熊谷佐知子
2組の渡辺と岬の空気がおかしい。そのくらいのことは、隣のクラスの担任である私にも分かる。渡辺は特に、注意すべき生徒だって調査書にあったし、目線がどうしても行ってしまうから。なんでも中学生の頃に虐められていたらしい。問題を起こしているという自覚が無いのが1番の問題、そんな生徒だ。
職員室の机で1人溜め息を吐く。
「熊谷先生、お電話です!」
「……はい」
どうせまた、渡辺の母親からのクレームだろう。どうして担任でも学年主任でもなく私なのだろう。
席を立ち、受話器に手を掛ける。大きく息を吸い込み、小さく吐く。
「もしもし、城北女子高校、」
――ちょっと、あなた何考えてるの?
名前も言えなかった。どうやら相当ご立腹らしい。
「……ええと?」
――ええとじゃないわよ! ウチの子今日、泣いて帰ったのよ! 中学の頃の情報を、生徒の誰かに洩らしたんじゃないでしょうね?!
「い、いいえまさかそんなことは」
――中学の頃のしょうもない友達と別れさせたいからそちらに行かせてるの。分かります? そちらの学校、生徒のレベルが落ちたんじゃありませんこと?
「生徒のレベル」と言ってしまえば、あなたの娘さんも同じく低レベルということになりますよ――なんて言えない。
「何かおありになられたのですね、私じゃ役不足で申し訳ないので、担任か学年主任に、」
――役不足?! あなたも一担任なのでしょう?! どうしてそういうことが言えるの?!
「ですから、私では日頃の様子等は……」
――分かりました。もう良いです。
ガチャン、と一方的に切れた電話。虚しい電子音が耳に入り、不快感を増長させる。
「はぁー……」
受話器を乱暴に置きそうになり、周りからの視線に気付く。ダメダメ。落ち着くのよ、私。ここで問題を起こすのは決して賢くない。
受話器をそっと置き、椅子に座る。回転式の椅子は、ギイッと小さな音を立てた。
手刷りにも背もたれにも寄り掛からず、机に肘を着き、頭を抱える。
ダメ、ダメ。落ち着いて。渡辺のことは良いの。ひとまず置いといて。
吐く息が微かに震える。余程はらわたが煮えくり返っているらしい。
「あの、熊谷先生って……」
小さな声。誰か生徒が訪ねて来たのだろう。
「熊谷先生、お忙しいから」
「そうなんですね……また来ます」
去っていく足音。
――熊谷先生、お忙しいから。
私はいつから「忙しい」の烙印を捺されるようになったのだろう。1番嫌いな言葉なのに。忙しくたって、そんなの表に出さないで楽しそうに仕事してたいのに。
誰も私を見ていない、そんなことは分かっている。でも、なんだか自分が晒し者にでもなった気がして、逃げるように職員室を出た。
◇◇◇
教員をやっていると、時々私の味方は誰もいない、という謎の概念に取り憑かれる。これはれっきとした職業病だと思うのだけれど、他の先生方はどうなのだろう。……ううん、そんなことはどうでも良い。私のことじゃないでしょ? 今考えるべきは、生徒のことよ。しっかりして。
別館の廊下を歩きつつ、私は頭を抱える。ひんやりとした別館は、人気も少なく考え事をするには打ってつけだ。
渡辺と岬。
この2人に何があったのか? ……そんなことは分からない。私のクラスで喧嘩があった時はどうしたんだっけ? 生徒2人を呼んで、別室で話を聞いて、解決させて…………それをまた私にやれって言うの? 他のクラスのことなのに? だいたいあの母親も母親よ。どうして担任や学年主任じゃなくて私なの? その意図が分からない。
そもそも私には、自分の担任するクラスのこともあるのに。そんなに沢山面倒見きれる訳が無いじゃない。……はぁ。考えていてもキリがない。そう、元々考えて行動する質じゃないでしょ?
