第六章 光の向こう側11
眠らない町。
父さんが、最初に東京へ出て来て思ったことだそうだ。交差点で信号待ちしている明日歩は、途切れることなく渡って行く人の群れを見て、そんな言葉を思い出していた。
あれは確か中三の頃、嫌がるオレを無理やり連れだって初参りに行く途中に話していた。
「オレんとこも相当賑わうけど、ここほどじゃなかった。なんか疲れちまうよな。気が抜けねーっていうかさ」
それを聞いて、バカじゃねーのと思ったけど、こんなの普通だしっていうか、この齢で親子そろって歩く方がキモいんですけど。そんなことを思っていた。まさか、自分が年末年始くらい親子水入らずにさせろなんて言葉、吐くとは思いもしなかったあの日。
オレンジ色の外灯にホッとしながら、扉を開く。
「おかえり。早かったね~」
「ああ。ただいま」
オレは、この人を笑わせたかっただけなんだよな。父さんとの約束だったのに。結局、悲しませてばかりだ。
一年の節目を迎え、賑やかなお笑い番組を見ながら、二人で久しぶりに笑った。
除夜の鐘が聞こえ、二人でそばを啜る。
父さんがいた頃は、ここで決まって新年の決意を叫ばされていた。どんな意味があるのか、さっぱりわからない我が家の恒例行事。そんなものがここにはたくさんあった。嫌がるオレに執拗に迫ってくるあの父さんの顔も、今は何て言うか、もう一度会いたい。
明日歩は、フーと息を吐き、箸を置いた。
この一年半、何だったんだろ?
間宮が突然やって来て、歩のサプライズを敢行すると言われ、ずるずると入ってしまった世界は、煌びやかすぎて目がくらみそうだったなと、しみじみ思う。
「母さん、オレ、結婚したい人がいたんだ。ずっと好きで好きで、運命の人だと思ってたんだけどな。俺じゃダメだってフラれちゃったんだ。絶対、上手く行くと思ったのに、そんな自信は木っ端みじんにされちゃって、参ったよ」
お茶を啜る奈緒は、フーンとテレビから目を離さずに、気の抜けた返事を返す。
「今年は、映画を一本撮って、それで終わりだ」
「少し、詰め過ぎていたみたいだから、良かったんじゃない?」
汚れた食器を一つにまとめ出した奈緒に、手伝うよと明日歩も皿を持って一緒に台所について行く。
「……オレ、引退しようと思う」
奈緒は皿を洗いながら、そうと答えた。
「そのあとは、教師になろうと思うんだ」
明日歩は、皿を洗う手をじっと眺めていた。
皺だらけの手だ。結婚指輪がぶかぶかになってきたと言って外されている指。
「母さんは、父さんと結婚した時どう思った?」
何気なく口を継いで出てしまった言葉だった
奈緒が水を止め、手を拭くと指輪を嵌め直す。
「私は、結婚しないつもりだった」
指輪を弄りながら言う奈緒の顔を、明日歩は驚いたように覗き込む。
いつだって、二人は結ばれるために生まれて来たかのように、仲が良かった。信じられないと言う明日歩に、奈緒は遠い日を懐かしむように、目を細める。
「歩は本当に優しくって、私を心から愛してくれていた。だからこそ、私は歩の夢を潰してはいけないって思ったの。だってそうでしょ。あんなに素敵な人よ。私と歩じゃ釣り合うはずがない。歩には、もっともっと輝いて欲しい。独り占めなんかできないって、部屋を飛び出したの」
茶の間に戻り、自然と二人は歩の写真に目をやる。
「でも、違っていたのよね。歩はそんなものは、何も望んではいなかった。平凡で普通の幸せがあれば良かったのよ。笑って話をしたり、どうでも良いことで喧嘩になってしまっても、謝って、許して許されて……」
奈緒が、ハーとため息をつく。
「ちょうどそこだった」
奈緒は、明日歩が座っている場所を指さす。
「奈緒さんと、結婚させてくださいって、頭を下げたの。あんなに素顔になることを嫌っていたのに。髭も髪もきれいさっぱりさせて、何年も一緒に暮らして来たのに初めて見る歩だった。本当にこんな人から、プロポーズされているのかと自分を疑ったわ」
奈緒は、目頭を押さえる。
「明日歩、その人のことを愛しているなら、きちんと向き合いなさい。本当に自分はどうしたいのか、どうすればその人が幸せになれるのか、嫌になるくらい悩んで考えて、決めたら絶対に変えちゃダメ。一生報われなくなるわよお互い」
明日歩は、何も言えなかった。
ただ、ちゃらちゃらと愛してあっているだけの両親だと思っていたのに。




