岬千鶴
格好良い女性への強い憧れ。それだけだった。
だって、話したこと、ないし。授業だって、非常勤の先生だから私には縁がないし。なのに。
「彼氏いるんですか~?」
「いないよ」
「少し困ったような笑顔」さえも見せない無表情な顔。動揺することとか無かったのかな。今まで生きてきて。
指輪のことに触れても、どこ吹く風。……いや、そんな涼やかな表情もしてないか。ただ、質問されたから答えている、それだけ。みたいな。
下手したら蚊の方があの人の表情を動かせるんじゃないか、と思い付いて急いで掻き消した。私が傷付くから。
「あ、待って」
授業を始めようとする先生を慌てて止める。
「先生、いっつもオルガン弾いてる人……?」
「……あぁ、まぁ、そうですけど」
これは念のため。だって知ってるもん。この人だって。本命は次。
「いつもは指輪着けてない……ですよね?」
「……オルガン弾く時はね」
「ふーん……」
凪先生が結婚している、という事実は案外私を驚かせなかった。傷付けはしたけど。だって、30代だし。多分。こんな女性に好かれる男もいるんだな……。是非とも会わせて頂きたいものだ。
それにしても。指輪、外しちゃうのか……でも弾く時以外は着けてるってことでしょ? やっぱり旦那さんのこと、好きなのかな?
……いやいや、当たり前でしょ。結婚だよ? 付き合ってるんじゃないんだよ? 全く……。
見知った範囲でしか考えられない自分に嫌気が差す。
「み~さきち~アルトこっちだってよ~」
「えっ、あ、うん」
「次は何考えてたの?」
「えへへ……内緒。行こ、早苗」
凪洋子先生。今度、個別に話し掛けてみようかな。あの人が表情を変えるところを見てみたい。
「内緒」に不満げな早苗の手を引き、アルトの集合場所へと向かった。
◇◇◇
「ん……っっ」
真っ暗な部屋に、微かに響く熱い吐息。
何でこんなことしちゃうのかって、まぁ、年頃だからってことにしとく。
行為も佳境に入ってきた時、脳裏にふとよみがえった。凪先生の無表情な顔が。
……凪先生、結婚してるんだし……旦那さんからヤられる時ってどんな表情するんだろ……。
「あ、嘘っ、待っ……!!」
飛び散る閃光に耐えながら、荒い呼吸を整える。走った後と違うのは、吐息の熱さだろうか?
大人の女性が最高のオカズだなんて、そんなこと誰にも言えない。
私には、誰にも言えない秘密がある。それも、たくさん。笑顔だからって、純粋な訳じゃない。笑顔だからって、怒っていない訳じゃない。
笑顔は1番丈夫な壁だ。
◇◇◇
「みーさきち」
「なに」
「みさきちってさ、どっちが名前か分かんなくなるよね」
「どっちも名前だけど」
ニヤッと笑うと、早苗もつられたように笑った。
「そうじゃなくて。どっちも氏名の名だよね」
「違うけど……?」
沸き起こる爆笑。早苗の笑顔は最高だ。私の偽物の笑顔なんかよりもずっと。
「もう、私バカだわぁ……ほら、あのさ、岬と千鶴が……」
「伝わってる伝わってる」
「伝わってるならそんなリアクションしないでよ~」
早苗は私としかこうやって喋らない。こうやって笑わない。面白いことが大好きで、だから早苗は「面白い」私が好きだ。
……あぁ、私、芸人じゃないのに、なんで「どうしたら笑いを取れるか」なんて常に考えてなきゃいけないの? 唯一の救いは、早苗の沸点が低いことだ。
「熊谷てぃーいないね。寂しい?」
「え? まぁ……でも寂しいなんて、認めたくないよね」
笑う。これは、さっきの笑いとは違う。秘密を共有した時の、他の誰にも言わないことを共有した時の笑い。早苗は「秘密」も大好きだ。
「みさきちは、なんかそういうのいないの?」
「うーん」
早苗の「なんかそういうの」の基準は、かなり難しい。言葉ではとてもじゃないが説明出来ない。無論、人によっては感じることも不可能――私も、伊達に付き合わされてないってことだ。
好きな人でもなく、好きな先生でもない。
「……凪先生、とか?」
「凪先生~?」
うーん、と首を傾げる早苗が、どこが? とでも言いたげな視線を投げる。
……どこ、なんだろう。
「尊敬、って感じかな」
「じゃあ、やっぱ熊谷だね」
「熊谷、包容力はあるよね。あの笑顔とか」
「そう。あの笑顔がダメ。騙されちゃう」
「詐欺やんね」
笑う早苗は、端から見たら恋する乙女にしか見えない。でも、同性での恋愛については否定しかしない早苗だ。熊谷先生に恋なんて、あり得ないのだろう。
「熊谷か~……」
嫌いじゃないんだけど、やっぱり怖い。機嫌に波があるのが嫌。機嫌が良い時は素敵な笑顔のくせに、悪い時は冷たい空気を纏う。自分のクラスに絶大なプライドがある。そして、自分のクラスが何よりも優れていると思っている。
そんな熊谷が、怖い。
だから、早苗みたいに純粋に熊谷を信仰出来ない。
早苗は、熊谷に好かれてるから。
だから、私に熊谷は必要ないんだ。
◇◇◇
今この人はこう言って欲しいんだろうな、とか、私が求められていることは、とか、そんなことばかり考えて生きて来た。
別にその生き方が嫌な訳じゃない。確かにちょっとキツい時はある。でも、だからと言ってそれを止めて生きて行くのは怖い。
徹底的に思考しないと行動出来ない。思考で臆病を補う。それが私なんだ。
「みさきち~」
「ん?」
「授業中遊ぼ?」
「ん……うん」
曖昧に笑う。本当は授業を受けたい。いや、真面目な生徒とかそういうことじゃなく、本格的にテストの点数がマズイのだ。
「じゃあさじゃあさ、絵書くから面白いセリフ付けてよ!」
「良いね!」
出ました。「面白い」セリフ。いつものこととは言え、少しげんなりもする。私が普通の人間だってことを忘れているんじゃないだろうか?
楽しそうな早苗。ここで乗らなかったら、「友達」失格になる。彼女は友達を選別しているところがあるから。
……私以外友達いないくせに。思わず漏れてしまった愚痴に、一瞬口に出してしまってないか焦り、早苗が楽しそうに準備しているのを見て、苦笑いを浮かべる。私だって愚痴くらい言いたくなるものだと、はっきり世界に知らしめてやりたい。……世界というのは言い過ぎかとも思ったが、しかしその時私は、はっきりとそう思った。
「ほい、みさきち」
早苗の言葉と共にチャイムが鳴る。
「この授業終わるまでに考えといてね」
いたずらっ子のような笑み。
「オーケー」
渡された、何枚もの裏が白いプリント。よく見ると、そこに大量の絵が書かれている。……授業は諦めるしかないな。
いつものように「ノリの良い友人」で「いたずらっ子のような笑み」を返した。
◇◇◇
いつものように、自分の部屋で1人思考していた時のこと。私は気付いたんだ。早苗と一緒にいなきゃ良いんだ、って。
私に友達が少ない訳じゃない。むしろ多い方だと思う。教室を移動してる時、他のクラスの人にもよく話し掛けられるし、――そんなとき、早苗は1人でスタスタ行っちゃうんだけど――学級委員やってるし、とりあえず仕事はそつなくこなしてるはずだから、先生にも頼りにはされてるし。そうだ。私が離れて困るのは、早苗なんじゃないの?
……決まり。私は明日から、早苗と一緒にいない。