気を取り直して。深呼吸して。
よし。
「こんにちはー」
「こんにちは」
無邪気な声に、満面の笑みで返す。
そう。私はこうでなくっちゃ。悩むなんて、らしくない。なんとかすれば、どうにかなるのよ。
◇◇◇
「熊谷先生」
「はーい」
もうそろそろ帰ろうか、と支度をしていた時だった。
笑顔で振り向くと、1組の担任。
「ちょっと……」
魚の小骨が喉に引っ掛かったような磯田を見て、不吉な予感が襲う。
「ちょっと気になるんですが……3組の小林さん」
「へっ? 小林、ですか?」
誰もいない会議室で、磯田は唐突に切り出した。
小林と言えば、委員長気質の真面目な子だ。生徒会役員も務めている。
「はい。彼女、2組の佐川先生のことを、その……」
言葉を選んでいるらしい磯田。しかしもう言いたいことは分かった。
「それは本当ですか」
「ええ、まぁ……根も葉もない噂だと思いたかったのですが……私も最近、2人が一緒にいるところを見てしまいまして…………佐川先生からすると、孫のような感覚なのかも知れませんが、小林は……」
随分薄くなってきた頭頂部を掻くと、磯田は私を見上げた。
「そうですか……。分かりました。どうにかします」
「……どうされるんですか?」
そんなことは後々考えれば良いでしょう。――そう言いたかったが、確かにそうだ。一体どうしようと言うのだろう。これは、佐川と小林の問題だ。第3者が口出しして良い問題じゃない。
「…………申し訳ありません。考えが足りていませんでした」
「い、いえ、謝って頂きたいのではなく、どうされるのか気になっただけです。でも、気を付けていた方が良いのは確かですよね」
「ええ。気を付けておきます。ありがとうございます」
頭を下げると、磯田も下げた。歳がいっている割に頭が低いのは好感が持てる。
失礼しますと頭を下げ、磯田と別れた。
次はウチか……。しかも、50中頃の教員が好きってどうなの? 趣味おかしいんじゃない? しかも佐川も「孫のような感覚」って頭おかしいでしょ。その気持ちがどんなトラブルを起こすかも知らないんだろうなぁ。もしくは、磯田の言っていることが全く証拠のない戯れ言か。
ウチも大概で問題は抱えてるんだから、これ以上色々やらないで欲しい。大人しく学校生活を送ることは不可能なの? ……まったく。
はぁ、と溜め息。
「よし、帰ろう」
今日の夜ご飯は何だろう。あ、今日何か面白いテレビ番組あったかな?
そんなことを考えながら職員室へと足を進める。
少しでも楽しいことを考えてないと、崩れ落ちてしまいそうだった。
◇◇◇
「ただいまー」
「おかえりー」
息子2人と旦那の、元気な声。とりわけ元気なのは、小4の次男。リビングから勢い良く飛び出して来て、ぎゅうっと抱き付いて来る。
「ママ、今日カレーだよ! 僕、じゃがいも剥いた! えらい?」
「えらいえらい」
私の腰に抱き付いたまま、顔を精一杯上に向け、自慢気だ。そっと頭を撫でると、生え際が少し汗で湿っていた。余程根詰めて剥いたのだろうか。
「おかえりー。遅かったねー」
旦那と長男がリビングから出てくる。小6の長男は、袖を捲った腕がもう大分逞しい。
「ごめんごめん。ちょっと野暮用が……」
「そうか……大変だな」
そして旦那の心配そうな顔。
私にはこれで十分だった。これ以上の幸せは要らない。
すぅっと胸いっぱいに息を吸い込むと、カレーの良い香り。
「あー、お腹空いたね。早く食べたい!」
「食べよ食べよー!!」
次男の元気な声と、長男の、ぶっきらぼうだが心のこもった言葉、旦那の優しさ。
そうだ。私は幸せなんだ。
「何泣いてんの」
リビングに着くなり溢れてしまった涙にいち早く気付いたのは、やっぱり長男。
「ママ、幸せだなって思って。ごめんね」
「……謝んなよ」
少し赤くなった頬を見られたくないのか、長男はさっさと台所に戻ってしまった。
食卓に並び始めたカレーは、少し具材は大きいものの、とても美味しそうだった。――否、この人たちが作ったものなら、どんなものでも食べられる。
――プルルルルル、
携帯電話が鳴っている。
「ごめん、ちょっと電話出てくる」
「はーい」
「早く戻って来てねー!」
暖かに見送られ、私はリビングを出る。たかが電話に出るだけなのに。くすっと笑い、携帯電話を開く。
「もしもし」
――緊急だ。岬千鶴が亡くなった。明日の朝緊急会議を開く。6時には来て欲しい。
「えっ、岬、?」
2組。渡辺。様子が変。
矢継ぎ早に単語が出てくる。
――詳しいことは明日。連絡網はキミが最後だから回さなくて良い。それじゃあ。
岬が、死んだ……?
何故? 事故? そうだ、事故に違いない。殺人事件など、あってはならない。
内心で自分のクラスでなくて良かったと安堵している自分が憎い。
「ママー、まだ?」
「こら! しっ」
次男の待ちきれない声と、長男のそれをいなす声。
「今行く!」
携帯電話をポケットにしまいつつ、私は大きく息を吐く。
落ち着くのよ、私。




