?


「ど、どうして? やっぱり学校で何かあったの?」


「とりあえず、行かないから」


「早苗! 早苗ってば!」


 もう、返事は聞こえて来ない。


「せめて、ご飯は食べてちょうだい……後で持ってきてドアの前に置いとくから…………そしたら良いでしょう?」


 返事のないドア。

 そう。結局昨日の晩御飯はラップを掛けたまま冷蔵庫に入っている。親が1番嫌なのは、子どもがご飯を食べないこと。自分の作ったご飯さえ食べてくれれば、安心する。

 早苗の朝ごはんをお盆に乗せ、運ぶ。


「……置いておくわね」


 一言掛けて、リビングへと戻る。


 ねぇあなた。

 あなたが亡くなってから、私、頑張ったのよ。

 パートで必死に働いて、娘を1人で育ててるの。偉い?

 テレビやCDプレイヤーは買えないし、もちろん贅沢は出来ないんだけど、それでも私、娘を私立に通わせてるの。すごいでしょ?

 新聞も取れないし、雑誌も買えないけれど、私たちは生きてるのよ! 生活が成り立ってるの。だからどうか、私立に行かせたことが間違いであって欲しくないの。こんなに努力して行かせたのに間違いだったなんて、信じたくないの。

 ねぇあなた。あなたならこういう時、どうする?


◇◇◇


 熊谷の力を借りられないかしら。

 昨日はあんな風に言っちゃったけど、あの人が何も知らないのが悪いんだから。それに、事情を話したらきっと分かってくれる。だって、早苗が尊敬する人なんだもの。

 そう。早苗はいつもそうだった。何かにつけ「熊谷、熊谷」って、よっぽどあの人と気が合うのね。

 私が学校に電話しようとしたら、「熊谷にして」って言うの。理由は……確か、担任は忘れっぽくて、どんな悪質ないじめの報告でも、ちゃんと解決しようとしないからだって。熊谷はその点、安心らしい。まぁ、先生なんて誰でも一緒な気がするけれど、早苗の気が済むならそれで良いのよ。先生の好き嫌いなんて、普通にどこででもあるんだろうし。


 そんなとりとめもないことを考えていたら、急に電話が鳴った。

 急に、なんて馬鹿みたいね。電話が前置きするはずないのに。


「もしもし」


――もしもし、城北女子高、学年主任の松山ですが。


「はぁ」


 何だろう。学年主任に何か言われるようなことがあったかしら?


――渡辺さんのお宅でしょうか?


「ええ」


――早苗さんはご在宅でしょうか?


「ええ。あ、今日は休ませます」


――風邪ですか?


 一瞬、「何故ですか?」に聞こえて焦る。


「体調が良くなくて」


――……そう、ですか。あの、もうご存知かも知れませんが、岬千鶴さんが亡くなりました。


 えっ?

 岬千鶴が、亡くなった?


「え、あの、早苗が仲良くしていただいている?」


――そうです。なので、1番一緒にいた、渡辺早苗さんにお話を伺いたいのですが…………。


 早苗は今、話せる状態にない。あんな状態を見られたら、早苗が犯人だと思われてしまう。


「申し訳ありません。体調が本当に優れなくて」


 早苗を守らなきゃ。

 私が何とかしないと、弱い早苗は負けてしまう。


――でしたら、そちらに警察が向かっても大丈夫でしょうか?


 警察?! 冗談じゃない。

 でも、ここで断ったら、早苗が犯人だと疑われてしまう。


「……分かりました。でも、今から病院で家にいないので、明後日くらいに…………」


――分かりました。お伝えしておきます。お大事になさってください。失礼します。


 無表情な言葉の羅列を聞き流しつつ、私は恐ろしいことを考えていた。


 早苗が、本当に犯人なら?

 早苗が、何らかの理由で千鶴ちゃんを殺してしまっていたら?


 愕然とした。

 全てがぴったりと当てはまるのだ。

 千鶴ちゃんを殺して家に帰り、時間が経つにつれ、罪悪感が膨らんで…………。そしたら、昨日、千鶴ちゃんの名前に過剰反応したのも頷ける。

 そんな…………。

 い、いや、事故よ。これは事故。きっと事故で殺してしまったの。ううん、彼女は目の前で勝手に階段を転げ落ちたのかも知れない。あぁ、それでも、


 それでも、疑われるのは、早苗だ。


 逃げないと。

 ここから早く、どんな手を使ってでも。

 私が守ってやらないと、弱い早苗は崩れてしまう。

 早苗、早苗、お願い、出てきて。ママの手を取って。ママはあなたの味方なのよ。


 期限は明後日。

 それまでに、この可哀想な早苗を守る方法を。


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