28 : Day -33 : Ōsakihirokōji
「やはり、神の子をこのような場所に残していくわけにはいきません」
酒を拒否し、立ち上がるヒナノ。
すでにリョージのつくった伝統の寄せ鍋はほぼ終了し、三田村らが持ち出してきた大量の酒とツマミで、場はほとんど「呑み」モードへ移行しつつある。
先日は醜態をさらしたが、きょうはそういうわけにいかない──。
深淵に暮らすマフユを除いて、全員がここで呑むことは拒絶した。
イスハークはゆっくり視線を上げ、酔ってはいるものの冷静な口調で言った。
「イブラーヒム(アブラハム)の息子の名を受け継ぐわたしだ。マルヤム(マリア)の子イーサー(イエス)は、我が子も同じなのだよ。信頼しなさい。髪の毛ほどの傷ひとつ、つけるはずがない」
「だけど赤ん坊は、母親のもとにいるべきでしょ。それはもう、まちがいなく」
赤ん坊に対して動機をもつのは、リョージも同じだ。
考えてみれば、やはりダッドの子はダッドに返すべきではないか?
しかしマルヤムならぬ源家に嫁いだ母には、少なからぬ問題がある。
「さあ、それはどうだろうね。あの家が、神の子にとって理想的な環境だとは、わたしには思えない。……すでに調べはついているのだ。父親なり母親なり、どちらかでも信頼に足るなら返す選択肢もある。だが、どちらも足りないと、わたしは思う」
リョージは返す言葉を失った。
父親は、その子が自分の子ではないと知っている。
母親は、ほんとうの父親について語らない。
状況としては、たしかにあまりよくはないだろう。
「それでも、ほんとの両親だよ! 返してあげるべきだと、私は思うけどな」
サアヤはリョージを支持したが、
「あるいは、神の家に」
ヒナノは神学機構を支持する。
イスハークは首を振り、
「信頼して託す、という選択肢もないわけではない。だが、はじめは信頼し、裏切られて、憎さが百倍になる、というパターンを、預言者ムハンマドも体験しているのでね」
長い反目の歴史が、キリスト教とイスラームを、神学機構の名のもとに統合したのは幻だったのか。
──ムスリムは最初、同じ「啓典の民」としてユダヤ教徒やキリスト教徒を、いわば兄弟と思っていた。
しかし途中から現実に気づき、徐々に敵を増やしていく。
たとえば『コーラン』では第4章あたりから、まずユダヤ教徒に「裏切られた」と感じ、敵意をむき出しにしていく。全114章の4章だから、だいぶ早い段階だ。
この時点では、まだキリスト教徒に対しては親愛の態度を示し、ユダヤ教徒ごときが偉大なキリストを殺せるわけがない、あれは別人だったのだ、などと記述している。
もちろん周知のとおり、最終的にはキリスト教徒とも決別し、以降、血塗られた凄惨な歴史を刻みつづけていくわけだが……。
「信頼に足りないのは、両親ですか? それとも、よもや」
「もちろん、神学機構には任せておけない、という意味ですよ」
にらみ合うヒナノとイスハーク。
ケートは、つまらなそうにぼやく。
「なんだ、また内輪揉めかよ……」
「そもそもアブラハムの宗教というだけで、いっしょくたに取り扱おうという考えに無理があるのです」
肩をすくめるイスハークに、
「文句があるなら比較宗教学におっしゃい」
ヒナノの応答もどこかズレている。
「唯一神というアイデアは、現在有力すぎて気づきづらいけど、そもそも特殊だよねえ」
ぼそり、と割り込むチューヤに、
「アイデアとはなんですか、傾けられた偉大な努力に対して、無礼ですよ」
期せずしてヒナノとイスハークの声が重なった。
とはいえ、残念ながら「唯一神というアイデア」の排他性には、議論の余地がない。
いかに「穏健派」と呼ばれる各宗派の権威が、平和だの共存だのと喚き散らしたところで、2000年このかた内輪揉めの止んだことがない「唯一神メソッド」に、平和など訪れるはずがないのだ。
このような危険な宗派は、もちろん仏教においても、日蓮系から阿含系、いわゆる新興宗教まで散見はされるものの、たとえば日蓮など排他性の高い宗旨は、時の権力者からは危険視され、忌避されることも多い。
基本的に、多神教のメソッドは、もちろん宗教である時点で危険性はつねにはらむものの、比較的に穏健といっていい。
