プロローグ・case.1
「入るぞ」
合図をして軋む扉を肩で押し開けると、室内に溜まった長年の埃が空気を重く濁らせた。
踏みしめる床板は脆く、体重をかけすぎれば抜け落ちそうな気配さえある。
男は短く息をつき、手にしたフラッシュライトで闇を切り裂いた。黄ばんだ光が、剥がれかけた壁紙と散乱した家具の影を長く引き伸ばす。
白文字でEROと書かれたゴアテックスのジャケットの裾を払いつつ、彼はすぐ隣の相棒と視線を交わした。
まったく同じジャケットと、これだけ暗いのにサングラスを着けた相棒は、がっしりとした体格の黒人男性だ。
無駄口は叩かず、任務には忠実。だが今、彼の顔にもわずかな緊張が浮かんでいる。
二人は廊下の先、ひときわ古びたドアの前で足を止める。男が手袋越しにノブを回すと、扉は軋みながらゆっくりと開いた。
「……いたな」
男が低くつぶやき、懐中電灯の光が部屋の片隅に縮こまる人影を捉える。
少女だった。年の頃は十五、六。薄汚れたフード付きのパーカーに身を包み、怯えた目でこちらを見返してくる。
青白い生気を感じさせない頬はこけ、唇はかすかに震えていた。
「ICE(移民・関税執行局)だ」
男はゆっくりとバッジを掲げる。
「君のステータスについて、いくつか確認したい。大人しく同行してもらおうか」
返事はなかった。
だが、次の瞬間、埃を被った卓上ライトが宙を走った。
まるで、誰かの意志に引かれるように一直線に。
部屋の隅から飛んできた物体が相棒の顔面を直撃した。
呻き声とともに彼の大柄な体が傾き、床に倒れ込んで体に悪そうな埃を巻き上げる。
「クソッ……」
男は悪態をつきながら、空中に指を走らせた。
ボヤッと空中に浮かび上がるキーボードの感触を確認し、サングラスに映し出されるデジタル数字と文字列を操作する。
「公務員への暴行、抵抗、妨害……逮捕要件は満たしたな」
片手を宙に浮く半透明のキーボードに添え、片手にライトという滑稽な格好で視線を少女に向けつつ、男は静かに一歩を踏み出した。
瞬間、冷たい闇に光が浮かび上がった。
1-1
「ヘイ、ベン。マイルズは?」
女の声が、いつもの朝の喧騒に紛れて飛んできた。
ホノルル出身のICEのERO(執行・送還業務)担当官、ベンジャミン・タカハシは答える代わりに肩をすくめ、カウンターのコーヒーメーカーのスイッチを押し込んだ。
ボタンの下で年代物の機械が唸りを上げ、数秒待ってようやく働き始めた。
「ウエストブリッジ総合病院。まだ意識は戻らないらしい。……まぁ、生きてはいるだろ、多分な」
同僚の女性捜査官は、デスク越しに顔をしかめた。
「また? 今月に入って三人目でしょ、重傷者」
「課長に言わせりゃ、生きてるだけマシなんだとさ」
ベンは苦笑を交えつつ、紙コップに注がれる黒い液体を見つめる。
……一応コーヒーの香りはするが、味は期待できない。
肩に羽織ったEROと書かれたジャケットには昨夜のホコリがまだ残っていた。
朝になっても、あの少女の怯えた目が脳裏を離れない。
女性捜査官が声を潜める。
「で、容疑者は?」
「拘束して引き渡した。まずオーバーステイで間違いない」
「やっぱり……最近、多いのよね」
彼女はコーヒーに手を伸ばしながら、口元をゆがめた。
「天使様はなんて?」
ベンはカップを手に取り、一口すする。
無料であること以外に、何の取り柄もないその味を無視して、ただ喉に流し込む。
「あいつら、あからさまに面倒くさそうな顔してたよ。最近じゃ『審判』の順番待ちも、ディズニーランド並みだとよ」
冗談めかして言いながら、自分のデスクに腰を下ろそうとしたそのとき……
「おはよう、ベン」
隣のデスクから声がかかった。
「ああ、おはよう」
「腰を下ろす前に一つ伝えとく。課長が朝イチでオフィスに来るようにってさ」
「……クソ、こっちは徹夜だってのに」
眼鏡を持ち上げながら発せられた声にベンは紙コップを持ち上げたまま、ひとつ深いため息をついた。
「課長、入ります」
ベンは軽くノックし、課長室のガラス張りのドアを開けた。
朝の光を受けて、ぼんやりと反射するガラス越しに、男のシルエットがゆっくりと立ち上がる。
「朝からすまないな」
デスクの奥で体を起こしたのは、白髪を短く刈り込んだ初老の黒人男性だった。
長年、無数の不法移民を国境の向こうへ送り返してきた生ける伝説。
その鋭い眼差しの前では、新人はもちろん、ベテランですら余計な言葉を控えるらしい。
「いえ……それで、何か?」
ベンは部屋の入り口に立ち、わざとらしく休めの体勢をとった。
「楽にしろ。昨夜の一件だ」
課長は短くそう告げると、無言でウォーターサーバーの前に移動し、冷水のボタンを押す。
紙コップに注がれる水の音が、不自然なほど長くエアコンの音ともに響いた。
「マイルズのことですか? 大した負傷ではないはずですが?」
ポートランド市警を予算削減で追い出された無口な大男と任務で組むのは、昨夜で三度目。
ベンはマイルズの無駄のない動きを『機械仕掛けの警官』と呼んでいた。
「……ハウスダストだそうだ」
「は?」
ベンは思わず眉をひそめた。言葉の意味が一瞬、頭に入ってこない。
「正式な診断結果だ。急性アレルギー性ショック。原因は、現場に溜まっていた大量のハウスダスト」
課長は表情を崩さず、淡々と告げる。
「……そりゃこの仕事、向いてなかったってことですね」
ベンが苦笑を交えて小さく首を振ると、課長もひとつ、短く息を吐いた。
「頭部の外傷は軽微だった。だが、復帰後は事務方に回す。まあ……いずれ辞めるだろうな」
「でしょうね。……で、次の相棒は?」
課長は言葉を返さず、紙コップを持ったまま振り返ると、無言で人差し指を立ててベンの背後を指し示した。
ベンがその指を追うように振り返ると、部屋の隅、応接机の前に一人の白人女性が座っていた。
姿勢を正し、スーツ姿で生真面目そうな雰囲気をまとっている。
「FBIから今月付でうちに転属になった。 名前は……」
「メイジー。メイジー・ロックウッドです。よろしく」
彼女は立ち上がり、すっと右手を差し出した。
「どうも」
ベンはその手を軽く握り返した。
ひんやりとした感触。
視線も固く、どこか冷たいものを感じる。
……こいつ、好きで来たわけじゃないな。
手のひんやりした感触に、彼女の中にあるERO業務への冷ややかな感情がにじんでいた。




