21 : Day -33 : Sasazuka
聖堂の2階では、コイバナが花盛りだった。
あまりにも友だちをつくりやすいタイプのサアヤの周囲には、年ごろの女たちが群れ集い、自然発生的に咲き誇るのは畢竟、ファニートーク。
仏教、イスラーム、そしてキリスト教という、世界宗教の雌雄を決するような恋の話を、ここを先途と語らぬわけにはいかない、という雰囲気にヒナノが流されてしまっても、彼女の自制心のなさを責めることはできないだろう。
──それは幼いヒナノが、宗教的体験に耽っていたときのことだった。
子ども用の聖書は、とっくに卒業した。
この早熟な聖女は、ダンテの『天国篇』を読み、十字架上できらめくキリストの美しい姿を見た。
それは傷だらけになりながら、なおかつ神々しく、天上の第五天に達して、曙光にきらめくキリストの栄光の光。
そんな夢想する少女の眼前に、ひとりの少年が転がり落ちてきたことから、物語ははじまる。
そう、これは物語だ、と彼女は前措いた。
天から女の子が降ってくる物語もあるからね、男の子が降ってきてもいいよね、とサアヤは妥協的に言った。
ともかくいまは、ヒナノに思い出を語らせるべきターンだ。
──彼は傷だらけで、薄汚れていた。
が、たしかに輝くような笑顔で、元気に立ち上がった。
「よっ、オラ、ゴクウ。よろしくな」
何ごっこをしていたのかは知らないが、彼はゴクウと名乗って笑った。
そのとき、外から響いた物音に、しっ、と指を立てて壁に身を潜め、むこう側のようすをうかがっているのは、鬼ごっこかなにかをしていたのだろうと想定される。
一瞬、宗教体験とまじりあった少年の姿が、幼児キリストと重なって運命を感じた。
いばらの冠に刺された優美なキリストの顔と、藪のなかを走りまわって頭の周囲にも例外なく切り傷だらけの少年の顔。
だが最大の問題は、ロンギヌスに貫かれたキリストの脇腹と同じ位置に、少年のTシャツも真っ赤に濡れていたこと。
「……おケガなさっているの?」
言われて、はじめて気づいたように、少年は自分の身体を見下ろした。
「そういえば、さっきからちょっと痛かった。いや、たいしたことねーよ、こんなん」
「いけないわ。手当てをしないと」
立ち上がり、だれかを呼ぼうとするヒナノの身体に手をかけ、無理に座らせる。
「いいって。かすり傷で大げさに騒ぐとか、かっちょワルすぎらー」
言いながらも、足元がおぼつかない。そのままヒナノの上に重なるように倒れこむ。
ふたりはしばらく、そのまま見つめ合った──。
「ヒャッハー! ヒナノンにもあるんだね、そーいうエピソード」
すてき、淡い恋物語ね、あたしも出会いたかったわ、それでその男の子とは?
周囲では、女たちの黄色い声が飛び交っている。
本来、そういう雰囲気になじめないはずのヒナノだったが、彼のことを思い出していると、なぜか心地よい。
問わず語りに、話をつづけた。
──彼の正体は、すぐにわかった。
父の仕事に付き合って、近所の教会の増築工事のためにやってきているらしい。
夏休みで暇だった、父親の仕事を見学する、自由研究、と理由はいくつも考えられた。
彼が地元の悪ガキと親しくなるのに、時間はかからなかった。
世田谷の高級住宅街に悪ガキなんかいない、と思われるかもしれないが、世田谷といっても広いのだ。ガラのわるい場所はある。
つぎに見かけたときも、彼は傷だらけだった。
「ケノーシス(神性放棄)をも思わせる拷問と磔による凄惨なキリストの図が、彼とはよく重なります」
「ふーん、身体じゅう傷だらけの少年なんだねー。ケガが好きな男の子っているよねー」
サアヤは、なぜか慎重な物言いで、ヒナノの話をうながす姿勢を崩さない。
最初に「ゴクウ」というわかりやすい偽名が出てきて以後、一度も出てこない固有名詞について、けっして問いかけるようなことはしなかった。
「いえ、ケガが好きというわけではないでしょうが、不可避的にそういう場面に出会うことが多かったのでしょうね、殿方というものは……イマーゴ・ピエターティスと重ねるのは不遜であると、承知はしていますが」
悲しみの人。
13世紀に十字軍によって西洋へもたらされた、ビザンティンのイコンに起源をもつ、絵画モチーフである。
墓から上半身を起こした正面観のキリストとして描かれる。
その身体には当然のように、いくつもの聖痕が刻まれている。
少年の「傷」は、ヒナノに深い印象を残している……。
彼と知り合ってから、1週間ほど。
夏休みは終わりかけていた。
学校がはじまれば、またしばらくは彼に会うこともなくなるだろう。
──そんな残暑厳しい、ある日。
近所の教会で、頭のおかしい司祭にイタズラをされた。
「なんか、よくあることみたいな物言いだね」
唖然とするサアヤ。他の女子の面々も一様に、悲鳴と非難の声をあげる。
ヒナノはごく冷静に、いつも以上に皮肉な物言いで話をつづけた。
「よくあることらしいですよ、欧米の教区では」
そういう変なイマームは、たしかにいますわ!