「なんまいほーれんあーみだぼきゃべーろー」
象徴的なのがサアヤだ。
「テキトーな念仏やめい」
宗派によって重視する経典が異なるくらいは、リョージも知っている。
「だけどさ、いろいろ宗派があっても、なんとなく共存してるよな」
マフユがめずらしく支持するのは、宗旨というよりもサアヤだ。
「和をもって尊い国ですからな!」
なぜか偉そうにするチューヤ。
「もともといろんな神がいるから、新しい神もなんとなく受け入れたって感じかな」
多神教の代表格であるヒンドゥーに近しいケートも含め、ここでは唯一神の分がわるい。
「主は、他の神々の列に並べられることを忌避します」
当面、劣勢にあるヒナノの言葉に、イスハークは大きくうなずいた。
彼女にとっては、彼が唯一の味方であることこそが最悪の状況にも思われたが。
ヤハウェだろうがキリストだろうがアッラーフだろうが、啓典の民にとって、それは同じものだ。
一方、ミトラやバアルやキュベレーは、それぞれ明確に異なっている。
『コーラン』はもちろん、『聖書』類における「多神教」と「偶像崇拝」への蛇蝎のごとき嫌悪表現は、読んでいて空恐ろしさをおぼえるほどだ。
「神は唯一です。この世に八百万も、神がいるはずがないのです」
「いるとすれば、それは天使ですね」
一神教のふたりの意見は、このあたりでは一致する。
「もう呼び方のちがいだけじゃん、そんなの」
「リョージの世界だとさ、神というより仙人が主役だよね」
「それなら、よいでしょう。文化的多元性は尊重します」
「ヒナノンはほんと、リョーちんに甘いよねー」
「じゃあ八百万の神さまも、英霊ってことにしない?」
「だから呼び方の問題じゃん!」
「考えてみれば、オレらみんな多神教なんだな。一神教はお嬢だけか」
「おかげさまで平和ですぞ」
「宗教の問題ではありません。それに世界の半分は」
「わかってる。日本の部活では6分の1でも、世界の人口では2分の1が一神教、ってのは事実だ」
「だけど日本は、キリスト教が伝わって何百年、ずっと信者を1%程度に抑えてきたって聞いたよ。それってじつは、すごいことなんだって」
大航海時代を経て世界を染め上げたキリスト教。
その版図に、日本は含まれない。
「東アジアには、割り込む余地がなかったんだろうな」
「ある程度、強かったせいもあるだろ。文化的な意味だけじゃなく」
宣教師が到達したころの日本は事実、世界最強の国だった。
武田騎馬軍団に勝てる機動兵団は大陸国家にすら想定できない状況だったし、織田信長の鉄砲の活用は、あきらかに当時のヨーロッパより一時代さきを行っていた。
「あーそーだねー。アフリカとかアメリカとか小さな島国とか、いまキリスト教の国って、そのまえに宣教師とかいう人々を連れた集団に、ひどい目に遭わされてるもんね」
「ひどいやつらを排除する力があったおかげさまで、いまの日本があるわけだ」
軍事力の重要性に気づきながら、それを排除・抑制して鎖国へといたる日本の歴史こそ、注目すべき先進性を秘めている。
「一部に不幸な歴史はありました。しかし、その一部のやりすぎた人間のもたらした被害はともかく、結果として神の名をいただく栄誉に浴した事実は、さいわいです」
ヒナノは昂然と胸を張って言った。これっぱかりも、自分がわるいとは思っていない。
いや……たしかに事実、彼女自身はちっともわるくないのだから、わるびれる必要はない。
ただ恥ずべき人類史を築き上げた白人社会が、現在進行形で、しれっと世界のリーダーづらをしつづけていられるこの現実に疑義がある、という考えの者らは少なくない。
「あくまでも世界史の主人公らしいよね、その泰然としたところ」
「この物語の主役はヒナノンだって、どっかのおっさんも言ってた」
「どっかのおっさんと、やたら話すんじゃありません。ろくなもんじゃないですよ」
「そうだね、そんな気はする、あのおっさん、死ねばいいよね」
「そこまでは……」
「死ぬより生きることがつらい、というタイプもいるぞ」
「じゃあ生かさないと!」
「サアヤさんその性格……」
「神学機構なんてクソッタレだっていう考えには、ボクも同意するよ」
