第四章 夏の微熱2
自分のせいで右往左往する周囲の人たちに、明日歩は気をもむが、出した結論は……。
事態が動いたのは金曜日の放課後だった。
騒ぎもようやく落ち着き、明日歩はバイトへ行くまでのわずかの時間を図書館で過ごすようになっていた。
奈緒は滅多に明日歩のすることに口出しはしてこない。その分、歩との約束が、明日歩の心にずっしり圧し掛かって来る。
走るのを辞めてしまった以上、残された約束はただ一つ。学力を下げないである。大学へ進む気が全くない明日歩は、身を入れて勉強する気にもなれずにいた。
図書室にある分厚い本を探した明日歩は、うわの空でページを捲って行く。
あずさのことを考えていた。
自分の気持ちをどう伝えればいいのか、まったくわからじまいなのだ。克己に相談しても、告ればいいじゃんの一言で片づけられ、それが出来たら苦労しねぇっていうの、と毎度同じ結果が織りなされるという有様だった。
この浮いた時間、あずさと過ごせたらどんなにいいだろう。
外を眺めながら、ぼんやりそんなことを考えていた明日歩は、人の気配に気が付き、ゆっくり視線を戻し、目を大きくする。
疲れた顔をした森崎だった。
「話がある。ちょっと付き合ってもらえないか」
何の話だろうと、明日歩は眉を顰め森崎の後に続いた。
それにしてもと思う。
森崎は明日歩のクラスは担当していない。部活を辞めてしまったいまでは、一週間のうち、会うのは一、二度で、見かける程度のものだった。
だいぶ白髪が増え、もう少し貫録があったように思える背中が、廊下の隅までたどり着くと止まる。
「お前は一体、何もんだ」
しゃがれた声が余計しゃがれてた声で、唐突に訊かれ、明日歩はきょとんとなってしまう。
振り返った目は真剣そのもので、だからよけい明日歩は言われている意味が分からなくなってしまう。
「あの先生、何を仰りたいのか」
あからさまに息を吐き出した森崎が、右頬を視きりに撫でる。
「俺としては、お前のような才能があるやつが思う通りに練習もできずにいることが、勿体ないように思えて仕方がなかった。なまぬるい気持ちでは、トップは目指せない。言葉が足りなかったと言われればそうかもしれない。中田、お前がしようとしていることは素晴らしい。でもそれはお前だけに通用することで、他のものからしては、どうなんだろう? 必死に努力してもがき苦しんでいる奴らの思いは報われるのだろうか。俺はおまえひとりを守ることより、部員全体を守りたいと考えた。この考えは、何があっても変える気はない。だがだ。だが時と場合によってはその信念を曲げなくてはならなくてはならない時もある。頑固を通せば角が立つのも知っている。俺はそうして48年間を生きて来た。教師になって20年以上になる。こんな思いをしたのは初めてだ。全力でみんながお前を守りたがる。なぜだ? 中田、しつっこいようだがお前は何者なんだ?」
苦しそうに言う森崎の額に、くっきりと刻まれた皺は、以前にはなかったような気がする。重たい空気が流れ、明日歩の中に罪悪感がチラつき始めていた。
「すいません。オレは何者でもありません。普通の生徒です。まさかこんなに先生に迷惑をかけるとは、思ってもいませんでした。オレはただ、母親だけに負担を掛けたくない一心だけだったんです。オレがバイトをすることは、母親も反対しました。先生が言うように、家計は私に任せろと。でも、父親が亡くなって、オレがこの人を護らなければなんて心に誓ってって……、自分のことは自分で何とかしようって。でもそれが迷惑になると言われれば引き下がるしかないのかなって、思ったりして」
支離滅裂になる明日歩に、森崎は力なく笑ってみせる。
「もうそのことはいいんだ。この一週間、お前の頑張りは、嫌っていうほど聞かされたよ。お前の思うように、やっていいから、この通りだ戻って来てくれ」
森崎は疲れ切ってしまっていた。
森崎は人に注意をすることはあっても、されることはない教師生活を送って来ていた。怖いとさえ言われた時期もあった。生徒のみならず、同僚にまで苦言を呈され、それでも信念は曲げたくはないと思っていたのだが、こうして生徒に頭を下げなければならない自分が、情けなく思う。万感の思いが込み上げて来る。なにくそと思うが、森崎とて守らなければならないものがある。多少の痛手を受けても、ここは曲げるべきと判断したのだ。
深々と頭を下げる森崎に、明日歩は戸惑う。
そんなつもりなどさらさらなかった明日歩である。
バイトを辞めるか部活を辞めるかの二択。明日歩は部活を辞める方を選んだだけ。森崎の言葉が影響したのは確かだが、それほど大袈裟なことではなかった。それはとっくに解決したものと思っていた明日歩だった。
数秒間を置いた明日歩。
知美や哲平に真意を確かめるには、少々気まずい明日歩である。しかし、自分が知らないところで、何かが起こっているのは確かだった。頭がクラクラしてきて、明日歩は吐きたくなってきた。
「少し、考える時間をください」
「分かった」
顔を少しだけ上げて答えた森崎は、踵を返す。
戻って行く後ろ姿を見ながら、明日歩は身につまされる。
何が母親を守りたいだよ、と明日歩は思う。