と、イスラームの女子からも声があがった。
彼女が、どこかのだれかを個人的に示唆しているような気もしたが、確率的に、たしかに一定以上の規模の集団に変態がまぎれこむ蓋然性は、構造上も避けようがない。
もちろん、どの宗教にも犯罪者はいる。
とくに、司祭という職業ほど、悪魔に取り憑かれやすい職種はない、とでもいわんばかりに、邪悪で淫欲にまみれた修道士、司祭は、けっして消え去ることがないのだ。
ヒナノは冷静な口調を装っていたが、声はややふるえていた。
思い出すと、寒気が走る。
当時、小学校低学年の幼女。しかも本来、ありうべくもない神の家で、よもやの事態。
教会の奥に連れ込まれ、服を脱がされた。
このことは秘密だ。これは神の御業なのだ。正しい信仰を保っているか調べなければならない。これは決まり事なのだよ。
ぼそぼそと言い訳じみた理由を並べ立てる、淫蕩な司祭。
どんなバカな幼女でも、みずからの危険を理解できた。
幼いヒナノにおいてをや、恐怖しかなかった。
──そのときだ、窓を突き破って彼が現れたのは。
「あくりょーたいさーん!」
叫び散らして司祭をぶん殴った。
8歳の少年と40歳の中年。戦闘開始。
悪魔の正体をさらしながら、絶叫して子どもを殺そうとする醜いおとなに、少年はひとりで立ち向かい──勝利した。
そして自分の血まみれの上着を、まだ聖餐台で呆然としている半裸の彼女に差し出して、言った。
「オレなんも見てねーから」
「…………」
「もし、だれももらってくんなかったら、オレがもらってやっから」
そんなことを言って、少年は駆け出して行った。
唖然とする少女たち。
ヒナノは静かに紅茶を飲んだ。
まさか彼のことを、こんなふうに語る日がくるとは思わなかったが、語ったことじたいは後悔していない。
とてもすっきりした表情で、ヒナノは微笑んだ。
「そんな少年に出会った、という物語です。あくまでも──」
「かっけえ……マジかっけえね、リ……その少年!」
サアヤの声に、女たちの盛り上がりも最高潮だ。
すてき、男前ね、根っからの泥棒さんだわ、そうやってお姫さまの心を奪っていくのね、あたしの心もわしづかみです、それでその男の子とは?
ヒナノは再び「物語です」をくりかえし、それ以上多くを語らなかったが、あの事件が南小路家にとって大きな意味をもったことは事実だった。
その後、事件そのものは、けっして大げさに騒がれることなく内々で穏便に処理された。
神学機構において、南小路家が東アジア教区の枢機卿まで上り詰めたのは、この件に対する謝罪の現れでもあったろう。
ガブリエルやミカエルという重要人物がヒナノやミツヤスについているのも、この件がきっかけだった可能性は否めない。
「くだらない思い出話ですわ。他愛ない、子どもの約束ですもの。きっとむこうも忘れておりますし、みなさんもお忘れになって」
長い話は終わった。
女たちはなかば呆け、しばし余韻に浸り、やがて楽しそうに、嫉妬交じりにヒナノを見ていたが、今回のコイバナ大賞は彼女であると認め、敬意を表して引き下がった。
いつでも頂点に立つことは心地よい。
それがヒナノにとって宿命であることを自身理解していても、他人に聞かせることなどないと思っていた話ができたことじたいに、一種の高揚感は長く残った。
と、そのとき。
にょ、と笑ってヒナノの耳元でささやく魔女がいる。
「そりゃ惚れるよね、まさかの再会だもん、昔から男前だったんだね、リョーちん」
ヒナノはハッとしてふりかえり、空恐ろしいものを見つめる目でサアヤを凝視した。
しまった、この女は恋愛体質女子、その手の話には異常に敏感だ、否定するか、いや泥沼だろう、彼女に対しては、むしろ藪蛇になる。
ヒナノはしばらく考えてから、冷静に言った。
「だれにも話さないほうが、よろしいかと思いますわ」
「そーだねー、うーん、まあ、そーかもねー、だけどリョーちんも、まさかの運命の再会なのに、ちっとも感じさせないってことは、完全に悪意なく、ほんとに忘れてるねー」
しみじみと首を振り、肩をすくめた。
複雑な表情で、サアヤを見つめるヒナノ。
このまま打たれる側にまわりつづけても、相手がサアヤであればさほど気にもならないが、好戦的な彼女の深層心理はふと反撃に転じる算段を立ててみた。
恋愛という戦場で、サアヤに勝てる見込みは果たしてあるか?