「世界を破滅させようとしているひとよりも、ですか?」
「ふん、その蛇の考えていることはクソッタレだが、シンプルなんだよ。心から憎悪はするが、全力でぶっつぶしちまえばいいだけだ。……だがお嬢、あんたらがやろうとしていることは、そうもいかん」
「それはお互いさまでしょう。われわれも、あなた方を一方的に力で押しつぶすわけにはいかないと考えている。すくなくとも、そういうひとは多い」
「そうでないひともいるわけだ。さしずめ弟クンの一味が、強硬派ってところかい」
「……コメントできませんね」
いつものように、いがみ合う方向にむかう鍋部の面々。
本質的には仲がいいはずだ、とチューヤなどは信じたいと思っているが、とくにケートとヒナノのぶつかり合いや、決定的にそぐわないマフユが加わると、修羅の巷だな、という諦念が押し寄せてくるのを止めることはむずかしい。
「ふん、終わりを呼んだやつらが、いまさら深刻ぶってんじゃねーよ。まあ、結果は同じでも、途中に腹の立つゲスを残しておきたくねーからな。……行くぞ、悪魔使い」
マフユに言われて、ふたりが反応した。
イスハークはすぐに気づいて、視線をチューヤに移す。
彼は気が進まぬふうにマフユを眺め、
「行くって、どこへ」
「あたしを殺そうとしたやつを、殺し返しに行くに決まってんだろ。あのクソ野郎、ぜったいにブッ殺す。背負ってる怨霊ごとな」
と、そのとき部屋の周囲に結界が結ばれたのを感じた者が数名。
かなり敏感なナノマシンだ。
ヒナノを中心に顔を見合わせたとき、彼女のふところでケータイが鳴った。
「もしもし、榎戸? ……なるほど、わかりました。それでは、さしあたりこのままとしましょう」
短いやり取りで通話を切るヒナノを見つめ、イスハークがその内容を忖度する。
「どうやら厳重な見張りをつけたようだな。強力な結界ならわたしも準備はしていたが、まあいい。きみたちに任せるとしよう」
そう言って立ち上がる。
全員、退去の流れができた。
「ぜひ、また飲みましょう。イスハーク先生」
見送りに出る三田村と丸。
モナはとっくに赤ん坊を寝かせに行った。
「もちろん、またうかがいますよ。モナちゃん、神の子をよろしく頼む」
歩き出すイスハークの横に、並ぶのはケート。
「ちょっと話を聞かせてくれないか、イスラームのウラマーさん」
「いいとも。風俗でも行くかい?」
「そうだな、いや、まあどっちでもいいが」
「ちょっとケーたん! メッメだよ!」
歩きだす7人の流れ。
順に靴を履き、部屋の外へ。
「オレも帰るわ。さすがに疲れた」
「よろしければ、お送りしますよ。……発田さん、東郷くん」
ヒナノの口からチューヤの名前が出ることは、もちろんない。
「ありがとー! たまにはお言葉に甘えちゃうよ、いいのチューヤ!?」
「お子さまはとっとと帰れ! お疲れリョージ!」
駅のほうへ向かおうとするチューヤの首根っこをつかまえるのはマフユ。
「待て。てめえ、つぎの仕事のこと忘れてねえだろうな?」
「ちょ、マフユ、酔っぱらってんの!?」
「あの程度の酒で酔うか。……サアヤ連れてこないのかよ」
「残念そうに言うな。やっぱ連れてったほうがいいか?」
マフユはしばらく考えてから、
「いや、ヤベエ相手だからな。連れてかないほうがいいかもしれん。てめえに任せるよ」
「おい、なんだその超ヤベエ感じ!」
「超ヤベエよ、決まってんだろ。あたしだって死にかけたんだ。そんなところにサアヤ連れて行けっかよ」
「俺ならいいの……って訊くまでもなかったわ」
「てめえの道を選べ、いいか、よく考えて口ィ開けよ」
マフユから意味不明のプレッシャーを受けつつ、しばらくサアヤとマフユを見比べていたチューヤは、たぶんシナリオ分岐なんだろうなと考えこんだ。
ほどなく決断する。この手の選択の早さは、他の面々もすなおに敬意を表す。
「よく寝とけよ。おやすみ、サアヤ」
「……おっけー。また明日ね、チューヤ。帰ろう、ヒナノン、リョーちん」
「おう、じゃまたな」
「ケート、病気に気をつけろよ」
「うるさい。ボクはまじめな……まあいい、じゃーな。せいぜい死ぬなよ、チューヤ」
3つの流れに分かれる面々。
分岐するシナリオのさきへ──。