ためしてみるのも、おもしろい。
「そんなことより、あなたたちこそどうなっているのですか? いえ、どうなっているもなにも、あなた方ほどお似合いのカップルもいないわけですが」
チューヤとサアヤ。
恋愛話がしたいなら、この関係を掘り下げる、という手はありうる。
「あはは、やだなあ。そう真正面から言われると、ちと照れるねー」
「もうすこし手綱を引き締めたらどうですか? 自意識過剰で申し上げるわけではないですが、彼の視線は自由すぎますよ」
とくに胸にあたりをさまよう視線は、正直、ムシケラに等しいので気にしてなどいないのだが、ときどき機嫌がわるいときなどにはイラっとすることもある。
「そんなときは、遠慮なくしばきあげてくれていいよ、あのバカチン」
「遠慮するつもりはありませんが、かえって」
喜びそうで、とまでは言わずにおいた。
そこまで変態あつかいすると、サアヤも気分がよくないだろうと忖度したのだが。
「いいのいいの。みんな誤解してるみたいだし、あえて訂正するつもりもないし、なんとなーくそんな感じにみられても、さほどの害はないからスルーしてるけどね、私とチューヤは、付き合ってないんだよ」
「……は? なにを、いまさら」
「いや、ほんと。私とチューヤはね、そういう関係じゃないんだ」
サアヤは語った。チューヤとの来歴について。
チューヤを産んで、母親が死んだこと。
母親を溺愛していた父親は、本来は愛すべき息子を、妻を殺した存在として憎んでいると、すくなくともチューヤ自身が思っていること。
仕事に逃げた父親が不在の間、ほとんど棄児に近かったチューヤを受け入れて、サアヤたちは家族のように育ったこと。
「なるほど、そういう事情でしたか」
「なんかそんな話、まえにも部活でしたような気がするんだけど、ほんとヒナノンって、チューヤに関することに毛ほどの興味もないんだね」
「ええ、まったく」
断言するヒナノ。苦笑するサアヤ。
ここまで成就する希望のない偏愛もめずらしい。
「そのあとさ、私の弟が死んだんだよね、交通事故で」
「ああ、それは存じています。家族を失う悲しみは、大きかったでしょうね」
ヒナノは、これまででもっとも人間らしい表情を浮かべ、サアヤの肩に触れた。
「ありがと。うん、乗り越えたよ。なんとか。けど、しばらくはほんと、おかしくなっちゃっててね。よくおぼえてないんだけど」
「愛する家族、それも自分より年下の者が亡くなったのです。察するにはあまりありますわ」
「うん、で、私も記憶があいまいな時期があって、その途中、ようやくはっきりしてくる最初の記憶が、あいつのアホづらなんだよね」
サアヤのあいまいな記憶を突き破ったところに立つチューヤは、直立不動で、懐中電灯を自分の顔に向け、こう叫んだという。
ぼくは死にまっしぇん! あなたがチェキだから!
「……は? なんです、それは」
中学生のチューヤが、わけのわからない言葉を叫んでいる姿が、あまりにも想像を絶したヒナノは、それ以上の思考を拒絶した。
「あとから聞いたらさ、なんか私を慰めるためにそう言えって、お父さんの友だちが教えてくれたみたいなんだよね。私、なんかキョトンとしちゃってさ」
「でしょうね」
「そっからかな、私もなんとかふつうの生活にもどれるようになって。で、それ以来、チューヤは弟の代わりみたいになって」
「なるほど。たしかに家族、ですね。そうなると」
恋愛感情とは、ちがう。
ただ、お互いを大切に思う気持ちの強さは、他に比肩するものがない。
たいせつなひと、それを傷つけようとする者がいれば、牙を剥く。支えるのが男女の愛でも家族愛でも同じだ。
「だからさ、ヒナノンがその気になって、私からチューヤを奪おうと思ったら、意外に簡単にゲットしちゃえるかもね」
とサアヤが放った冗談は、ヒナノの精神を完膚なきまでに叩きのめした。
彼女は全身総毛立ち、ぶるぶるふるえながら、青ざめた唇で言った。
「想像させることが、罪になることもある。あなたは、すこし自覚すべきよ」
「あ、あははー。そんなにいやがるとは思わなかったよー。チューヤもバカだね、おかげで私も安心なんだけど」
ともかく、チューヤが「ヒナノ・ルート」を進めようと思ったら、そうとうな難関をクリアする必要がある、ということだった。
「嫌悪というか、突拍子もない話すぎて、想像の斜め下から不快な部分に突き刺さった感じでしたわ」
「ご、ごめんね。まあ、害はないから、あいつ、チキンだし。私としては、家族も同然のやつなので、あまり迫害はしないでやってほしいかな、と」
「失礼、そういうつもりはないのです。むしろ考えることすら、少ないので」
眼中にない、とはこのことを言う。迫害の対象ですらない。
好きの反対は嫌いじゃない、無関心なんだよ、と昔からよく言われているが、まさにそれだ。
「ともかく、ほら、やっぱり家族は大事でしょ? そーいえばヒナノン、弟クン、元気してる?」
「ミツヤス、ですか。まあ、そうですね……」
ヒナノは、わが弟とはいえ、測りがたい性格の禿頭を思い、嘆息した。
純朴なる神の使徒であり、美しいボーイソプラノの持ち主。その性格は、ひとことで言えば、敬虔。みずから神の武器となり、あらゆる冒瀆に神罰を下す。
家族の話も、とめどがない。
……地上ではそんな、呑気な会話が交わされていた。




